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2012年8月29日 (水)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(3)

『神学=政治論』から『エチカ』へ

『短論文』のなかで、示された神観と人間観は、『神学=政治論』のなかに横溢することになる。スピノザによれば、人間の自然権とは、神即自然から直接人間が得た権利であるが、それにもかかわらず、それは善なるものではない。むしろ通常の感覚では、したがって通常の倫理学では、悪に分類されるものである。スピノザの妙である。スピノザは、自然権を次のように定義する。「自然の権利および自然の法則は、それぞれの個性の本性の諸規則そのものであり、それぞれの個物は、これらの諸規則に従って、一定の方式で存在し、活動すべく、自然から決定されているのである。それぞれの個物は、自己の状態にとどまろうとする最高の権利、または自然から決定されている通りに存在し、活動する最高の権利を持っている」それは「あたかも猫が獅子の本性の諸法則に従って生きるべく義務付けられていないのと同様に」、人間はある一定期間を「欲望の衝動にのみ従って生活する」ということが起こる。この欲望の世界では、「争いも、憎しみも、怒りも、欺瞞も、拒否されない。要するに、衝動がそそるいかなることも拒否されていない」のである。ちなみに、欲望は人間精神にのみ適用される衝動のことである。それにしても、欲望の世界は、暴力と争いが満ち満ちている世界だ。

この忌まわしい世界像からスピノザの天才的把握が導き出される。彼は、人間の能力を過大評価しない。また、人間の理性により、考えられる法律や規則、そして法則の力をも人間性に即しているような力の限界を超えたところに持っていかない。徹底したアンチ・ヒューマニストのスピノザは、人間をも神即自然のごく小さな一部としか見ていない。したがって、個々の人間の欲望は勿論のこと、個々の人間の暴力も、それぞれ自然の制約のうちにある。自然界には寿命というものがあるし、人間界には病気がある。飢餓もあるし、食糧不足もある。災害は多発するし、事故は毎日のように起こる。人間の欲望と力は野放図を意味しない。それは自然界の鉄の法則に封じ込められている。

ただし、スピノザは、徹底した物理主義者であったから、何が力を大きくし、何が新たに力を産みだすかを知っていた。多数であり、多数者の再生産である。人間の場合は、要するに人口である。しかし、人間の場合はバクテリアと違って、素早く再生産できないし、増加もそれほどのスピードではない。そのうえ、大事なことは、個々人が精神的な存在でもあるので、それぞれが自分の能力を最大限発揮して、エゴイスティックに欲望充足を追及するという厄介な本性を持っていた。つまり、自然界においては、数が力であるのに、その数の多様性を実現するには、人間の孤立した欲望が邪魔をするのである。

スピノザは、そこで「狼」人間が「仔羊」人間に自然にへんかしたことを発見する。つまり、人間の孤立した欲望はかなえられることはない。人間ひとりで満たすことのできる欲望は皆無に近いと言ってよい。それは、生物的個体としての人間の宿命だ。人間は、分業と交換によってしか、おのれの欲望を満たすことは出来ない存在なのである。つまり、人間とは、本質的に社会的存在なのだ。脳髄の知的作用を最大の武器とする限り、この宿命から人間は、逃れることは出来なかった。人間には理性という能力が備わっている。理性は、人間存在の長期の持続を図るうえで、人間利害の共通性を発見させてくれる有力な武器である。この利害共通性をスピノザは、人間にとっての「真の利益」、「真の効用」と言い換える。

だが、「理性の命令のみに従う」人間は、ごく少数である。人間は、一般に、自分にとって「善と判断したことをあきらめるには、より大きな善への希望とか、より大きな損害への恐怖とかがなければならない」のである。これが「人間本姓の普遍的法則」だ。力学的法則ではある…。つまり、スピノザによれば、人間は、その本性からして、自分にとって利益になる道を必ず選ぶというのである。人間本姓は、そもそもこの功利主義から成り立っている。なにごとにつけ、個人の最大利益を保証することが当人に社会契約を守らせるための最大の動機となる。また、契約者自身の、重大な利益放棄を伴う社会契約がいったん交わされた以上は、強力な打撃力で、契約破りに不利益をもたらさなければ、契約を人間に守らせることなどできない。人間本性を冷静に観察すれば、そもそも、信義にもとづいて約束を永久に守り続けることなど、およそ人間には不可能だし、また、そのことを人間に期待してもいけない、ということである。そこで、人間は、自己の自然権を最大限享受するために、自然に人の集団を形成し、集団のルールを定め、まずは食糧生産と食糧確保にいそしむことになった。肝腎なことは二つあった。ひとつは、生産を強化拡大することだ。もうひとつは分配つまり欲望充足にかかわる規制の強化だ。こうして、生産強化と分配ルールの遵守に成功した人間集団だけが地球上に生き残ることになって、今日に至った。

つまり、「相互の助け合いなしでは、必然的に、惨めきわまりない状態で、理性を涵養することもできないままに生きていかねばならないことを考えた」人間は、「安全安心ととともに、最良の状態で人間たちが暮らすためには、必然的に努力と希求をひとつにしなければならないこと、したがって、各人が自然から与えられていた、すべてのものに対する権利を共同で所有するようにしなければならないこと、こうした権利が各人の力と欲望によってもはや決定されることはなく、むしろ、万人の一致した能力と意志によって決定されるようにしなければならないことを」完全に理解したのである。たしかに、スピノザは、人間の欲望を完全に充足するためには、このように、人間が団結し、あたかもひとつの肉体であるかのごとく、人間全体が一体化する必要性があると考えた。

スピノザは、この問いに対する答えも用意していた。だが、さしあたり、この答えは、集団のリーダー、いわゆるピッグマン向けの答えになっている。人間が個人的利益を捨てて、団結するには、そうした方が人間の利益になることを人間が発見することが重要である。つまり、最大多数を団結させるためには、人間同士のあいだに利害の共通性があることを個々人に発見させ、個々人に人間の共通の利害性あるいは共同性を自覚させる必要があるということである。ところで、人間性の共通性とは、もちろん人間本性のことであり、人間存在の真理性のことだ。こうして、スピノザの倫理学は、人間の真理発見能力およびそれらを秩序正しく整える哲学的能力と完全に結び付けられるのである。したがって、スピノザにあっては、倫理学は認識論となる。スピノザは、リーダー向けではない、大衆向けの答えも用意していた。それが最初の方で検討した市民社会の倫理としての神信仰であり、倫理と呼びたくなければ、市民社会の宗教であった。実に、この神とは、人類の利害共通性、人類の共同存在性の言い換えなのである。国家並びに社会はあらゆる手段を動員して、大衆に公益が最大の個人的利益であることを教え、大衆に公益を守らせるように規制していく必要がある。そうでなければ、欲望と力に支配されている大衆は、みずからの自然権、したがって、また、みずからの人間本性にしたがって、つねに集団を解消させる分散力として働くからである。

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