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2012年9月29日 (土)

カラヴァッジョ 光と影の巨匠(3)~「ナルキッソス」

私は、どちらかというと近現代の絵画の展覧会をよく見に行きます。機会があれば、つとめて行きたいと思っているのが抽象画の展覧会です。それが、今回は近世のバロック絵画、カラヴァッジョというのですから。勝手が違います。私は美術史家でもないし、そういうことを考えているわけではありませんが、絵画の概念が当時と今では違うし。画家のあり方とか、画家が絵画を描く目的とか動機といったものが異なっているはずなので、近現代の作品と同列に扱うのは、そもそもおかしいと思います。例えば、カラヴァッジョは芸術家ではなかったはずで、作品の芸術的価値といったことは議論してもしょうがないでしょう。というような堅苦しいことは、私は単なる素人で作品を眺めて、ああでもない、こうでもないと考えてみることが好きな人間なので、私の個人的で主観的な好み、好き嫌いで作品を見て、その感想をここで語っているわけです。とくに、私は、作品を商品として見てしまうので、そういう見方がカラヴァッジョのような近世の画家の作品に適当かどうかは、なんとも言えません。ただし、そういうことの本質的な違いは、私も認識しながら、ここで感想を書いていきたいと思います。

Caravaggionarcisoこの絵は、ギリシャ神話、あるいはそれをベースにしたオヴィディウスの「変身物語」にあるナルキッソスとエコーの物語を取り上げたもの。美少年ナルキッソスは、その美しさゆえに見る者すべてを魅了したが誰にも心を許さなかった。ニンフのエコーは、ゼウスの浮気を助けた罰として女神ユノーに罰を受け、話しかけられたときに相手の最後の言葉を繰り返すこと以外には口がきけなくなってしまう。そんなエコーが恋したのがナルキッソスだったが、自分から話しかけることが罰によりではず、恋は成就せず、エコーは失意のうちに衰弱し、森の中で声だけの存在になってしまう。それが木霊。それを見ていた復讐の女神ネメシスはナルキッソスに罰を与える。これによって泉で水を飲もうとして、水面に映った自分の姿に甲をしてしまう。答えぬ水鏡に映った自分の姿を抱こうとして泉に落ちて溺れ死んでしまう。

後にフロイト等によって、ナルキッソスの水面に映った自分の姿に恋するところを自己愛とか、自己陶酔といった意味合いのナルシシズムという症例として理論化されていきます。しかし、カラヴァッジョ の時代はそのような精神分析などというものはなく、そういう近代的な神経症というよりも神話の有名なエピソードとして取り上げたのだと思います。疑問なのは、この時代の画家は注文によって絵画を制作するのですが、誰がどのような事情で注文したのか、おそらく有力な聖職者か裕福な市民がギリシャ神話の話を部屋に飾るために工房に注文したのでしょう。

それにしても、この作品は、そういう注文には似つかわしくない、さっき余計なことを書きましたが、後の精神分析のナルシシズムということの説明にピッタリとくるような画面になっています。そこで、どうしても現代の視点での解釈を施したい誘惑に駆られてしまうのです。カラヴァッジョ が死後忘れられていたのが20世紀に再発見され、急速に人気作家となったのは、そういう要素が大きいと思います。たとえば、同じ題材を扱った、古典派のプッサンやラファエル前派のウォーターハウスの作品と比べてみるとカラヴァッジョ の作品が同じ題材を扱っているとは考えられない程大きく違っています。他の二つの作品では、緑豊かな明るい風景の中に、ニンフのエコーや泉の周囲の花など物語に関する事物が描かれています。これに対して、カラヴァッジョ の作品は、ナルキッソスが水面に映る自分の姿に恋した瞬間の集中し、それ以外のものは本質でないとして排除してしまっています。まるで、ナルキッソス自身の心の風景とでもいった現代的な解釈ができてしまうのです。明るいはずの周囲を敢えて暗くして、ナルキッソスの表情にスポットライトをあてて、その瞬間の表情の動きから、彼が恋に落ちたことが一目でわかるような措置が施されています。実際、観る者の視線はナルキッソスの顔に自然と導かれますから。そして、ナルキッソスのプロフィールが何と切ない表情をしていることか…。この全画面が、この表情にむけてみる人の視線が集まるように画面が構成されているように見えます。比較した二つの作品では、そういう視線の集中というよりも、物語の場面を過不足なく要領よくまとめたという感じですが、カラヴァッジョ の作品はナルキッソスの内面のドラマを描こうとしているように見えてくるのです。これって、近代以降の芸術の見方ですよね。そのために、この恋の対象となる水面に映ったナルキッソスの姿を描く必要があった。そして、ナルキッソスが水面に映る自分の姿を見、それが自分とは気が付かないような、水面への接し方を示すひつようがあったため、この作品のような不自然なポーズを作らざるを得なかったのではないか。実際、なんかナルキッソスのポーズは不自然で不格好というか、画面の中で決まっていない。これなど、美よりも真実を優先する近代的志向にぴったりくるものでしょう。その結果、画面の構成が上下で水面を境界線として上下対称の構図、まるで、トランプのキングやクィーンのカードのデザインのような、図式的なものになった。しかも、このような図案は精神分析でいかにも使われそうなデザインです。そして、全体の暗さ。これは光と影というキアスクーロの手法から取らざるを得なかったのかもしれませんが、心理学でいうナルシシズムはコンプレックスを起源とすることが多く、この画面の暗さは自己愛の基盤となっているコンプレックスの闇であるという穿った解釈だってできてしまうのです。

また、気が付かれた方は多いと思いますが、ナルキッソスが来ている衣装がカラヴァッジョ の作品だけ違っています。他の二人の作品では、いかにもギリシャ神話に出てくる狩人の扮装ですが、カラヴァッジョ の場合は当時の青年の来ている服をきているようです。現代ならTシャツとズボンというところでしょうか。つまり、ギリシャ神話の一場面から、現代に置き換えて普遍的な青年の悲劇として描かれている、当時としては。それを見た当時の人は、どう見たのか。単なる神話の一場面ではなく、自分にもあるかもしれないという一種の共感を持てることがあったのではないか、それが感動ということに連なって…、という近代的な解釈にどうしても傾いてしまいます。

この作品で、物足りないと思うのは、その一番大事なナルキッソスの顔の描き方です。私には、描き込みが足りないように見えます。影が薄く、生気があまり感じられない。顔を見る限り、とても美少年には見えない。そこが絵画作品として、どうかということです。

最後に脱線です。日本のアニメーションはリミテッドアニメと言われています。それはディズニーのようなすべてを動画で描きスムーズで滑らかな動きをするアニメーションに対して、低予算で動画のコマを描くことができないため、背景を省略したり、動きがぎこちなかったり、ときには静止画で時間を稼いだりしたものです。それを日本のアニメーターたちは劇的な効果や心理的な効果に逆に利用しました。それが日本アニメに独特の心理的な掘り下げた描写などに結晶していったといいます。たとえば、「あしたのジョー」のラストシーンですが、本来リングの周囲にあるはずの観客やセコンドなどすべてが省略されてジョーたけが描かれています。そして、カラー画面であるはずなのに色彩が排除されて、燃え尽きたというジョーの姿を象徴的にあらわし、この場面では本来画面が動くはずのアニメーションが動きすら止めてしまったのです。なんか、カラヴァッジョの、この作品に通じるところがあるのではないか、と現代の観客は思ってしまうのです。

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