無料ブログはココログ

« 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(4) | トップページ | 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(5) »

2012年8月31日 (金)

あるIR担当者の雑感(85)~プレゼンテイション考

私の勤め先では、個人投資家向け説明会を企画しています。新しい試みをしようと試行錯誤を繰り返していのるは、以前にも、ここに書いた通りです。その準備もかねて、個人投資家に声をかけてもらって集客してもらうために、先日、証券会社の支店の営業員向けにプレゼンをしてきました。支店の店舗内でのプレゼンなのでパワーポイントは使わずに、レジュメを配り、口頭でプレゼンを行いました。その後、アンケートでプレゼンに対する意見や感想を募りました。その中で多かったのが、私のプレゼンがレジュメの通りに話をしなかったので、どこを話しているのか、レジュメの該当箇所を探すのに苦労したという感想が多かったことでした。私には、軽い驚きでした。

レジュメは単なる目安で、そこにとくに内容があるわけではないものです。説明の直前に配られても、さっと目を通せば、大体のことはつかめるので、あとは話をメモする時のメモ用紙代わり程度のものと思っていました。だから、レジュメの通りに話すなどというのは、頭にありませんでした。だいたい、学校の講義にしても、講演にしても教科書の通りの授業が面白かった験がないし、事前資料に書かれていることだけを講演で話している講師は手抜きでしょう。わざわざ、ライブで肉声を聞くということは、その場でしか聞けないことが聞けるからであり、話し手も聞き手を見て、どの程度の人々か見極めた上で生の話をするものだと思っていました。基本的にプレゼンもライブですから、聞く人反応を見ながら、話しのポイントを考え、聞く人の興味を引き出そうとすると、予め用意した順番通り話をすることは、その場のライブを殺すことになってしまうと思っています。

決算説明会でも、説明資料をつくりパワーポイントの画面をプロジェクターで投影していますが、社長には、その通りでなくてもいいから、自分の言葉で話して下さいとお願いしています。単に画面を読み上げるだけなら、来た人にとって時間の無駄です。

そう思っていたところが、レジュメの通り話さないことに対して、否定に近いコメントが多かったことは、上で私が時間の無駄といった形式的なことを志向している人が多いのでしょうか。そういえば、営業員が売込みの際にパワーポイントで作成したものをプリントアウトして持参し、そのページのとおり、それを読むだけで説明をしていると思っている人がいることに思い当たりました。私の場合は、そういう営業員の説明は、自分の言葉で話せていないことが明白なので、話を聞く以前として勉強してから出直してもらっています。

ところが、資料の通りの説明というのは、そういう、つまらない話の方が安心して聞くことができるということなのでしょうか。未知の話だからこそ知りたいと思うのだし、話についていけなかったら、それはそれで失敗というそれだけのことですが、予め、話す内容が分っていて、そのまま話があったというなら何の驚きも発見も失望もないわけで、単なる資料の確認でしかないように思うのですが。

たしかに、パワーポイントを駆使して、プロジェクターで投影した画面を使ったプレゼンには、そういう傾向があります。そのプレゼンで使用される言葉がリスクを回避したお役所言葉になっているケースがおおく、資料を見ていれば分かる内容を大袈裟に読んでいるだけというものが多いです。こういうプレゼンなら5分ほど時間をもらって資料に目を通して、プレゼンは省略して質疑応答に時間をかける方が生産的のように思います。私の偏見かもしれませんが、パワーポイントによる弊害というものではないかと思います。

アナリスト向け説明会や機関投資家とのミーティングでは、そういう形式的なプレゼンは時間の無駄ということになりますが、個人投資家に対する場合は、ある程度しょうがないのか、こういうことこそが、個人投資家を馬鹿にしていることの現れなのか、分かりませんが、プレゼンをどのようにするのか、今、思案のしどころです。

« 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(4) | トップページ | 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(5) »

あるIR担当者の雑感」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: あるIR担当者の雑感(85)~プレゼンテイション考:

« 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(4) | トップページ | 大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(5) »