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2012年9月19日 (水)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(15)

ヒューマニズムと反ヒューマニズム

人間の共同性に本質的な愛は普遍的な愛であり、それは、人間の倫理的・即物的なら善悪を超えている。善人を愛するということは、自分にとって、利益を与えてくれる存在を愛することである。逆に言えば、悪を憎み、悪を隔離し、悪を差別し、悪人を愛さないということである。それは誰にでもできる、新約聖書は言う。この誰にでもできる愛の実践を教えるのが従来のイデオロギッシュなヒューマニズムであり、それは、特有の善悪観念を前提として持っている。しかし、スピノザは、既成の善悪観念を転倒させることによって、これを葬り去った。善であるから、快なのではなく、快と感ずるから善なのである。したがって、肝腎なのは、いかにして人間に快を感じさせるかである。

ホッブスのように、人間は自然から欲望、恐怖、怒りその他の情念を受取ったために、悪への能力を持つに至ったと見ると、この悪を抑え込むには、悪に走る人間を抑圧によって、封じ込め、彼らに、たとえ奴隷の平和であってもかまわないから、市民の平和を守るようにしなければならない、ということになる。他方、人間本性は、善だと考えても、自由意志の働きの結果と見なされたすさまじいばかりの悪行の数々を抑えこむためには、人間の本性を情欲をまず、抑制する必要がある。そのためには、「目に見える」リヴァイアサン的権力を人々の間に、確立しなければならないということになる。ホッブスは『リヴァアイサン』で明言する。人々が互いのあいだに、諸制限を導入する「意図」は、「人びとの自然な諸情念の必然的帰結たる、戦争状態から逃れ出ることを見越してのことである」。人間というものは、「目に見える権力」が彼らを「畏怖」の状態に保っていなければ、この「自然な諸情念」の命ずるがままになるものだからである。つまり、本来、人間には、自然法を守り、履行することができない、とホッブスは言う。それは、人間が本性上、「蜂や蟻のような社交的動物ではない」からだという。

なぜ人間は、このような動物と同じではないかと自問するホッブスは、次の六つの理由を挙げる。第一は、人間が名誉と地位を求めて競争する本能を持つこと、第二には、私益の追求に走るので、公益と私益の不一致が起こること、第三に、他人よりまさる理性を持っていると考えるために、他者にとってかわって、支配しようと考えるから、第四に、言葉を持っているため、欺瞞と扇動が容易であること、第五に、理性を持つ存在であるため、他者を支配しようとすること、第六に、「これらの動物にあっては、和合が自然なものであるのに対して、人間の場合には、和合は、人工的なもので、契約によってのみ」成立するからというのである。

理性を持つことから、必然的に言葉が生まれ、欺瞞と対立が生じると言うのでは、人間が自然状態で、愛に満ちた和合を達成することは、本来的に不可能となる。人間は、強権によって諸情念を抑えつけなければ、平和は保てない、というのが以上の人間観から出てくる政治的結論である。これは、スピノザとは、同じような社会認識ではあるが、それを修飾する言葉は全く逆になる。

スピノザによると、人間の本性は、人間主体の側から見れば、生きる努力であり、そこから、必然的に人間同士の和合と分業が各人にとって、私益になるので、彼らは、これまた必然的に和合に向かう、というのである。しかも、私益が共益にあることを自覚する能力である理性を人間が持つがゆえにも人間は必然的に和合に向かうというのである。ホッブスとは、逆の理性観である。スピノザは、人間が基本的に外部栄養であり生きていくためには「本性を異にする多様な養分を摂取する必要がある」とし、「これらのものを調達するには、人間が相互に助け合わない限り、個々人の力では、十分でない」ことから、必然的に人間は、和合すると結論付けている。そうである限り、人間は生きていくために、必ず分業体制に入る。これは、同時に経済法則である。どの社会でも、個々の人間が生活に必要な全部のことをやっているようなことはない。超個人主義では、社会が存続しなかったから、そんな社会は、地球上に一つも残っていないのである。人間は、社会を形成し、その社会のなかに、必ず平和と安全を築き上げざるを得ないのである。いかなる形においても。そして、この和合を妨げるものこそが、スピノザに時代には、擬人神論に立つ宗教的偏見だったのだ。

『エチカ』の執筆目的に立ち返る

人間に対して、冷徹、無関心に見える「死せる」神を理論的に導出したにもかかわらず、スビノザは、『エチカ』、すなわち倫理学という人間観を確立し、そこから人間行動の道徳基準を引き出すための書物を書いた。この目的を考えてみると。

スピノザの哲学探究の目的は、全く単純なもので、最高の幸福をどうすれば、人間は手に入れることができるかを明らかにすることであった。『知性改善論』では、はっきりとこの目的が示されている。「日常生活においてしばしば起こることのすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられた私」は、「最高の喜びを永遠に享受できるようなあるものが存在しないかどうか」、すなわち人間が愛することによって、永遠の至福を手に入れられるものがないかどうかを探求してみようと考えたというのである。なぜなら、「滅び得るもの」を愛することからは、一時的な幸福しか得られないからである。一時的な対象への愛好からは、一時的な幸福しか得られず、それは、全体的見通しを欠いた一時の快楽でしかない。逆に、永遠の至福を手に入れることを望むなら、永遠無限なものを愛好するほかない。この「永遠無限なるもの」とは何か。『知性改善論』では次のような結論を言う。すなわち。全自然の「永遠の秩序であり」、「自然法則」である。もし人間がこのものを理解できれば、それと合一すること、すなわち愛による永遠の秩序との一体化によって、最高の幸福を手に入れることができるはずである。永遠の秩序に関する認識と愛によるそれとの一致は、「神への知的愛」として十全に示される。だが、認識と愛とが人間においては一致するのは、嫌悪すべき不完全な対象が認識つまり科学によって、全自然の秩序に置き戻されたとき、完全な対象に一変するからなのである。人間にあっては、愛するためにはつねに認識が必要なのである。しかもこの認識と愛との結合は。「初期」スピノザからの一貫した思考である。しかし、「人間的弱さ」ゆえに、人間は、「その思考によって、この秩序の認識には至り得ない」。とはいえ、人間は、「最高の喜び」、言い換えると、永遠に続く最高の幸福を獲得したいとの欲望を持つが故に、あくまで理想とするこの永遠の秩序を認識しようと努力する。この永遠の秩序と人間とが人間の側からの認識行為を通じて結ばれたときにこそ、人間の完全性が思考に示されるのであり、それこそが常に最高の幸福を求める真の人間本性にほかならないのである。スピノザにあっては、知性は意志なのであるから、つねに「認識(科学)」と「愛」は、一致しており、同一の事柄を意味している。言い換えると、「知ること」は、即「欲すること」であり、だからこそ「愛すること」になる。そして、その逆もまた真なのである。したがって、この「認識」に至った人間は、人間本性を愛する永遠の存在となる。

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