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2012年10月11日 (木)

國分功一郎「スピノザの方法」(9)

第四章 スピノザのデカルト読解Ⅱ

前章で『デカルトの哲学原理』の緒論を読解したが、この章では本論の読解に入る。

1.四つの操作

スピノザが「諸根拠」を扱うに当たって行った操作を概観する。スピノザが行っているのは、(1)独自の定式化、(2)省略あるいは削除、(3)並び替え、(4)書き換えという四つの操作である。

2.規則と順序

「諸根拠」の最初には十の定義が掲げられているが、スピノザはそれをそのままに引用している。定義は幾何学的様式による論述の出発点をなす、いわばゲームの規則である。この規則を認めなければ解説にはならない。しかし、「諸根拠」において定義に続く七つの要請は全面削除している。要請はデカルトの読者に対するお願いなのである。スピノザはデカルトの体系から説得というモーメントを削り取り純粋な体系を構築することを目指している。ここでのスピノザの要請の削除はこのことを裏付けるものである。スピノザは要請を削除することで、デカルト哲学から精錬を取り外す。そのうえで証明を説得ではなく純粋な体系構築の方向へと向け直す。そのために、照明が遂行されるまでの過程をより周到なものとすべく、三つの公理と四つの定義を付加するとともに、十ある公理に徹底的に手を加える。

スピノザが独自に定式化した公理は次の三つである。

(公理1)未知の事物の認識と確実性に到達するには、認識と確実性においてその未知の事物に先立つ他の事物の認識と確実性によるほかない。

(公理2)われわれの身体の存在を我々に疑わせる諸々の理由が存在する。

(公理3)もし我々が精神及び身体以外の何ものかを有するかしたら、そうしたものは精神や身体ほどには我々に知られない。

ここで、スピノザがわざわざ公理として立てたということは、デカルトにとって明示する必要すらないほど自明でぁったのにもスピノザは少しも自明でなかったということだ。(公理3)では我々が精神と身体以外のものから構成される可能性について言及している。スピノザには、デカルトの前提である精神と身体の二分法が自明ではない。つまり、最終的に精神と身体の二分法が正しかろうとも、我々が精神と身体以外のものから構成されている可能性を、証明なしには排除できないのである。それゆえに公理としてあげておく必要がある。

三つの公理を経て、我々は定理群に辿り着く。ここに四つの定理が掲げられている。

(定理1)我々は自分が存在することを知らない間はどんなものについても絶対に確実ではありえない。

(定理2)「私は存在する」ということは、それ自体自分で知らなければならない。

(定理3)「私は存在する」ということは、私が身体からなるものであるかぎりにおいては第一に認識されることでもないし、またそれ自体で認識されることでもない。

(定理4)「私は存在する」ということは、われわれが思惟するものであるかぎりにおいてのみ第一に認識されることである。

「諸根拠」は定理の中で神の存在の証明から始まる。これに対して、スピノザは「私は存在する」という命題から始めている。マルシアル・ゲルーの解釈では、デカルト自身によれば、『省察』は「私は存在する」から始まる「分析」による論述、「諸根拠」は神の存在証明から始まるが、それは「総合」による論述だという。「分析」が従う順序とは、発見の順序、認識理由の順序と言える。この順序は我々の認識の確実性を可能にする諸条件の連なりに他ならない。これに対して「総合」が従う順序とは、事物の順序、存在理由の順序で、現実の諸事物がそれに沿って配置されるところの順序にほかならない。事物の順序という観点に立つのであれば、自我(コギト)にとっての最初の現実は、それ自体において第一である現実(神)に従属することになる。こうなると、「諸根拠」は総合によるデカルト哲学の開陳の典型例ということになる。これに対してスビノザは「私は存在する(これはそれだけで確実である)、故に私は思惟する」と命題を並び替える。これはデカルトとスピノザの論述プロセスの違いを表わし、デカルトは知から存在へ、主体から客体へ、我思うから我有りへと向かう。これに対し、スピノザは存在から知へ、客体から主体へ、我有りから我思うへと向かう。かくて、デカルトとスピノザはシンメトリックな関係で捉えられる。

しかし、著者はこれを批判し『デカルトの哲学原理』は『省察』ではなくて「諸根拠」を解釈している書なのである。だからこそ、普段はコギトから始めるデカルトが「諸根拠」では神より始めているというのに、「諸根拠」を解説するスピノザはコギトから始めているという奇妙な事実なのだ。スピノザの態度は次のような問いかけとして解釈できる。「現在は総合で論述が進められている」という宣言をもってこの厳命を斥けることが可能なのか。総合で書かれているからといって、論述の出発点をコギトから神へと変更することなど可能なのか。勿論スピノザは不可能だと考えていたからコギトでもって論述を開始した。これは、スピノザが次のように考えていたことを意味する。「諸根拠」は『省察』本編をすでに読了した読者だけを対象としているのであって、『省察』本編に添付される補遺としてのみ成立するテキストである。「諸根拠」は『省察』本編の議論を密輸入している。デカルトは「諸根拠」において総合で論述を展開したと述べているけれども、そこで導入されているのはたんに幾何学的者の用いる論述形態にすぎず、彼の言う総合は分析を下敷きにして初めて成り立つ。

スピノザは『省察』本編の密輸入を許さない。「諸根拠」をコギトから開始する論述の順序に書く直すことができたという事実は、デカルトが言う総合と神の存在証明から開始するという論述の順序の間になんらの必然的関係も存在しないということを意味する。スピノザの読解作業を敷衍すれば、「諸根拠」分析を前提にしているにもかかわらず、幾何学的様式をとることにより、みす゜から総合的であるかのように提示していると言うことができる。つまり、幾何学的様式で書かれていようとも、その体系が総合的であるわけではない。「諸根拠」は幾何学的様式で書かれた分析的体系なりだ。

そして、スピノザはコギトの存在が唯一かつもっとも確実な基礎としてあげ、それだけによって明晰判明と言う基準の正しさを証明する。この後、公理が「諸根拠」に比して大幅な並べ替え、省略・削除、書き換えと言った作業を加えている。これらの操作は公理を適切な順序に置くためのものであり、適切な順序とは、すべてがコギトに始まり、コギトだけに依拠する、そのような順序であるということだ。

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