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2012年9月 8日 (土)

辰野登恵子/柴田敏雄展─与えられた形象(6)

Ⅴ.2000年代

このあと、版画作品の展示がありましたが、それは省略します。

1990年代のいたって空疎な作品群から、2000年代の作品に移ってくると何か鈍重になってしまったのと、へたうまの効果がより洗練されたのとで、折角の1990年代の統一感が減退したような印象を受けました。前回の私の受けた印象とは逆のことを画家は志向していただろうということが何となく分かります。それは、おそらく1960年当時の画家というイメージが原初的にあって、この人はその中で制作し、考えているということでしょうか。その割には、作品にたいして拙劣という印象をずっと拭えないでいて、素朴ではなく、その点が、すごく違和感が離れないでいます。

Tatsunoemeraldカタログでは、こう説明しています。辰野登恵子は、2000年代に入る頃からは、以前よりも具体性の強いモティーフをしばしば用いるようになった。たとえば箱のようなかたちがそのひとつである。「Red Line・Blue Line」を見てみよう。大きな画面は、ほとんどが黄色で埋め尽くされている。モティーフとなっているのは、前後が開口となっているように見える箱のような形象で、その堆積がふたつ見える。堆積は前後、左右にずれていて、右前方と左後方に分かれて立っている。右前方の堆積には箱が4個、左後方の堆積には5個が、それぞれ部分的にせよ見えている。このようなモティーフの設定条件は他の作品にも繰り返されている。ずれは初期から親しいものであった。したがって、ずれは偶発的なものではなく、作品にとって本質的な偶発性と言ってもいい。「Red Line・Blue Line」でも、箱のようなものの堆積が左に5段、右に4段見えているのは、ある情景を切り取ったアングルの中に、たまたまそのように見えたのではなく、最初から数がそのように設定されているのである。とはいえ、それは作品のテーマ、描かれる絵の内容というわけではない。それらはスポーツにおけるルールのような、あらかじめ定めた制約の中で、最高の表現をしようとするもののようだ。「Red Line・Blue Line」では、箱のような形象が重なった状況のイリュージョンを作り出すことが、ひとつの大きな課題である。水平のエレメントと垂直のエレメントがあり、それぞれの位置関係がある。さらにこの作品では、ほとんどすべてが黄色い水平のエレメントも垂直のエレメントも背景も、画面上ではほとんどが黄色い四角形に変換される。画面全体では、それが40以上も存在しているのである。どのパートの色彩がどのような彩度であり明度であるべきか、どのような筆触で、絵の具の固さで塗られるべきか。画家は、画面の中で、それぞれのパートをどのように作り上げ、どのように相互に関係づけるかを、すべて決定し実践していかなければならない。それは何もないところから絵筆と絵の具だけで、一つの伽藍にも匹敵するような構築物を作り上げる行為に他ならない。セザンヌの場合、モティーフを前にしながら、眼前モティーフは単なる口実であり、絵を描くことは抽象的に絵を組み立てることに他ならなかった。絵画とは、再現ではなく構築されるべきものであり、そのために画面上に正しい筆触をおいていくことが求められるし、必要なことはただそれだけなのだ。

引用が長くなりましたが、そう言うことだそうです。つまりは、反復と切断を画面上で追求していくためには、反復させるものがないとできないわけで、それを持ち込むために形式、あるいは制約が必要で、そのために箱というような形象を持ち込んだということでしょうか。しかし、そのために、この形象は何かとか箱かということに注意が行ってしまうリストを画家はどう見ていたのでしょうか。空間とか環境全般を描きたいとか、自分の作品は抽象でも具象でもないというようにことを述べているようです。多分、全体の関係が重要視しているのでしょう。しかし、私にはこの作品の魅力は、むしろ細部にあって、黄色の筆致というのか不定型な筆の動きが、コピーされると画面に波が生じるように不定形に動きを与えているところです。画面に動きが感じられるというのでしょうか。それがコピーされた黄色が鮮やかな所だけが残って印象を強くします。そういう効果の点です。そういう効果の点がより前面に出ているのが、「Emerrald1/2」という作品で、背景を点描のように描いているところが、これまた下手くそで点描というほど揃っていない筆使いが、かえって不規則で、一定しない色がそれを助長し、落ち着いた感じがしないのが、印刷物や画像データでみるとうまく洗練されて、動きを与えられていて飽きさせないのです。これを計算してやっているようだったら超絶テクニシャンです。また、構成とか、そういうことならばカタログの解説が取り上げた作品よりも「室内」という作品の方がスリリングで面白いです。もっとも、「Red Line・Blue Line」は展覧会のチラシやポスターで使われているものなので、今回の目玉なのでしょうから。

展示空間は広く、ゆったりしていて、鑑賞する人影もまばらで、現代ものの展覧会はこんなものなのでしょうけれど、静かな時間を過ごせました。展覧会カタログは豪華な感じですが。大きすぎます。帰りの荷物になることを考えてほしいと思いました。

このあと、最近の作品の展示がありました。まっいっか、という感じです。

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