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2012年9月21日 (金)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(17)

内在主義

人間ならだれでも持っている第一種の認識から第二種の認識に進むことが可能だとスピノザが言わないのは何故か?それは第二種の認識が事物の共通性・共同性を認識することを出発点に据えているということに起因する。人間精神は、いったいこの法則が成立するということを、何から知ったか?ここで立場は二つに分かれる。ひとつは、この認識法則は超越的なもので、先験的に成立しているという立場で、これは、世界の外に世界とは別の超越的な力が存在するとする不条理に通じる。

これに対して、スビノザは、現実性を持たないような超越的諸力を一切認めない徹底した「内在主義」の立場゛だ。そして『エチカ』第一部ですでに、神の属性として、人間存在に関係しては、「延長するものと思考するもの」という、ふたつのものが指定されているので、延長によって成立する眼前の物質世界そのものが神の属性であるように、思考によって成立する観念世界もまた、そのものが神の属性なのだ、無神の属性である限りは、第二種の認識が出現する源は神であり、この認識は、真理か否かの基準をもっている。

そこで、この二つの無限の世界の関係が問題になってくる。実体が複数存在しないのに、その属性によって、二つの世界が成立するのは、決定的な矛盾ではないだろうか。両方の世界の関係はどうなっているのだろうか。

身体と精神

スピノザにおける身体と精神の関係の問題は、物体と思考という、二つの異なる空間が相互になんらかの力関係を持つのかどうかの問題として提起される。経験論的には、物体と思考は結びついているように思えるが、スピノザ的な存在論および決定論のレベルでは、どちらも別の世界を形成していて、お互いに交わるところがない。通常の決定論では、存在が意識を決定する。これは唯物論とも呼ばれ、その逆が観念論とも呼ばれる。どちらも、スピノザが掲げるテーマとは全く異なる前提に立っている。

唯物論では、「身体が精神を思考するように決定するが、精神は身体を運動または静止に決定することは出来ない。」しかし、スピノザは、身体の世界と精神の世界とを区別し、この二つの世界同士の相互関係の存在を否定している。そして、この命題の裏問題は、積極的規定関係を示すもので、「身体は身体を決定し、精神は精神を決定する」ということになる。本質が異なる力─一方は延長を持ち、他方はそれを欠く─は、異なるそれぞれ自身の水準でしか、働きをもたず、意味も持たない。

身体の観念

力関係が成立しないために無関係と見なされた身体と精神は、スピノザにあっては、実体または神を通じて、再びひとつに結び付けられる。『エチカ』第二部において、人間精神が存在するためには、現実の個物に対する観念が必要であることを措定する。精神世界で、思考が実際に出現するには自然世界に存在する何らかの個物物体についての観念が必要ということだ。そのあと、身体と精神を心身平行論的に結合する。したがって、精神を自己の身体の見張人とする。この斬新な生理学的問題把握から次のような結論が出てくる。

つまり、人間の思考が働くには、認識する目的物、すなわちもっとも身近にある物的対象の先在が前提になるというのである。思考のこの最直近の対象は自分の身体だから、身体は感じた通りに存在するという結論となる。

この二つの定理とその系は、デカルトの「ワレ思ウ、故ニ、ワレ有リ」に対する根本的修正になっている。人間精神が現に働くものとして存在するためには、すなわち「ワレ思ウ」ためには、まず思考対象となる現実的個物の存在とその観念の形成が必要であって、デカルトのように、懐疑の果てに疑い得ぬものとして、身体から離れた純粋思考を定立する必要はない。そもそも精神は、個人の身体から離れることはできない。神ならぬ限界つきの人間の思考行為には、行為主体の他に、物的思考材料すなわち質料がぜひとも必要である。質料の原義的意味合いで、スピノザは唯物論者である。そして、最初に人間精神を成り立たせる観念の対象は身体である。だから、思考が開始されるときには、既に存在している思考対象の身体から諸観念が形成されるのである。そうなると、当然、対象である身体の方が思考以前に存在していることになる。しかも身体は「延長」と定義されているのだから、ひとつの物質的存在、つまり「ワレ有リ」である。これで、デカルト的懐疑の主題が証明されたわけである。「ワレ有ル」、ゆえに「ワレ思ウ」である。

デカルトが懐疑から出発して、上向しなければならなかったのは、思想史的に見ると、環境と時代による制約であって、デカルトの責任でなく、彼の能力が及ばなかったのでもない。それに対して、オランダという特殊な環境に置かれたスピノザには、人間個人の生存権をそのまま主張するための物質的根拠があった。スピノザの哲学は、すべてを一挙に成立させる直観から出発した。直観的に見て取れる「ワレ有リ」に理由などいらない。ただ人間が思考しさえすればよい。なぜなら思考には、延長ある思考対象の存在、すなわち物質的条件が付随しているからだ。

スビノザのこの立場は、「人間身体は、われわれが感ずる通りに、存在する」との断言と相まって、明らかに経験論を超えた、いわば「超」経験論でもある。人間にとって、生まれて初めての経験は、自分の身体があるという、身体の内におけるいわば内界でのきわめてプリミティブな経験である。そして、すべての延長ある物体が間隙を空けることなく並んでいて、それぞれが近接原因を形成しているわけだから、身体のすぐ外は、厳密に言うと、外ではなく内なのだ。スピノザが汎神論者と呼ばれるゆえんだ。しかし、この汎神論者は、「超」を冠するにふさわしい汎神論者だ。つまり、世界はすべて人間認識にとって内なのだ。

この後、スピノザは「人間認識とか、人間精神とかはどこにあるのか」という難問に対して、どちらの世界も神の属性である以上、一方は、次元を持つ文字通りの存在物によってあまねく汎神論的に満たされており、他方は、次元も時間も問題にできない「観念的存在物」によって、これまた内在主義的な汎存在論は、どちらも実体に依存していながら、相互には、力学すなわち表現的「力」による直接的な規定関係がない。思考、したがって思想は、そもそも自由だ。あらゆる物的制約を超えて。これがスピノザの心身平行論の真髄ではないだろうか。

しかし、この平行論のもっと独特で、常識外れなところは、精神は身体を通してしか働き得ないし、実現し得ないという点にある。精神は自己の身体の観念であって、身体ぬきには精神が成り立ちえないからだ。脳髄なしには思考しえない。このことから、例えば、身体では、いわば無色透明の生存のための努力とされるものが、精神では、ある意味ではおどろおどろしい人間の「欲望」と表現されるわけである。

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