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2012年9月12日 (水)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(9)

無限の謎

実体すなわち神は無限である。常識のレベルでは無限は複数存在してはならない。

ここで、デカルトの思考と延長との二元論を考えて見よう。さしあたり、無限は、少なくとも二つ現存在することになる。デカルトの主張が正しいとしたら、思惟も延長も無限である。そこで、無限が複数あるのは、背理であるとしたら、双方は、全く重ならない、異次元の無限である、ということでなければならない。思考は延長を持たず、したがって空間性を持たない。いくら広大な事柄を思考しても無限なる神を思考しても、思考の方は、いっさい面積や体積を必要としないからも思考はこのような形で、無限だと結論づけざるを得ない。一方、延長は、空間の無限性を前提とすれば、これまた無限である。デカルト的充実の空間は、何処までも続く。というのも、無限の空間、したがって無限の延長以外に、なにかが存在することをみとめるなら、その中には、空間または延長以外のもので、それを仮定することは、不合理なことだ。人間の論理学では、なにもないということは、存在しないという命題と同一である。したがって延長も無限だ。そうなると、思考と延長という二つの無限が存在することになるが、無限はひとつの立場に立つなら、この二つの無限は、別々に、異次元的に存在することにならざるをえない。ところがこれだけでは済まない。デカルトにおいて、無限の思考と延長が、これまた、無限の唯一実体のもとで、統一されていなければならないというのである。これはロスケリヌスが夢想したと非難された三神論であるかもしれない。

ロスケリヌスは、デカルトが陥りかねなかった三「実体」論を展開した。徹底した唯名論者であった彼は、神がもし三位一体として、すなわち父と子と聖霊として「実在」するのなら、神は、三つの実体から成立しているはずだと推論したのである。実在論(実念論)の立場に立つ中世の正当神学は、神=父の実在論と聖霊と子の実在論という具合に、実際には三神論をとっていたにもかかわらず、自己意識としては、神の「位格」として、いわば神の「純粋形相」のようなものとしてしか聖霊と子を認識していなかった、実在論者の聖アンセルムスはロスケリヌスを三神論として断罪した。実在論者の致命的誤謬は、存在論と認識論を峻別せず、神外在説をとっていたことによる。スピノザはこれを「毀損した観念」と呼ぶしかし、デカルトの場合、今度は、この神という名前の実体という無限の存在で、論理は終わらなければならない。実体はそれ自体の他に原因を持たない、自己充足的本体であるがゆえに、実体を作り出したものは存在しないのだから。神が無限で、自己原因であることが前提とすると、実体が神であることは明らかである。しかし、思考も延長も無限という資格では、神と同等である。これら三つの無限の関係はどうなるのか。デカルト哲学においては、この疑問に解決が与えられることはない。

ここでスピノザが登場する。『エチカ』第1部で論じられている、実体、属性、思考、延長、自然、神、などの無限を表見する諸名辞間の関係はどうなのであろうか。まず、民衆にみなじみやすい、誰にでも理解できる無限が存在する。それは「神」だ。スピノザにとって、「神」とは、科学者でも哲学者でも民衆でも、はっきりとわかる無限の代名詞だ。次に科学者なら理解しやすい自然という無限がある。自然とは、簡単に言えば、眼前の、接触し得る、物体で充満した空間のことだ。だとすれば、これまた無限であることは、はっきりとわかる。なぜなら、眼前に見えている空の向こう側に、延長を持たないなにかがあることを否定することは簡単だからである。無限の縦、無限の横、無限の高さを持つ三次元空間の代名詞が自然である。これを形而上学的に表現すると、自然は延長の世界だということになる。この延長の無限世界と、思考との関係は、同じレベルでの無限の複数存在が認められない以上、延長を持ち空間性を持つ無限空間と、延長を持たず空間性を持たない無限との関係となり、前者を後者が何らかの形で、しかもぴったり重なる形で表現ないし代表しているということにならざるを得ない。言い換えると、思考は延長の代名詞だということになる。また、その逆も真である。そして、これら両者は実体の属性と呼ばれる。属性とは実体の本質を知性が知覚したものであるから、実体が無限である限り、実体と同じく、これまた無限である。そして、人間に理解できる属性は、実体の属性としての延長と思考の二つだけである。

