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2012年9月16日 (日)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(13)

第3章 神の認識は人間を幸せにする

神の本質と人間の救済

幾何学的厳密さを持つ推論によって、神即自然が確立され、従来の人間的表象から神観が解放された。しかし、スピノザが論証した神は、それでは、人間にとってどのような利益をも表現しないということなのだろうか。

スピノザによれば、この問いは相変わらず主客転倒の間違った論理を基礎においている。問われるべきは、神が人間になんらかの利益を直接的にもたらすかどうか、という点にはなく、人間側からの、このように科学的な神認識が人間にどのような「間接的」利益をもたらすかなのである。ところで神とは全自然のことである。そして、「神の働き」とは「法則」の言い換えだった。ということは、結局、神は、全自然を統括する自然法則を介して働いているということになる。つまり、ここでは、スピノザはデカルトの見解と同じで、神を言わば、完璧な宇宙=時計を製作した職人と見ているのだ。神が作った、一切の欠如を持たない宇宙=時計は、厳密な自然法則に即して動く。それは、神自身の本性である鉄の必然性に従っている。これが神の「働き」である。

これは、人間から見ると、神が自由原因で、誰からも動かされない以上、人間の救済は、自分の方から一方通行的に神を求めるということにしかならない。人間の側からいくら神に働きかけても、神の他には何も存在しないのだから、神への働きかけそのものがあり得ないことである。だから、神は人間からの働きかけに反応することはない。ましてや神からは、なにも見返りはない。神は他者というものを持たないから、受動を持たず、従って他者に反応して行動することもない。だとすると、人間は、ただ神の働きを見ることによってその働きと反しない生活とはどういうものかを把握し、文字通り、法則的な生活を送ることによってしか、幸福になることは出来ないということになる。このことは、神の働きが自然の法則である以上、結局、人間がこれまでのように、信仰の目ではなく、科学の目を持ってしか、神の働きを正確には知覚できないことを意味する。そして、スピノザは、内在的有神論者だから、この事態を神の側から見ると、神についての科学的な認識を人間が獲得することを通じて以外に、沈黙の神は、人間になんらの利益も、救いをも、もたらし得ないということになる。科学の目で神を見ることによって、もたらされる利益とは、事物の正しい認識すなわちゆるぎなき真理である。この真理は、正確な原因指定に支えられているからこそ、われわれの行動規範すなわち倫理の真理性を保証し、そのことによって、われわれの行動にゆるぎなき土台を与えるのである。こうして、結局は、神即自然の科学的、学問的把握と人間の倫理は切り離せない関係にあることが分かった。

倫理学批判

永遠なる自然としての神は、既成の信仰や通常の信仰や通常の倫理学で言うところの、人間の期待に応えて、救済を齎す善なる恩恵=存在ではない。神は、ただひたすら、存在すること、というみずからの本質に即したあり方をしているだけの無関心=存在である。というよりはむしろ、世界の存在を支えるためだけに存在している。いわば善悪の利害関係から離れた純粋存在、存在のためのアトラス、存在のための存在なのだ。

通常の倫理学は、つねに、人間行動は善悪判断を基準とすべし、というア・プリオリな至上命題から出発してきた。スピノザは、こりア・プリオリな善悪の判断基準を、神の完全性と普遍性を確立することによって、倫理学から排除した。それとともに、人間から見れば、神は人間界のあらゆる事象およびその生起からは離れ去った。主体そのものであり、受動をもたず、完全な能動的存在である神即自然は、対象となる他者をまったく必要とせず、ただひたすら存在しているだけのものである。したがって、神即自然は、欠如をいっさい持たないがゆえに、なにごとをも望まず、欲望しないし、働きかける特別な対象も持たないし、そもそもそのようなものを必要としない。その結果、人間の宿望である、神による人間の救済は、全面的に否定される。つまり,人間のなんらかの行為や働きかけによって、神が救済に動くということは、いっさい否定される。しかし、人間にとって、この神による救済否定ほど、すばらしい神からの贈り物はなかった。

神は、なにものからも働きを受けない、純粋完全能動性であるがゆえに、永遠不滅である。なぜなら、神は、いかなる外部原因によっても動かされることはないから。したがって、神は「必然的に存在し」、死を知らない「生」である。この神の本質は、すべての人間に、人間の救済どころではない利益を与えてくれた。神の様態に過ぎない、どのようにか弱い人間にも、その本質を生存への努力とせよ、と神は言ってくれたに等しいのである。爾来、生きるために生きる人間こそが最高の人間らしい人間となったのだ。欲望=人間が肯定され、旧来の倫理学の規範は粉砕された。

そこで救霊予定説はどうなる?

この神対人間の関係は、同じく従来の神信仰に対する批判から成立したプロテスタンティズム、とりわけそのカルヴァン派的救霊予定説とは、同じ宗教批判から出発しているので、人間の救済において、その外見的には似ているが、本質においては、両者は全く異なっている。

カルヴィニズムも、スピノザのように、全知全能の神を前提としている。したがって、救いに働く全権限は神のみに属し、人間側のなにものをもってしても、神のこの救いへの決意と救霊予定を変更させることは出来ない。そして、神の慈愛とは、罪深く、無力で哀れな虫けらのような存在である人間にさえ、救済の手を無償で差し伸べて下さる、ということを意味していた。ところが、すでに見たように。スピノザの神は、そもそも救済意志などの人間的概念とは全く無縁な存在なのである。救済という言葉からして、スピノザの体系とは矛盾するし、完全な世界という前提を破壊する。一言で言えば、スピノザの神は、「隠れたる」神などではなく、いわば「死せる」神であり、比喩的に言えば、世界創造とともに永遠の眠りに入った神である。そして、創造と眠りは同時に起こった。

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