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2012年9月 8日 (土)

辰野登恵子/柴田敏雄展─与えられた形象(5)

 Ⅳ.1990年代

柴田の写真展示を挟んで辰野の1990年代の作品に入ります。ここまで、ゆっくり見て30分くらいかかり、ちょうど柴田の写真展示の区画に椅子があって腰を下ろしました。すると、入り口越しに辰野の例によって大きな作品が垣間見えます。そこからの眺めがよく、実際、ここの区画に展示されていた大作数点から、私としては面白くなってきました。

Tatsunountitled975_2展覧会場の区画の広さは十分あるので区画いっぱいに離れると作品と距離を取ることができます。そうやって離れて眺める作品は、それなりに楽しめるものでした。その最大の理由は、色塗りや色遣い、あるいは線の引き方といった技能的なことが、下手は下手なりにこなれてきた、つまりはヘタウマのような感じで見れるようになってきたことではないかと思います。つまりは、決してきれいと見えない色遣いは描かれた形象に陰影のような彩を与えることにより、その形象に立体感とか重量感(鈍重さ)のようなものを感じさせる効果がでてくるようになった。そこでは抽象的に形態が重量感なく画面に浮いているような感じから重さとか画面の奥行といった要素が加わるようになったことです。形とか色といった平面的な要素を抽出して構成する抽象画に、あえて奥行や重量を感じさせられ、しかも形、というよりも物体が浮かんでいるようなものとなりも何か抽象画とてしてのチグハグ感というのか。さらにムラのあめ色の塗り方が遠く距離を置くと陰影とあいまって細かな動きを画面生んでいるような、つまりは全体の重いシンプルな画面の細部がそれとは異なる動きを処々で生み出しているような印象を受けるようになっています。粗い筆のタッチが、それを助長して、今までになかった画面の生き生きとした感じがでてくるようなのです。しかも、これは近くで作品に相対するよりも、コピーした画像で見るほうが、尚更いいです。

一応それらしいことを言うと、高度資本主義の経済社会で大衆消費社会が一部で実現し、大量生産によるコピー製品が大量に出回ると、一部の限定されたエリートを対象として、ライブで作品を通して鑑賞するということは、効率が悪いものとなってきます。作家だって儲けが薄いし、知名度は上がらない。だから印刷のような大量の頒布システムができ、それによってポスターや画集、複製が大きな意味を持ってきてもおかしくない。ポップアートやミニマリズムの反復というキーワードも、このような事態と切り離せないだろうし、シルクスクリーンに複写する技法等はコピーそのものを技法として取り入れているわけでしょう。とくに、コンピューターとそのネットワークの発展により絵画も画像情報として現物不在の情報が肥大化ということが、そういう事態を増幅させているわけです。そういう事態で作品の作り手の側として、そういう事態に副った制作をしてもいいのでは、と思います。例えば、現物に対してコピー等の二次的なものは、一時的な現物に合ったライブな生々しさが消失する、ベンヤミンはオーラがなくなると先駆的に言いましたが、とよく言われます。しかし、それはこういう事態に批判的な立場のコメントです。逆にコピーした方が価値が高まるようなことがあってもいいのではないか。低俗な議論かもしれませんが、いわゆる泰西名画の場合、得てして本物よりも複製の方が見た目が見栄えがするものです。もう、どちらがいいかは、観る人の価値観の問題にすぎません。その中で、辰野の作品は現物よりも複製の方が価値が高い、と私は思います。画家はそんなことは考えてないだろうし、そういう制作はしていないと思います。しかし、私には、そういうところが、辰野という画家の作品の一番「売り」ではないかと思います。

具体的には、こういうことです。「UNTITLED97-5」について、解説はこう説明しています。この作品に描かれているのは分断された環のモチーフのヴァリエーションである。同じものが連なるところにずれが生じる状況は、1970年代の罫紙を写真製版した版画においても辰野が関心を持っていたものであり、作家の基本的レパートリーのひとつであるということができる。対になった黄色い形は、全体としては大きな木の幹にうろが空いているようにも見えるし、切り欠きのある細長い柱のようなものが2本、寄り添っているようにも見える。ふたつに分かれた黄色い塊は、輪郭線の内側に、おおむね陰影が施されているが、それは決して均質ではない。開口部の内側のように、比較的暗く急激な陰影のところもあれば、なだらかで面積の大きな陰影の所もあり、また、ほとんど陰影のないところもある。背景は、印象派ふうの柔らかな筆致で埋められているが、この部分は必ずしも後退していくようには描かれていない。黄色い領域の輪郭を侵して、筆触は相互に浸透し合っている。この印象は、黄色い領域の輪郭線が曖昧なことにもよっている。輪郭線が、黄色い形象と背景との境界としてはっきり黒い線で引かれているところもあれば、陰影と一体化しているところもあり、ほとんど認められないところもある。絵の上部では、背景はやや緑味を帯び、黄色い形態にかぶさるように前面に出てきているし、左側では、黄色い形態が比較的突出ししているように見える。

これは、私の考えを際立たせるために、まず美術展のカタログに書かれていた、いうならば芸術的な観方です。でも、コピーで見る場合は、何が描かれているかのような意味とか内容というのは、観るのに時間がかかるため、はっきりいってそんなのんびりとは見る時間がありません。パッと見てどうだという世界です。そういう視点で見ると抽象と具象という美術界の区分はどうでもいいことなのです。だって、何が描かれているかは、大して重要なことではないからです。では何が重要なのかと言えば、効果です。観る者に、どういう効果を、いかに生じさせるかということです。この作品で言えば、形象の黄色と背景の青または白とのコントラストです。そして、色の塗りが一様でなく波打つように筆致が浮いていて、色がそれぞれムラができていることが細かな変化とダイナミクスを与えています。これを現物で見ると筆致の不揃いさや塗りの下手さが目立って見苦しいのですがコピーはそういう生々しさが消えてしまって、却って洗練されたように映ります。言うならば、画家の肉体性が邪魔だったのが、コピーされることによって捨て去られ、つまりは抽象化されたというわけです。ちょうど、画面の構成も単純化されて、そういう効果を味わうには程良いテイストになっているのです。

少し脱線しますが、辰野という画家の経歴を考えれば、これらの作品をデータ化し、それを例えば、フォトショップやイラストレーターのようなソフトを使って手を加え、作品に微妙な差異を作り出して、作品番号に枝番をつけてシリアルで頒布したっていいのではないかと思います。ポップアートがシルクスクリーンで似たような画像を貼り付けて反復を作品化したように、データをそれを行って、画像データの広がり自体を作品とすることはできるのではないか。これまでの画家の経歴の流れからみれば、それ程突飛なことなとは思えません。ただし、これが商売として成立するかは問題かもしれませんが。でも、そういう可能性を考えさせるほど、ここに展示されている作品は面白かったと思います。それが画家の意図している方向とは違うでしょうけれど。

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