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2012年10月14日 (日)

國分功一郎「スピノザの方法」(12)

第五章 スピノザのデカルト読解Ⅲ

前章で『デカルトの哲学原理』の公理11までを読みながら、その中に読み取れるスピノザのデカルト哲学に対する疑問をひとつひとつ明らかにしていった。それらの疑問は、つまるころデカルトの観念の考え方に対する疑問に集約される。スピノザはデカルトに表象としての観念を見ている。表象にとらわれているかぎり、我々は様々な難問に直面せざるを得ない。スピノザは恐らくそう考えていた。

神の証明に関する部分の議論は省略するけれど、全体のまとめとして、『デカルトの哲学原理』はその内容においてスピノザの思想を語っているわけではないが、その内容の扱いにおいてスピノザの思想を語っている。そのようにして同書の緒論及び第一部を読むことで、デカルトの観念の捉え方に対するスピノザの疑問を浮かび上がさせた。一言で言えば、スピノザの疑問はデカルトの考える観念が表象であることに向かっている。では、観念が表彰であるとはどういうことか。それは観念の原因が実在に求められているということ、観念に実在と因果関係を取り結ばせているということに他ならない。

表象論的観念思想はデカルト哲学を貫く要請のひとつ、説得の要請から切り離せない。そのことは神の存在証明において鮮明に現われている。デカルトにはア・プリオリな証明の妥当性はよく分かっている。だが、その証明はけっして人を説得しない。それはすでに神の存在を受け入れている人に、あらためてその存在の確証を与えるものだからだ。それゆえ、デカルトはア・ポステリオリな存在証明を前面に押し出す。そして、ア・ポステリオリな存在証明のためには表象論的観念思想が絶対に必要である。かくしてデカルト哲学の一貫性、そしてそれに対するスピノザの疑問の一貫性が明らかになる。スピノザが自らの方法の実現ために必要とした観念思想の方向性がここから理解できる。それは観念の実在に求めないという意味での脱表象論的観念思想であり、また説得力に対する無関心に貫かれているはずである。

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