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2012年9月 4日 (火)

あるIR担当者の雑感(86)~仕事を引き継ぐということへの懐疑

今、私が就いている業務について次の世代である若い人に引き継ぐことを考えて、部署内の担当を任されることになる人に少しずつ業務や、その前提となる知識を引き継ぐため、知識を教えたり、マニュアルを作ったりしています。そういう、今、制度として一律に、知識とか、仕事ができるということを、完全に継承するのは不可能だということです。

仕事とか技能、あるいは業務知識の継承という時に、形式知と暗黙知という区分がよくなされます。形式知はマニュアルに書かれているようなはっきりと形式化した手順や知識で、コンピュータの操作方法といったようなものです。これはマニュアルが作られ、手順なので、これをやって次はこれ、というように教えることは可能と考えられています。これに対して暗黙知というのは、マニュアルにしにくい部分、暗黙の了解ではないですが、その時々に応じて柔軟に対応するという類のもので、習得には経験が必要とされていますが、見える化の作業により形式化を進めるというのが、昨今の傾向のようです。ご多聞にもれず、私も同じように継承の努力をしていますが、どうもうまくいきません。それは、やり方がまずい、その他いろいろと原因を考えてみました。しかし、よく考えてみると、私の周囲にも他の会社のIR担当者でやり取りをしていると、中に「こいつ、何も分っていない」という人がけっこういますし、仕事上でやり取りする業界(?)の人たちにもそういう人を見かけます。中には、有名なメジャー企業で業務の継承のシステムがしっかり構築されているようなところの人にも見られます。だからといって、継承がうまくいかないのは、私のせいではなくて、相手がダメなのだと愚痴をこぼしているのではありません。

そこで、少し考えますが、さきほど「こいつ、何も分っていない」と私が感じることがあると書きましたが、その感じることに何か根拠があるかというと説明はできないのです。話をしていて何となく分かるというのでしょうか。反対に、そう感じられた相手の方は、そう言うことを感じるということはないと思います。つまり一方通行なのです。こういうことを言うと誤解する人が多いと思いますが、この時の私とあいての間には、出来ると出来ない、あるいは分かると分らないということで境界が引かれていて、その此岸と彼岸、つまり、こっち側とあっち側に分かれている状態にあると思われます。そして、一方通行と行ったのは、出来る、分かる人は、そのできる側のことも分かるし、出来ない側も分かるのですが、出来ない、分らない人は出来ない側しか分らないということです。だから、一般的には、出来る、分かる人が出来ない、分らない人に教えてあげて、出来る側につれて来ないといけないと考えられてきました。しかし、それは出来る、分っているからこそ言えることではないかと思うのです。例えば、形式知はマニュアルで継承できるといいますが、最近の流行語である「想定外」と事態では、分らない人でマニュアルで仕事をしている人は対応できません。そう言うことがないように、と「想定外」でも対応できるマニュアルを作ろうとしているようですが、これって論理的に矛盾しているし、最初から破綻した行為です。つまり、何が言いたいかというと、マニュアルというのは、出来ない人がその通りに手順を踏んで仕事をするためのものではなくて、出来る人が記憶を呼び戻したり、覚えきれないことのメモランダムとして使うことではじめて真価を発揮するもので、できるということが前提なのではないか、ということなのです。

ハッキリ言います。出来る、分かる人と出来ない、分らない人の世界は違うのです。両者にとって世界は違って見えるのです。そこで、出来る人が出来る側の世界のことをいくら教えても、違う世界の人には理解することはできないのです。先ほどのマニュアルのように、個別の段取りについて機械の操作で個々の指の動かし方といった表面的なことはつたえられるのですが、なぜとかその意味といったことが実感として、その時に何に注意すればいいかを自然と想像できるというのは、いくら個別の注意事項を一つ一つ暗記させても追いつかないのです。それは、出来ない側にいる人にいくら教えてもだめなのです。それが理解できるというのは出来る側の人になって、そういう世界が見えることといっしょなのです。こういう言い方は傲慢に聞こえるかもしれません。

そこで、大きな問題として、そんなに大きな断絶があるのなら、そもそも継承ということは不可能なことではないか。ということがあると思います。多分、一律にマニュアルとか講習とかいうような方法では出来ないと思います。そこで継承ができたというのは、たまたま、上手く言った人の個人的な要因によるものと、断言してしまいましょう。では、どうすればいいのか。一つのヒントは、以前の職人の世界などでの修行と個人対個人の師弟関係による技能の継承です。このとき、たいていの場合、師匠は弟子に教えるのではなく、弟子が師匠の技を盗むことで継承が成就されます。他の場合は、肝心な点を弟子が自らの工夫で自ら会得するというようにことです。その裏では師匠が見守っていたりしているのですが。そして、秘伝の伝授という場合には、弟子が出来る、分かる側にいることが確認された後に行われるのです。出来る、分かる側につれてくることを師匠が積極的に行うのではなく、弟子が自ら出来る、分かる側にいこうとして、境界を越えるのを辛抱強く待つのです。

スピノザという近代の哲学者がこう言っています。真理に達した人は、それが真理であると分かる。それは真理なのだ。しかし、それが分らない人は、分らないので真理である根拠を言えとか、証明を求める。しかし、例えば一つの理由をいえば、その説明した理由に対しての理由が必要になり、無限に理由を説明しなければならない。証明もそうだ。しかし、真理を得た人にとって真理であることは明白なのだ。逆に真理に達していない人は、その真理が見えていないのでそれを否定することはいくらでもできるのだ。だから、真理に達していない人の側に立って、真理を説明しようとしても否定的な結果を招くだけなのだ。といいました。スピノザの師匠にあたるデカルトは方法的懐疑という方法によって、すべてのものを疑って、最後にこれだけは疑えないものとして、それを疑っている自分というものが存在しているということは確実だ。といいましたが、これだって、疑おうと思えばいくらでも疑うことができます。そういう師匠の中途半端さをも批判して、スピノザはいったわけです。

哲学の大問題を身近な仕事の引き継ぎに当て嵌めるのはどうか、現実にはそれで仕事の引継ぎが実際に行われているではないか、といわれれば、たしかに形式的にはそうです。でも、例えばIR担当者の場合をとっても、説明資料をつくるとか作業をして、どこまで、その本来の目的を把握して、企業に意味のあることをしている担当者が4000社弱の上場企業の何人ができているか、恐らく大半はチャップリンが『モダンタイムス』という映画で揶揄的に見せた同じ動作を単に繰り返しているだけとほとんど変らないことを仕事と思っているひとが大半なのではないかと思います。多分、こんなことを書いている私自身も、その大半の方に含まれるのでしょうけれど。

わぉ、デジタルの時代に、なんてアナログで、アナクロなことを書いているのでしょうね。でも、実際、できない奴、分かっていない奴と仕事をすることほど苦痛なことはないのです。そして、そういう奴に限って、自分ができない、分かってないことが分かってない。

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