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2012年8月10日 (金)

柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(17)

第3節 社会契約論から日常的権力の解析学へ

1.社会契約論と社会制度(システム)論

スピノザは、モーセは主催者であるというホッブスと同様の解釈に行きついた。しかし、最初の民主政型の社会契約がなぜ「まったくの理論」にすぎず、現実に機能しなかったのかという点を掘り下げたスピノザは、社会契約論の問題設定を転換する視点を、主に二つの方向から進化させていく。そのひとつが社会制度(システム)論の視点である。

スピノザによれば、モーセの体制は、その組織形態からして「神聖国家」と呼ぶものと解され、その最大の特徴は最高権力が分権主義的かつ連邦主義的に構成されている点にある。ヘブライ人国家においては、法律の解釈権とその執行権が各々の部門によって担われ、両者が相互に諮問・承認しあうという相互補完的な権力関係が保たれていた。さらに、行政権は、各支族の代表からなる最高会議体とその長(司令官)とによって集団的に担われていた。人民全体が、国務に関して同等の権利を持つ12の支族から構成され、各支族は長老の中から選ばれた首長をいただき、その首長らが最高会議を構成していた。

このようなスピノザの聖書解釈は、ホッブスの解釈とは全く対照的である。ホッブスによれば、宗教・行政・司法等のすべての権利は本来的には主催者に集中されていた。そして本来集中されるべき権力が分散され、主権者が権威を失墜させ主権の安定性と統一性が損なわれたことこそ、忌まわしい内乱が発生した原因だったからである。ところがスピノザによれば、ヘブライ人国家における最高権力の安定性と統一性は、統治権を分権主義的連邦主義的に構成することによって図られていたのだから、内乱が発生した主要な原因は、そうした政治体制が維持されず中央集権的王政へと移行したことにあった。

このようにスピノザが、ヘブライ人国家における分権主義的で連邦主義的な国家制度を擁護し、王政時代の権力構成に否定的評価を下したのは、彼が当時ネーデルランドにおいて、各連邦の自治を基礎とした民主主義的な連邦国家を構想していたことと密接な関係を持っている。また、同時に、主権者と臣民との一元的な権力関係を基礎づけるホッブスの社会契約論と主権者樹立の理論を、多元主義的で分権主義的な柔軟な政治構造をもつ権力論へと転換させる理論的作業を遂行することにもなった。

2.社会契約論と民族的伝統的慣習の問題

スピノザはヘブライ人国家の興亡の歴史から、社会制度論とともにさらに重要な問題を引き出している。それは民族的慣習の問題である。

スピノザは、世俗国家において宗教が果たす公的役割について再考しつつ、宗教を含む民族的習俗や伝統的慣習の問題を合理的理性的判断に従属しえない問題領域として設定していく。スピノザの定義しなおした概念に従えば、自然権や理性といった原理は特定の人間共同体や文化を前提とした概念ではなく、自然的普遍的な運動とその必然的法則を示しているにすぎないか、実際の歴史的社会的場面においてそれは、諸様態の直接的運動とその諸表象である民族的な言語、伝統、風習などとして浮上する。つまり、自然が創るのは、民族ではなく個々の人間のみだが、個々の人間が言語、法律、習慣によってはじめい民族として区別される。

スピノザは、聖書のエクリチュールを社会契約論のエクリチュールへ、さらにその制度化や「心の習慣」として読み替えることによって、特定の民族における伝統的で日常的な習慣や宗教と、社会契約論という抽象的普遍的原理とが実は同一の平面上に成立しており、宗教と政治とは対立する領域を成すというよりも、むしろ同一平面上に同一の観念秩序をもって成立していることを証明する。それによってスピノザは、排他的なナショナリズムと不可分であるような宗教と社会契約でなく、異民族間、異質グループ間のコミュニケーションが可能となるような心の習慣と社会契約が、全く異なる言語、象徴、記号といったさまざまな表象のなかに隠された最大公約数として社会的感情の地平を見通しているように思われる。

3.服従解除の権力観

以上のスピノザの議論の背後には、スピノザによるホッブスの権力観の転換を見ることができる。本来ホッブス社会契約論の前提によれば、主権者とは、反対した少数の人々を含めた多数の人々の同意によって、その人ないし合議体の行為と判断すべてが、「あたかも各人自身のものであるかのように権威づけられたとき」初めて成立し、「全臣民が、設立された主権者のあらゆる行為と判断の本人」となる。それゆえ主権者と全臣民との公における行為と判断は同一のものであり、主権者が、その行為と判断との源である臣民を侵害するということは、論理矛盾でしかない。こうしたホッブスの叙述を注意深くみると、主権者と多数の臣民のあいだの合意の現実的な同一性と、多数の人々の同意や委任によって主権者が「あたかも権威づけられる」という虚構の同一性とが、たくみにいいかえられていることがわかる。この現実と虚構の二重性は権力と権威の二重性と言ってもよい。

しかし、スピノザによれば、自然法とは自然の必然的法則に過ぎず、ホッブスがいうように人々が従うべき規範倫理的意味を持たず、政治的社会的生活は主権者と臣民の権利義務に関する正しい知識によって律されるわけではない。スピノザは寧ろ、社会契約論によって抽象的理念的に考えられた最高権力と、個人の日常的生活において具体的多面的に生み出される権力作用とが接点を結ぶ場として、制度や伝統や慣習、さらに宗教や心性など、私的領域における権力作用の分析に焦点を定める。スピノザは、国家権力の形成の問題を主権者対臣民、個人対国家という大きな図式なよってではなく、市民生活の場における個人対個人の力の競合、合成、離反という視点から分析し直す方法を提示した。そはちょうど当時数字に解析の方法が導入されたように、国家権力というひとつの大きな曲線を、個々の様々な社会的局面で解析して、そこにおける個々人の精神的身体的力の合成から大きな曲線の運動方向を決定しようとする、解析学的な手法だとも言える。ここに、権力の成立に関するホッブスの理論を全く逆転して考えるスピノザがいる。ホッブスは、公的領域における主権者の命令が正当で、その正しい理由に臣民が徹底して服従し、主権者の権利と権威が貫徹されれば、主権者と臣民との正常で一元的な権力の分配関係が成立し維持されると考えた。しかしスピノザは逆に、人々は「服従する理由」があるから統治権に服従するのではなく人々が服従するから統治権が生じると考え、権力とは、各々の市民が日常生活の場面でとる様々な服従の行為によって生み出され維持されていくと考えた。それゆえ権力成立の問題は、「人々が統治権の諸命令に服従してしまうように作用しているありとあらゆる事柄」を日常生活の場面で分析する、という問題から解かれて行かなければならない。ここには、自由で主体的な近代的自我が服従する理由にもとづいて主権の発動を要請し既存の権力を分配し権威づけていく権力論でなく、各人が日常的に権力を生産し権威づけていく権力論が、そして既にある権力に服従している各人がその理由と権威づけの無根拠性を、あらゆる具体的場面で解除し続けていく権力論がある。

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