無料ブログはココログ

« 柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(15) | トップページ | 柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(17) »

2012年8月 9日 (木)

柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(16)

第2節 近代的自我による主権者の要請─ホッブスとスピノザにおける契約解釈とピューリタニズム

1.ホッブスによるアブラハムの解釈

ホッブスによれば、モーセの「神聖国家」における神と人民との「信約」は、基本的には「信約による神の王国の最初のもの」であるアブラハムの信約を更新したものである。そしてホッブスがこの信約の内容で最も肝要な点として強調するのは、第一に神とアブラハムとが「契約」を結ぶ以前に、すでにアブラハムの主権的権利が確立していたという点にある。さらに第二には、神と主権者アブラハムとの信約が有効となるためには、それ以前にアブラハムの家族や子孫たちの「意志」が結集され、それがアブラハムの意志と同一なものとなっていなければならないという点である。ホッブスがここで述べている「意志の結集」とは、本来、生命体の心身の諸能力が、ある対象に向かって努力し運動する際に生じるものが「欲求」であり、そうしたさまざまな欲求の中から「熟慮」を介して、最後に現われた欲求が「意志」である。とすれば人々が意志結集し法律的な契約を結ぶに至るまでには、各人がみずからの多様な欲求を熟慮を介して相互に調整し整合させる過程が存在し、それが各人がみずからの「自然」としての心身の諸能力を欲するままに自由に行使し得る「自然権」を、相互に調整・結集・総合する社会的な運動過程として考えられる。ホッブスが、主権者が主権を有するとは、「主権者の行動が主権者のうちに結び合わされたすべての人々によって是認され、かつすべての人々の能力によって遂行される」ことであると述べているように、主権の成立とは、各人の「意志」ばかりか「欲求」「努力」などの側面をも含めた身体的精神的能力すべての結集・合成を意味している。

2.ホッブスの聖書解釈における主権者

スピノザはホッブスと哲学観・宗教観を大きく異にしているものの、こうしたホッブス契約論における力の根本原理を継承していると見ることができる。さらに、両思想家によるヘブライ人国家の契約の解釈には、共通点より相違点の方が多い。なかでも顕著な相違点は主権者をめぐる問題である。スピノザの聖書解釈によれば、最高権力は神と人々とが直接的に契約を結ぶことによって樹立され、そこには一人ないし少数の主権者は存在しなかった。ところがホッブスにおいては、神と人との契約、人々がし市民的な主権者を確立したのちにはじめてとり結ばれると解釈され、各人が勝手気儘に神と契約を結ぶべきではないと主張される。ホッブスによれば、神が契約を結ぶ相手は主権者のみである。国家においては、神の言葉を判定し解釈する権利は主権者のみに属し、臣民は主権者によって設立された法に服従すべきである。

しかし、本来モーセを主権者にいただくヘブライ人国家の契約は、アブラハムを主権者とした時の契約を更新したものであり、基本的に同一のものだった。しかし、モーセはアブラハムの権利の後継者であることを相続によって主張しなかったので、人民を支配する「権威」を欠き、人民は神がモーセに話しかけたことを信じる限りでのみ、モーセを神の代行者とみなし服従するよう義務付けられた。つまり、人民各人が、モーセの伝える神の言葉の真否を判断する権利を得たため、「人民の同意」と「服従の約束」なしには、主権者の権威も人々の主権者への服従も成立しないことになったのである。

3.ホッブス契約論とビューリタニズム

ホッブスが捉えたピューリタン革命とは、宗教的真理をめぐる争いが世俗国家に持ち込まれ、諸宗派が神の名を口実に主権者に対する服従を拒み、みずからの政治的主権の正当性を主張することによって、主権の混乱と分裂が引き起こされた内乱だった。それゆえホッブスにとって焦眉の課題とは主権の不在によって招来される内乱状態を解決し、各人の生命と生活を社会的に保証するという国家における最低限の目標を実現するため、まず第一に公の場における個人と神との直接的な契約関係を完全に断ち切り、個人の理性の発動による市民的な契約によってのみ国家を根拠づけることだった。そしてさらにホッブスは、すべての人々が合理的理性的な認識をもちうるわけではないのだから、人々がピューリタン革命に見られたアナーキーに逆戻りし無秩序な大衆に分解することを防ぐために、共通権力の統一性・普遍性・絶対性を体現する主権者を樹立することが必要不可欠だと判断した。

そこでホッブスは神と主権者とのアナロジーを強調し、キリストを介した三位一体説によって主権者の一人格性は強化されることになる。それゆえホッブスにとって、「多数決によって、彼等すべての意志を一つの意志とできるような一人の人ないしひとつの合議体に、彼等のあらゆる力と能力とを与えること」は、主権を樹立する唯一の方法となっていく。

4.スピノザの聖書解釈における主権者

スピノザも、契約に基づく民主政型のモーセ国家は現実には機能せず、人々は神と結んだ最初の契約と民主政を廃棄し、モーセを最高主権者として立てたとして、民主政型の国家構想をいったん退ける。

ホッブスの国家論において、「死の恐怖」が平和を求める理性の戒律とともに、人々を国家形成に向かわせる主要な感情的動機となっていたのと同様、スピノザも人々は「死の恐怖」を感じることによって主権者の樹立に向かったと聖書を解釈している。現在の聖書解釈学によれば、神に対して恐怖を感じる「聖なる体験」は、ヤハウェ宗教における契約の究極的な特色のひとつであり、その体験によって契約は一方的に神から恵みを受ける恩恵の契約であると同時に、人間がその契約に責任をもって応答する主体的倫理の自覚を含むものになると解釈されている。とすれば人間が神に相対したときの死の恐怖とは、人間が神と一体になっていた幸福な無意識状態を脱し、無限な神と区別される有限可死な自己の存在と自己の判断の倫理的責任を自覚した段階にいたったことを意味するだろう。そしてこのように近代的自我を確立した人々がともに神の声を聞くならば、人々は各人各様に神の言葉を解釈し、その身勝手な解釈を盾に相互に闘争を展開する結果を招く。これこそがまさにホッブスが近代人の原型としてとらえた人間の姿であり、各人が各人の神を口実に闘争する状態は、ホッブスがピューリタニズムによって招来されたとして批判する、イングランドの内乱状態と同じ自然状態である。

« 柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(15) | トップページ | 柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(17) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(15) | トップページ | 柴田寿子「スピノザの政治思想 ~デモクラシーのもう一つの可能性」(17) »