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2012年9月15日 (土)

大津真作「倫理の大転換 ~スピノザ思想を梃子として」(12)

形相と存在

スピノザには、どうしても形而上学的、「非存在的」存在が必要だった。というのも、これまた永遠で、無限の完全な唯一実体の「表現」だからである。もし、こういう形而上学的存在が想定されなければ、存在性を自らのうちに必然的に包含しない諸事物から成り立つ世界は、完全に偶然に支配されたカオスとなってしまう。もしも世界が所産的自然のみによって満たされているのなら、それらは相互になんの因果のつながりも、結びつきも持たないことになり、勝手に生成、発展、消滅を繰り返し、世界は混乱の極みとなる。混乱の極みとは、存在しないという事態の別表現だ。

我々が自然界の諸事物を認識することができるのは、諸事物が完全な姿態(形相)をもっているからである。完全な姿態とは、線分がどこかで、閉じて、完結していなければならない、という意味で、自己完結系でなければならない、ということの言い換えである。もちろん姿態そのものは、絵画にでもしなければ、存在しないが、しかし、事物の完全な輪郭は、もの言わぬままに、存在しているのは事実である。われわれは、それを認識することによって、それに名前を付け、科学的な原因探求を始めるのである。その際、あらかじめ観念として存在する一般概念のいずれかと照合する作業を行う。つまり、自然界の諸事物の存在と精神界での諸観念の存在が完全に合致するからこそ、我々の認識が開始されるのである。では、自然界の諸事物が持っている完全な姿態とはなんであろうか。それは、完結した自己充足の完全な秩序にほかならない。科学とはこうした秩序を認識していく作業のことである。一方、無限が想念的にしか認識できないのは、それが諸事物のように完結系でなく、輪郭がないからなのである。認識されるものは、必ず存在する。無秩序は認識できないがゆえに、存在しないのである。秩序を因果関係に置き換えてもよい。そうすれば、事件というものも完全な形で、見えてくるようになる。たとえば、フランス革命という例で言えば、表象としての浮かぶ姿は、民衆が手に武器を持って、バスティーユ牢獄の番兵を襲撃している姿であろう。歴史学では、フランス革命という観念は、この姿態に因果関係を加味して引き出されてくる観念である。牢獄の番兵襲撃は、形はあるが、名前のない具体的、限定的事実であり、フランス革命は、それに照応する抽象的だが、限界を持つ概念である。つまりそれは、定義づけられていて、必要とあれば、時間によって制限することもできる、ということである。したがって、それは、精神界では論理的に成立する限定を受けた観念である。もっとも、時間軸を乗り越える超越的思考ができるのも、この観念世界の特徴である。第三種の直観的認識なども、さしずめこの部類に入る。理論と現実とは異なる。このことを前提とすれば、概念間の連結を気にする哲学=論理学の観念世界では、人権宣言を発表している議場は、バスティーユ牢獄の番兵襲撃の後に来るのか、先に来るのかは、いまのところはわからない。理論的には、どちらも、他方の原因と認定できるからである。スピノザによれば、これこそが理論的思考の強みである。それは、時空を超えられるのである。実在する存在物にはこの飛躍ができない。時空が存在の条件になっているからだ。だが、この問題は「では理性が把握できるとしている真理なるものの基準は、どこにあるか」という重大な問題提起へと我々を誘う。いや、むしろ、真理の基準という問題にこの問いかけは直結していると言われなければならない。

存在物の必然性

イメージできるものは、姿態があるから完結しており、必ず何らかの形で、自然界にも精神界にも一意的に存在するのである。姿態は秩序であり、必然的因果関係の産物である。そのようなもののみが実在する。どうしてこうなるのか、と言えば、それは、神の被造物だからである。神がその存在と本質の期成因となっているからである。神が期成因となるこの世界は、神のり理性によって存在も本質も必然的に規定されている。そして、スピノザによると、必然的で合理的なものは必ず現実的に存在するのだ。現実世界は、秩序と法則があまねく支配する完全な世界であるがゆえに、われわれの目に映じ得る。映じ得るがゆえに、その忠実な映像が精神の世界にも存在するのである。

したがって、眼前の自然的世界が生々流転を繰り返すのは、法則的に生々流転を繰り返しているのであって、恣意的に消えたり、生まれたりしているのではない。そして、世界が必然性によって隈なく支配されている、という表現は、所産的自然のこの世界が必然的法則によって、統括されていることの決定的な最終表現なのだ。結局のところ、所産的自然も必然的に存在しなければならないのであり、その意味では、農産的自然が存在性を必然的に含んでいるのと全く同じ事態を、所産的自然の存在は意味しているのである。

スピノザの弁新論

スピノザの言う通り、世界は、完全に充足され、世界に外部というものが存在しないにしても、地上に、これほど悪が満ち溢れ、肉体的にも、精神的にも、欠陥を持った人間がほとんどどこにも見られるのはなぜか。なぜ神は、完全な人間ばかりからなる世界を作らなかったのか。これが多くの信心家を悩ませた弁新論の重大テーマである。スピノザがこの弁新論の重大テーマに対して与えた解答は、単純だ。すなわち、世界は完全であり、不完全に見えるのはみな人間が作り出した不合理な表象である、というものである。

なにもスピノザは、人間世界の改善を無駄な努力としているわけではない。人間関係や人間社会や人間能力を改善し、変革しようとしても、おのずと限度があることは、誰しも納得がいくことだろう。この限界こそ、事物の「本質」であり、事物の「能力」なのだ。だとすると、いかに有能な社会活動家にも、当然のことながら、対象の本質とみずからの能力に基づく限界を突破することはできない。ということになる。

したがって、スピノザによると、世界は事物の本性どおりに、それゆえ完全に進行されていて、そこには補足完成するためのなにものも必要ないということになる。この結論は、目的論を否定した進化論によって補強することができる。

目的論の完全否定

神を人間的表象で想像する民衆は、しばしば神の世界創造に目的を設定する。この偏見に対するスピノザの決定的回答は、神の完全性に関係している。もし神が目的をもって行動していることになると、神の作った世界に何らかの欠陥があり、それを是正しようと神が行動していることになる、というのである。けだし、神は眼前の世界に「満足していない」からだ。人間が神の意志に反して行動しているからか、それとも自然の大装置に摩滅等の欠陥が生じたからか、いずれにせよ神の完全性と全能性の仮定は、世界創造の目的を設定したとたんに崩れてしまう。

従って、自然言う世界には、全体として何の目的もないことを認めなければならない。この「定理」の「系」として導き出される結論は、自然はなんの役にも立たず、誰のためにも働いていない、ということである。それは、ただ法則通りに無限回転している機械のようなものである。

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