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2012年9月 2日 (日)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(5)

人間は自然の一部に過ぎない

スピノザは、こういう人間の得手勝手な倒錯した神像を粉々にしてしまい、倫理と神とを切り離してしまう。つまり、人間の幸福追求と神即自然の本質的振る舞いとは、矛盾し、敵対することもある、ということだ。このように、スピノザによれば、神即自然の法則は、人間の幸福追求及びその切なる願望に基づいて、人間たちが作り上げる諸法律すなわち人間的法則なるものを超越している。これは、「自然の一部に過ぎない」人間と全自然との力関係の問題だ。もとより人間の諸法律が人間社会の構成員たちではなく、自分より強大な自然力を相手にしては、有効であるはずがない。人間並みの力を持つ自然法則なら、これを人間は利用して、人間の幸せを作り出すことができる。しかしながら、人間並みの諸法則を超えた自然法則については、われわれには、それを回避できれば、もうけものといったところなのである。

主体なき倫理

全自然の永遠の秩序と人間理性の働きとをひとたび分断してしまうと、今度は、人間の主体的活動の方がどこかへ雲散霧消してしまう。主体は、理性にもとづいたときには、自然は人間のために改造することも出来るからである。スピノザの哲学体系に、主体としての人間が不在であると指摘した哲学者にヘーゲルがいる。ヘーゲルのスピノザ批判の要点は、彼の哲学が偶然性を取り入れておらず、したがって人間主体という偶然性を含まない一面的な見方だということにある。主体は意志や欲望を持つから、偶然性を体現しており、矛盾の一方の旗頭だ。必然性に対する決定的対立物としての人間主体を、世界あるいは神が対立物の統一として含まない限りは、人間の生きているこの現世は書割であり、壁紙に過ぎない暗黒世界、すなわち「奈落」となる。ところが、スピノザに在っては、神即自然に比べれば、人間は一時的なもので、圧倒的に非力であり、ほとんどなにものでもない。それでは人間の無力を主張しているに過ぎない。しかし、近代の自然科学は自然哲学と一緒になって、世界を変革してきたではないか?人間主体は、理性の力で世界を作り出している。ヘーゲルの出発点、それは圧倒的に強い西洋的人間個人であり、世界を作り出していく力を持ってさえいる神の如き論理力を備えた人間だ。ヘーゲルの汎論理主義は、形を変えた人間主義あるいは主体主義だ。人間主体を話に組み入れると、必ずこうなる。

これに対して、スピノザの人間観の基本には、人間を突き動かす衝動としての欲望が据えられており、それを無機質な世界に積極的に人間をかかわらせ、世界の意味を作り出すことに貢献する。そして、スピノザ哲学では、この欲望とは何かが究明される。そこで、ヘーゲルが言う偶然性がなにに起因しているかが問題になる。偶然性は、欲望をよく観察してみると分かる。偶然性は、単に人間認識の限界性を言い換えたものに過ぎない。

つまり、この「書割」と称されている世界で、スピノザ的な人間は欲望を意識しながら、自己の利益のために行動する。しかし、欲望のために行動していると考えている人間は、認識の世界で、そのように考えているだけの話であって、現実の世界では、人間は全く自由でも、偶然でもなく、鉄の自然必然性によって突き動かされているのだ。彼が抱く欲望も、この必然性に起因し、それによって制約されている。つまり、存在と認識は人間においては、しばしば不一致に陥り、分裂しているということだ。存在と認識とではどちらが現実的な影響を持つかというと、それは、現実の存在の方であり、その歪曲された映像である認識の方ではない。人間の意識にのぼる、この欲望を写像とする現実世界における対応物こそは、有名な存在持続の努力すなわちコナツスである。物体の場合は慣性を意味し、現在の状況にとどまろうとする力のことを指す。人間の場合は、身体持続のための努力となる。つまり、人間はいついかなる時でも生きようとするということだ。この世界のありとあらゆる事物は、意識があるなしに関わらず、物体としての個物の自己保存の法則に従って日々営々と努力を続けている。だから、スピノザの世界は書割のような無差別の世界ではなく、すべての有限な事物が一時的な存在であるからこそ、存在に向けて最大限の努力を払う闘争の世界なのである。そこでは、大は小に必ず勝つが、しかし、小が多数集まれば大をも打ち倒す。人間は、ひとりひとりの人間が結集して、一個の共同存在となれば、きわめて強力な存在物となる。

これがスピノザの構想した倫理的社会だ。それは人間本質、つまり生存のための努力存在としての本質に合致する。「すべての人間の精神と身体が一緒になる」ことが人類の存続にとって必要条件だが、それを実現するためには、まず人間の共通の本性を誤りなく把握しなければならない。たしかに、スピノザ的世界の人間は、主体として、生の欲望によって突き動かされているが、人間精神の、もうひとつの働きである理性は、人間に真の利益を教えてくれる。このように強大になった共同存在こそ、個々の人間に最大限の存続を許す。個々の人間にとって、自己の利益の存続が最大の欲望となっていることが前提であれば、こういう社会を理性に基づいて形成することは十分可能だ。では、共同存在を作り上げるにはどうすればよいか?それは人間理性が回答を用意してくれている。理性によって、人間の共通性・共同利害性を発見するのだ。つまり、我々が共同利害を有していることに気づくことが重要なのだ。あらゆる現象に共通性を探すこと、普遍性を発見すること。こうした人間理性は、一見したところ、個々の人間の独自性や個別的欲望を顧慮しないかに見える。それは科学的理性だ。しかし、人類の共通性・普遍性・共同性こそは、究極的には人間を救い、人びとに幸せをもたらす。スピノザの倫理学が人間の至福を実現するための科学である所以である。

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