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2012年9月17日 (月)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(14)

神の自己愛

しかし、にもかかわらず、この死せる神は、実は、愛という働きを通じて活動しているのだ、ここがスピノザの神観の重大な結び目でもある。すなわち、神は、人間の側からの「認識」によって、全自然を満たすダイナミックな神として、つねに人間に利益を与えてくれる恩恵=存在に変容するということである。それが「神に対する知的愛」の本質である。他方、この内在する神は自分を愛しているのだ。人間の側から見ての、神に対する愛は、神の側からは、神の知的愛すなわち神の自己愛なのだ。

スピノザは、神の愛をなぜ最終的要請事項とする必要があったのか?スピノザの言説をもう少し厳密に見てみると、まず、神への人間の側からの知的愛がある。これ自体は、人間の主体的、能動的行為である。つまり、精神を持つ人間としての視点から見る時、人間は、対象を研究し、知性によって、それがみずからの生命活動に必要だと判断する。必要は、欲望することであり、対象を愛することを意味する。そこから能動への意欲が生まれ、行動に移り、対象を獲得する。つまり、自然界の一物質にすぎないがゆえに、外部原因に振り回される受動的存在に甘んじてきた人間は、対象を愛する時にだけ、みずからの意志で行動する、神のごとき能動存在になり得る、ということである。なぜ、人間は、対象を研究し、それを手に入れようとするのか?快を感じながら、幸福に生きるためである。言い換えれば、スピノザが人間の現実的本質と呼んだ、生きるための、延命のための努力とは、精神的に理解するなら、まさしく人間が自分自身とその生命を愛している、ということを意味する。すなわち人間の「自己愛」を意味するのである。この自己愛は、人間存在が本質的に備えているもので、人間存在全ての行為の前提に据えてよいものである。そしてこの自己愛の発露は、生への欲望である。ここから欲望一元論的自然主義倫理学がスピノザによって構想されたのである。したがって、愛は人間の本質的行動の最終原因であるかぎり、神にもこの愛が含まれているのである。

ここで、何も欠けるところのない神が「自己を愛する」必要があるのか?と言う問題がある。神は存在するかぎりにおいて、直観知によって把握されるような存在を支える愛を必然的に持たなければならないのである。さらに、神は、完全なる能動存在であるから、人間の場合もそうであったように、能動存在の本質は「愛」以外の何物でもない、と言うことにならざるを得ない。神は、完全な能動存在であるが故に、いわば愛までも自分で、自分に対して分泌するのである。自己原因が自分を自分の原因とするものであったのと同じで、神の自己愛とは、神が自分を自分で愛することを意味する。

人間が能動的存在になるということは、人間が神のごとき「純粋能動性」を得るということである。人間は、憎悪によっても行動に走ることは事実である。しかし、スビノザによると、第一に、自己愛を本質とする人間は、憎しみを自らの行動原理とすることは出来ない。なぜなら、だれひとりとして、本性上、自分を憎むことは出来ないからだ。第二に、そのことの帰結として憎しみは決して善であることは出来ないなぜなら、それは、相手の抹殺という人間的本質に反したもう一つの悪を犯すことだからだ。

神は自己を愛さざるを得ない、完全なる能動的存在であるが故に、さまざまな概念に自らを表現する。そして表現の楽しみを味わいながら、自らを人間に対してアピールする。だから、この神のいわば表現行為の原動力は、機械論的力学でも、言語学的力動性でもなく、愛なのである。だから、神は、民衆には想像力ゆたかな聖書として、強制的遵守を迫る道徳的律法として現われる。科学者に対しては法則として、哲学者に対しては、実体として、さまざまな部類の人間に対して、その理解力のレベルに応じた、実にさまざまな姿をとってあらわれる。そして、そのことがカモの完全性を示す証である。

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