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2012年9月11日 (火)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(8)

第2章 神とは無限の自然である

神即自然

スピノザはデカルト哲学を継承しながら、その論理を徹底させた。彼は、デカルト二元論の非論理性を神及び心身関係の面で批判し、論理的で整合性のとれた一元論を構築しようと考えた。つまり、彼はデカルトの二元論という強力に梃子を使って、みずからの一元的構造物を作り上げようとしたのである。

スピノザは、まず実体の唯一性を確立する。次に、実体は全世界、宇宙全体、森羅万象、全自然と同一であることが必然的に導出される。唯一実体は神そのものだから、自然即神という内在主義的神観が打ち立てられる。この神観は、旧来の擬人神観を斥け、神を人間の評価や意志や願望や信心からは無縁なものとして独立させる。また、実体の唯一性と絶対性から、世界には神以外存在しない。だから、世界が即神なのである。スピノザの神は、自己完結性と完全性と永遠性をみずからのうちに持つ。自己完結性は、自己原因として説明される。世の常識とは違っても自己責任という名の自己原因を持つ存在は神だけなのだ。ここは『エチカ』の中でも一番分かりにくい個所となる。神はみずからがみずからの原因であるから、始まりも終わりもない。したがって、神は、その意味で永遠である。神は原因であり、同時に結果である。それは完全能動者であり、かつ完全受動者である。神は、こうして、なにものの影響も受けず、同時にすべてのものを包み込んでいる。神は全体性である。したがって、神はこの世界のすべてであり、世界の全体である。それゆえ神だけで完全なのである。そうすると、世界は完全に出来上がっており、そこには、不完全なものが一つもない代わりに、万物は神即自然の「一部」であることになる。もちろん、この神即自然の「一部」は「一部」として時計の部品のように完全である。

目に見える限りでの存在物のこの部分性が人間には不完全性と映る。それも表象の世界にさまよっている人間の感性的認識の世界にだけ、不完全性が存在しているのであり、世界の本質を見抜く理性的認識の世界には本性的に善悪の区別がない。世界は神と同じで、完全だからだ。善悪の人間の皮相な判断に過ぎない。善悪の区別を世界から廃棄してしまうと、旧来からの、いっさいの論理学も廃棄されてしまう。旧来の宗教も同じく廃棄される。神は世界の必然性であるから、神即自然にはなにもかもが必要で、なにもかもが必然なのだ。

このような神観が人間倫理にとってなにを意味するかは、『エチカ』第一部の付録で素描される。ここでのスピノザは、人類の積年の病弊となっている先入見に満ちた宗教的偏見を打破する戦いを展開する。人類は類独自の精神構造を持つ。だから彼等は神に対して、しばしば偏愛を求め、現世に対する希望あるいは絶望から、神を人間的にものに歪曲する。この人間の期待感あるいは絶望感から来る誤謬に囚われた民衆は、神が現世を不完全なままで放擲しておいたので、「奇蹟」という手段を用いて現世を完成するために、働きにやってくると考える。しかし、この考えは、とりもなおさず神即自然を未完結で不完全な存在に仕立て上げることを意味する。この奇蹟期待の誤謬は、人間の行動規範である倫理学に最悪の害悪をもたらす。

神をどう定義するか

『エチカ』では最初に、実体に関する基本的定義が提示される。まず、自己原因は、自分の本性ゆえに存在しなければならないものと定義されている。ここで、原因とは、通常の場合、結果から見る時には、つねに自らの外部に存在するものだからである。人間の思考に入っている「原因」概念は、いつも決まって外部要因だ。事物Aから事物Bが生まれた時、あるいは、事物Aから事物Bが生まれた時、あるいは事物Aが事物Bに何らかの影響を及ぼした時、事物Aは事物Bの「原因」とされる。もちろん、事物Aと事物Bとは互いに別物だ。

これに反して、自己の存在性をも含む自己原因は、文字通り自分のうちに自分原因を内包している。それは自己完結性を有する。事物Aの原因が事物Aそのものだとすると、事物Aは全体性ということにならざるをえない。事物Aの外にはなにも存在しないからだし、何も存在する必要がないからだ。こうしたものこそ神ではなかろうか。神のこの自己完結性は、神的完全性であり神的内在性でもある。そして、神とは世界全体であり、全体性以外のなにものでもない。こうした自己原因性が無限性を含んでいることは言うまでもなく明らかである。存在するものすべてを神が包括しているのだからである。世界に果てがあるとすると先ほどの事物Aには含まれない事物Bが存在することになる。世界の果ての向こう側にそれがある。そうなると神の完全性も破れてしまう。だから、世界には果てがない。万物が事物Aなのだ。したがって、自己原因である事物Aは存在していて、なおかつ全体であるのだから、神である。原因と結果を同時に自己のうちに含んでいるということは、時間が経過しないということである。つまり、この神は創造の時間を持たないのである。神は永遠であるという、永遠とは、原因と結果が同時であることから理解される概念である。

続いて、スピノザの体系を体現する諸概念の定義が置かれている。同じ本性を持つものは、その類において有限であるとの定義がある。その例として物体と思考の関係が提示される。それは、哲学史上、スピノザの「心身平行論」として有名になっている。物体と思考は本性を異にするから、それぞれ独立していて、その類内部では、相対的な力関係が存在する。類内部のそれぞれの存在が他者存在から限定を受けるという意味だ。しかし、物体がいかに強力であっても、また、その反対に思考がいかに強力であっても、物体と思考のあいだには、相互限定関係は一切ない。つまり、類としては実体の属性で、完全に別個のものなのである。

ついで、実体の定義がある。実体はそれ自身の内にあり、かつそれ自身によって考えられるものと定義される。つまり実体は定義一の自己原因である。以下、実体に関係する諸概念が定義される。属性は、実体に関してその本質を構成するものとして知性が知覚するものである。ここまでは、自己原因の範疇にはいり、存在性と概念は一致している。「様態または実体の変状」になってはじめて外部原因が現れる。すなわち、様態とは、その存在理由が自分以外のものの内にあるものとなっていても通常の意味での原因または外部原因がここで示されるのである。

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