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2012年9月 9日 (日)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(6)

欲望と目的原因

スピノザにとっては、人間存在は、原因探求で失敗しがちな存在である。なぜかというと、人間存在は、必然的に動かされているのだが、自分の「意欲や衝動を意識している」がゆえに、自分が自由意志で、目的に向かって行動している思いがちであるからなのだ。つまり、人間は自分の中に欲望を充足するために、行動していると思い込みがちなのである。そこで発見される行動の原因は、目的原因と呼ばれるが、これは、意欲や衝動、言い換えると、人間の欲望と同一のもので、客観的な真の原因ではないとスピノザは断言している。

奇蹟や神の「倫理的」行動を否定するということは、神すなわちこの自然世界が必然性によって規定されていることを認めることと同義である。つまり、悲しいことだが、人間は、世界に偶然はあり得ないということをみとめなければならない。たとえ、世界に人間という意志を持った活動的主体が存在するとしても。彼は自由ではないからだ。彼は、自然世界の必然性のなかで、拘束されて「生かされている」受動的存在である。

人間の認識能力には限界がある

次に問題となるのは、神、あるいは世界、あるいは「自然の一部としての人間」の本性を神即自然とのかかわりのなかで、探求することである。それは『エチカ』第二部以下で論じられている。第二部でなによりも問題になるのは、人間に独特のものである精神の認識機能の特性である。「人間精神の現実的存在物を構成するものは、現実に存在する個物の観念に他ならない」とするなら、認識は外界との接触で生じることになる。しかし、この接触から生まれる認識は外界によってもろに制約されており、外界によって振り回されるために、いつも「妥当な認識」とはならない。しかも、精神が接触できる外界は限定され、有限であるために、こうした外界の人間的接触は、誤謬とつねに密接不可分のものとなる。いずれにせよ、こういう結果が生まれるのは、生き物としての人間が神なる自然の一部に過ぎないように、人間精神も、これまた「神の無限の知性の一部」にすぎないからだ。ただ、人間精神の内部から論理だてて生まれてくる観念だけが常に正しい。

スピノザは、人間認識がなぜ誤りやすいのかを明らかにしている。人間の認識は、まずもって身体を通じての認識であることが誤りやすさをもたらすのである。「全自然の一部」でしかない身体は、外界の一部しか相手に出来ない。それゆえ、そこから生まれる認識は「毀損した認識」である。これをスピノザは第一種の認識と呼んだ。経験のことだ。しかし、ここで注意しなければならないのは、この誤りと言われている認識が虚偽の認識ではないということである。自然世界には「嘘偽り」は一切ないからだ。たとえば、太陽がどう人間に見えるかをとりあげてスピノザは、太陽がごく近くに見えるのは、なにも虚偽の認識ではなく、目を持った動物がすべて同じ見方をしている点で、そのものの本質にかなった真なる認識であると主張する。その意味では人間が嘘をつくときも同じだ。嘘をついている人間にとっては、嘘は嘘として真実なのだ。ただ、問題になるのはこうした表象に関わる認識は、断片的な認識であり、事実の本質とは縁もゆかりもないということである。認識が断片化された場合には、われわれは真理からは程遠いところにいる。こうした認識のことをスピノザは、第一種の認識として、考慮の外に置く。しかし、多くの人間の認識は、このレベルにとどまっている。断片化した認識を持つ人間は、より強く限定され、外界の事物がそうであるように、お互いにばらばらになる。事物の本質という共通性・普遍性・共同性が見抜けないために、人々は一致した共通認識を持つには至らない。共通認識が持てない場合、人間は共通観念にもとづいて話さないために、相互に連絡が取れなくなる。その結果、こうした認識に屈従する人間は、孤立していて、個々人の弱い力のままであり、したがって彼等には、持続した生存が望めない。

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