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2012年9月20日 (木)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(16)

第4章 精神と身体の断絶

存在と思考する存在

神観における大転換ののちに重要となる精神と身体との関係の問題にスピノザは移る。個別身体は、延長という神の属性が個別的に変状してものである。実体は、完全性をその本質としているので、実体の中には、無限の属性、したがってまた無限の変状が登録されている。一方で本質は存在しなければならない。したがって、個別身体は、このような変状のバリエーションのひとつとして、完全性を備えた全自然の一部として存在する。つまり、身体を人間がどのように考えようと、それが自然のなかの一物体として、間に空虚を持たない形で、隣り合わせの近接諸物体との相互関係の中で、実在していることに、変わりはない、ということだ。

デカルト流に表現するなら、「ワレ在リ」の方は「ワレ思ウ」とは無関係に、完全に解決したと言えるだろう。というのも、デカルトと異なって、スビノザは二実体説ではないから、「ワレ在リ」の前提として、「ワレ思ウ」が存在する必要はない。身体をも含む「物体が思考によって限定されない」以上、物体の方は、存在性すなわち実在性という点では、思考とは全く関係がない、ということになる。

表象、想像、記憶

スピノザにあっては、存在と思考ある存在の問題は、この心身関係論のほかに、解決すべき問題を含んでいる。精神の永遠性の問題である。「人間精神は、身体とともに、絶対的な形では、破壊され得るものではない。そのうちのなにかは、永遠であるものとして残っていく」。これについて、ライプニッツは、死後、人間がなにも覚えていないのであれば、精神の一部が永遠であっても意味がないと反論を加えた。つまりもスビノザの霊魂不滅説は、身体の観念すなわち身体の本質である精神だけが永遠に残ることを主張しているのであれば、通例、想定されているような霊魂不滅説とはならない、というわけである。精神の働きはすぐれて記憶の働きであると理解するのが普通なので、記憶が残らないとなれば、精神が残ると主張してみても、たしかに何の意味もない。

しかし、この点にこそ、スピノザが主張する身体とは無関係な精神の一部不滅説の核心があるのだ。スピノザの霊魂不滅説によると、身体の破壊と同時に、記憶は消滅するし、表象力も消滅し、それとともに、ありとあらゆる表象や想像の類、さらには、身体の破壊は永遠の眠りだから、ありとあらゆる夢想も消え去るが、知性だけは永遠に残る、というよりも知性は永遠であるということになる。

スピノザは、デカルトの弟子として、精神(思考)と物体(延長)との本質的区別を受け継いで、それを徹底させ、両者が神という実体を通じてつながっているが、しかし、それらはまったく別の本質を持つものと考えた。別の本質を持つからこそ、精神にはつねに誤謬に陥る危険があり、無駄な想像や空想にふける誘惑があり、しはしば期待や先入見に基づく記憶違いもそこから生じるのである。しかしそれに比べて、身体という物質の方はまちがいを起こしようがない。なぜならそれは思考しないし、つねに自然界の永遠の法則に従っているからだ。

表象力は無駄か?

では、完全なる神がこのような表象力という無駄な働きを精神の中に、何故持っているのか?実は、表象力は決して無駄ではなく、むしろそれは、当然の法則的なものであるから表象は生きている間、存続し続ける。例えば、スビノザは太陽との距離と人間の思い違いについて、次のように言う。表象は「人間身体の現在の状態を表示する観念」だから、太陽から身体が刺激を受けたときに、精神が働き、太陽が近くにあるものと捉える。なぜなら、目には明るく輝く太陽がすぐそばにあるかのように、巨大な姿で、強烈に輝いているからだ。しかし、この表象は、「誤っている」。われわれが太陽との真の距離を知った場合に、この誤った表象は否定されるが、人間の眼球と脳髄は「依然として、このように表象し続けるだろう」・なぜなら、「」精神は、身体が太陽から刺激される限りにおいて、対象の大きさを考えるからである。」

このように表象の場合は人間が受動である場合に必ず生じる瞬時の映像に過ぎないので、それ自体は「真なるものに矛盾しない」から、真実が分かったからといって、消失しない。つまりは、記憶に残る。

このような観点に立つと、すべての人間には、表象力と記憶力という二つの能力が身体とともに滅ぶ精神の働ききとして、備わっていることに気づかされる。おそらく、目に相当する器官を持った動物にも映像は映っている。それを頼りに動物たちも行動している。人間の場合は、そこに精神の働きが関係して来るから、表象となって出現し、それを言語で記憶し、それを言語で表現することも出来るのだ。このことからもわかるように、想像力と記憶力は、スピノザが分類した第一種の認識そのものであることを理解しなければならない。

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