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2012年9月15日 (土)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(11)

存在と本質─唯名論の罠

デカルトの「ワレ思ウ」という命題の謎は、実体である延長なき思考が、これまた実体である、思考なき延長と現実的に共存する、という難問であった。まず、スピノザは延長ある実体的世界について、それらの存在性を、自己満足として、産出性と主体性抜きに「証明」してみせた。それは、完全自己関係系であり、他の系からの助力を必要としない、完全に独立した必然性の体系である。それゆえにそれは、存在しているのである。

デカルト的難問を解決するために、この完全自己関係系に関する人間の認識の方を考えることにしよう。当然のことながら、眼前の現実世界は、その都度「存在している」。これは、だれしも認める真理である。そして、世界は自己原因であるほかない。というのも、人間の原因学的探究は無限に続くから、神をも呑み込んでしまうという難点が生じるからである。この眼前の現実世界が存在することを素朴に認めることは、誰にでもできる。しかし、そこから先は、思考の世界に入るので、意見は分かれる。ということは、表象として映る現実世界の存在と本質は分離している、ということである。そのことをスピノザは「神から産出された事物の本質は、存在を包含しない」と明言する。

スピノザの定義は次のように読み替えられる。「本質が存在を包含する」ものとは自己原因のことである。ところで、自己原因であるのは実体のみだから、「本質が存在を包含する」という定理が成り立つのは実体に関してのみだ、ということである。実は、これが神なのだ。実体は唯一なのであるから、それ以外の被造物については、存在と本質との関係は、等号で結ぶことは出来なくなる。つまり、両者を同一レベルで考えると、等号関係が成立しないのである。存在が無条件にあり、この存在する事物についてのみ、それの本質が思考の上で、考えられる、という関係になっている。被造物の世界では、存在と本質が分離されていて、全く別の事柄であるからこそ、例えば、太陽の存在は認められても、太陽の本質をめぐっては、多種多様な観念が考えうるのである。そうだとすれば、実在の自然世界は、その存在についての原因と実在物の本質についての原因は、別々に設定しなければならない。

この唯名論的な存在と本質の根本的区別=峻別を、存在論のレベルで設定した後で、スピノザは、存在論のレベルから認識論のレベルに移る。それとともに彼は、唯名論から実念論に移る。彼はこの移行を次のような形で実現する。彼はこの移行を次のような形で実現する。すなわち、眼前の現実世界(存在論)を統括する法則と秩序の存在(唯名論)は神の思考あるいは理性(理法)と見なすだけでなく、それをいわば実在する自然の現実世界を映す忠実な鏡を通して(認識論)、人間的思考の存在論(実念論)に「格上げ」するのだ。

彼もまた、デカルトの延長なき思考の「存在」を認めるが、それは、実世界に「存在する」とか、実体として存在するかという意味ではなく、あくまで、思考を属性とする世界と延長を属性とする世界とで、「本質」を共有し、表現する形で、前者の世界でのみ、平行=反映的に「存在する」という存在性なのである。だからこそ、「事物の存在」とその「本質」には、別々の期成因(起動因)が必要だったのである。

しかしもこれに対しては、実世界のような実存性を持たない、延長なき存在物を仮定して、どのようなメリットがあるのか。すべての観念は、現実の反映であり、記号=名辞として捉えて、これらの形而上学的お化けの存在を捨て去り、あくまで純粋経験論を貫徹すれば、無駄な存在物を増やす恐れはないのではないだろうか。

オッカムの言語学的な定式によれば、主語Sと賓辞Pは、もし絶対かつ完全にS=Pであれば、SとPとに分解して、個々別々に論証することができないというのである。例えば、S=山で、P=緑色ならば、S=Pが成り立つ。これは、常識的な関係であって、山という一般概念を現実に存在する個々の山から抽象してきて、それを正確に規定し、緑色という一般概念についても、その存在を確かめながら同じ操作をすれば、両者を等号で結んで出来上がる「山は緑だ」という命題には、いささかも虚偽はなく、真の命題となる。ところがSに「神」をとり、しばしば人がやるように、Pを「善」だとすると、神の定義にすでに善が含まれ、善の定義にすでに神が含まれる以上、S=Pという命題は証明不能にとなるのである。このような証明不能の神は、疑いうる存在となる。オッカムは言う。「抽象的認識は、事物の存在と非存在について語り得ない」と。だから、「神は存在する」という命題も、神がすでに存在を含む以上、証明不能にしなければならず、神の存在と非存在について、何人も証拠と証明を持って確信することは、永久にできないのである。したがって、神は、ただ信じるほかない。それが存在性を含むからだ。そればかりでなく、神の意志も測りがたいものとなる。神の善とは何か、神の正義とは何か、定義不能である以上、神の意志も測りがたい。

言葉の世界を独立させたまま、現実と結びつけることをしないと、思考の世界での神のパワーは絶大なものになり、神は理性によって、証明不能で、ただ信ずべきものとなる。

ここに至って、徹底した合理主義者のスピノザがなにゆえ、実念論を残していたかがはっきりした。彼は思考の世界の独立を宣言するが、それはあくまで認識論上のことで、現実世界の忠実な反映としての精神世界には、現実世界の必然的な法則と秩序がそっくりそのまま映される(表現される)のであり、神即自然である以上、現実界に神は内在するゆえに、精神世界にもあまねく神の理性が行き渡り、偶然にも規則外れも奇蹟も、両世界で、一切生じることはないのである。したがって、神の超自然的権力も存在せず、すべては、人間理性にも理解可能な神知の合理的な支配権に属する。その意味で、神は無限の愛を持つ、万物に優しい平和の自然神となる。スピノザによれば、神は証明不能であるゆえに信ずべきものなのでなく、証明されたからこそ信ずべきものなのである。

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