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2012年10月 9日 (火)

國分功一郎「スピノザの方法」(7)

2.コギト

『デカルトの哲学原理』の緒論においてスピノザが最初に説明するのがデカルトの懐疑である。彼はなぜすべてを疑ったのか。そしてどうやってそこから抜け出したのか。スピノザによれば、デカルトは思惟を進めるに当たって次の四つの課題を自らに課した。「一、すべての先入見を除き去ること。二、いっさいのものがその上に建設さるべき基礎を発見すること。三、誤謬の原因を明らかにすること。四、すべての事柄を明晰判明に認識すること。」疑わしいものはすべて疑うべきである。感覚的なものをはじめとして、知性によって把握された普遍的真理でさえ、「なんでもできる神」が存在していて、「彼にもっとも明晰と思える事柄に関してさえも彼が思い誤るように仕組んでいるかもしれない」スピノザは以上を指して「懐疑の泥沼」と呼ぶ。この泥沼の中でデカルトは、他のなんらの理由からも疑い得ないものが何か発見されたら、それこそすべての認識をその上に築くべき基礎であるはずだと判断した。その結果有名なコギト命題「私は思惟する、ゆえにわたしは存在する」へと到る。だが、スピノザはこの命題へといたる道筋を再確認して満足するのではない。すぐさま重大な問題提起が行われるのである。

それは、コギト命題は大前提の隠された三段論法と考えてはならないということである。隠された大前提とは、「思惟するためには存在しなければならない」というということだ。もし三段論法であるなら、この大前提が「私は存在する」に先行し、かつこれを基礎づけることになってしまう。これはスピノザの主張ではなく論理的な要請であり、デカルト自身の見解でもあった。だが実際には、デカルトはコギト命題を三段論法のとして扱っているような記述を残している。以上の事実はスピノザの読解作業を容易ならざるものにしている。

そこで、スピノザはデカルト哲学の根幹というべきコギトの命題を定式化し直す。「私は思惟する、終えに私は存在する」という命題は、「私は思惟しつつ存在する」という命題に再定式化する。cogito, ergo sumという命題は、二つの節から成立しているかぎり、大前提となる命題を必要としてしまう。この命題を三段論法から区別するためには、単一命題にしなければならない。つまりergoを取り除かなければならない。スピノザはコギト命題の問題をこの接続詞の一点に集約させたのである。

スピノザがやっているのは、コギトの置かれている状態を描写するということである。「…だから存在する」と証明する代わりに「…の状態で存在している」と描写する。従ってこの再定式化は、たんにふたつの節からなる命題を単一命題に置き換えただけではない。命題の目指す方向が完全に変更されてしまっている。デカルトの提示したコギト命題の持っていた機能はスピノザによって再定式化された命題においてはその優先順位を限りなく低くしている。デカルトは懐疑している自分に、そして疑うこと以外に目的を持たない懐疑論者たちに「私は存在している」ということを証明し、自分そして彼らを説得しようとする。これに対し、スピノザの視界にはそのような証明も説得も入ってきていない。このことを疑うような人たちは射程に入っていないのだ。

このような再定式化された命題でデカルト哲学を支えることは可能なのか。デカルトは「私は思惟する、ゆえに私は存在する」という形の命題を強いる必然性のなかで思考しており、またこの命題の形を変えてしまえば体系全体が形を変えてしまうことを理解していた。デカルトは疑うためだけの懐疑論者、そして何もかもをどうしようもなく疑ってしまう自分にコギトの存在を証明し、そのことを説得しようとしていた。だから状態の描写ではだめなのだ。いかなる問題を引き起こそうとも

Ergoという語の入った存在証明の命題が必要だった。つまり、デカルトの体系は「私は思惟する、ゆえに私は存在する」をこの形で必要とした。それが潜在的に「私は思惟しつつ存在する」という命題を宿しているとしても、それは潜在的なものでしかありえない。したがって、スピノザが提出する命題は「そのように書くこともできた」という代物ではない。可能的な命題ではない。

『デカルトの哲学原理』をどう位置づけ、どう読むべきかについてのヒントを得ることができる。同書で取り上げられているのはデカルト哲学構成する諸要素である。スピノザはその中で自らの思想を語っているのではない。スピノザは、そうした諸要素間に潜在する論理を取り出し、それによってデカルト哲学の整合性を高めようとしている。だが、その潜在的論理は、スピノザがデカルト哲学にどの弱点があると考えていたのか、そしてその点はどうあるべきだと考えていたのか、それを明瞭に語っている。たとえばコギト命題は、デカルト自身がどう考えようとも、現状のままであるかぎり第一真理たることという自らの使命を全うできない、スピノザはそう考えている。したがって取り出されてくる潜在的な論理の性質に目を向ければ、スピノザが望ましいと考えるデカルト哲学の方向性も見えてくる。われわれが『デカルトの哲学原理』において読むべきは、スピノザがデカルト哲学のどこをどうやって乗り越えようとしたかを知ることができるはずである。

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