異常、これら無限を意味する諸名辞の関係は、無限の唯一存在を前提とすれば、いわば相互に、かつ十全に表現試案関係だということがわかる。ここにおいて、諸名辞は、すべて、無限の唯一実体である神を異なる形で表現したものにすぎないと結論付けることができる。

自己原因

『エチカ』第一部定理五の実体の唯一性および定理八の「すべての実体は必然的に無限である」ことを認めさえすれば、これまでの諸名辞の関係が相互表現関係であることは比較的簡単に理解できる。むしろ『エチカ』、そしてスピノザ最大の難問は、自己原因あるいは「神は、絶対に第一原因である」の断言であるかもしれない。スピノザ自身もこれが一般に理解されにくい難問であることに気づいていた。この理解することが困難な証明とは、「実体は、自己原因である。すなわちその本質は必然的に存在を内包する」というものだ。

同一性質を持つ複数実体が存在するとすれば、当の実体の「外部」に別の原因が存在することになる。ところが実体は無限であるから、「外部」というのは背理である。となると、そもそも実体が複数存在するという仮説自体が間違っていたことになる。故に実体は唯一であり、それは同時に自己原因でもある。この証明には系がある。すなわち、自己原因とは内部原因のことであるとすると、実体には、すべての原因が含まれていなければならないことになる。したがって、自己原因とは、存在性をも自らのうちに原因として含んでいなければならいということである。しかし、そもそも人間には、「自己原因」なる哲学の形而上学的「お化け」が理解できるようで、理解できない。なぜなら、およそ人間の悟性に理解し得る「原因」とは「外部」原因でしかないからである。「内部」原因とみられるものも、最初から事象の定義の中に含まれていない以上、すべてが外部の原因である。

「神によって産出された事物の本質は、存在性を包含しない」

自然界の万物は生生流転のなかにあり、有限であり、本質に存在性が書き込まれた事物など、目に見える世界には存在しない。もし自然界に「存在するように定められた事物」が存在するとすれば、それは巷間で言われるところの神だ。さらに、「産出された事物」は、外部原因を持つということも、この定理の前提となっている。言い換えると、内部原因または自己原因と存在性は、神においては、不可分なのである。造られたものについては、だれでも「いつそれは現われたのか」と問いかけることができるし、また「いつまでそれは存続するのか」と問える。それに反して、産出されなくて存在しているものがもしあるとすれば、それは永遠の生命を享受していることになる。つまり時空を超えて存在するように運命づけられているということだ。これもまた神だ。

スピノザの例に即して、木という定義に含まれている原因を考えて見よう。なにが木の定義か、と言えば、「緑の葉をつけ、成長してゆくもの」という定義が考えられる。木の本質は「生きる」ということになる。有名な存在への努力である。すべての生物には、この「生きる」という定義が用意されている。木はひとりで生長していくからこの定義は、自己原因であると誤解する向きもあるかもしれない。しかし、自己原因には永遠性または無限性が含まれるのである。もし木が永遠に成長し続けるものなら、世界は木だらけになってしまう。ところが、木はある時期になると、枯れて、土に還ってしまう。木の本性にはたしかに「生きる」ことが含まれているのだが、それは、所詮、外部要因を持つものであるから、外界の原因によって、必ず生物は、その形相としては、死に絶えてしまう。このように地上にある物は全て時間性を帯びた原因を持つことになり、それゆえに原因は外部にしか求められないのである。存在物に主体を想定しようと、主体の存在を否定しようと、原因というものは当の現象や物体にとっては、結局、外部のもの、客体なのである。

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