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2012年10月16日 (火)

國分功一郎「スピノザの方法」(13)

第三部 逆説の解決

第六章 スピノザの観念思想

1.道について、ふたたび─方法の逆説の解決

方法をめぐって現われる三つの形象にもう一度目を向ける。

最初に、道具の形象。精神は道を進みながら観念を次々に獲得していくが、それらひとつひとつが道具となって次の観念の獲得を手助けする。つまり精神は、道を歩みながら、前に進めば進むだけ、前に進むのに役立つ道具を増やしていく。スピノザの観念思想の目論見の方向性が見えて来たいま、その意味するところを厳密に捉える必要がある。それは知れば知るほど、知るという行為自体が容易になっていくことを意味している。だが、それがスピノザの観念思想とどのような関係があるのか。いかなる意味において精神は、道を進みながら道を進むのに役立つ道具を獲得していくのか、これらを道具の問いと名付ける。

次に、標識の形態。観念の獲得は、獲得される観念の真理性が疑われる余地のない仕方で実現される。ひとたびこの観念獲得の道を歩み始めたならば、獲得された観念が真であることは、真の観念を獲得する者にとって疑いがなく、したがって、外部に真理の標識を求める必要がない。そしてそれゆえ、真の観念を獲得していない者には新観念を伝達することができず、浸麻観念を獲得していない者はその観念の真理性を理解することができない。ここまで、このテーゼを、説得を求めないというスピノザの思考のイメージによって説明してきた。これからは、このテーゼかスピノザの観念思想といかなる関係を持つのかという標識の問いを問う、

最後に、これら二つの形象を経由し、スピノザが辿り着いた道の形象。スピノザは方法を道と考えた。方法とは諸々の観念が適当な順序で求められる道である。では、道としての方法は精神の指導と抑制という方法に期待される役割をどう果たしうるのか。そして蜜としての方法は、無限遡行の回避と方法論の企てという矛盾した要求にどう答えうるのか。そして、道という形象について二つの問いを提起する。まず、この道は具体的にはどんな道なのかという理論的な問いである。次にこの道を歩み始めるにはどうしたらよいのかという実践的な問いである。手がかりとして『知性改善論』の一節から二つの論点を抽出している。

(1)二つの観念の間にある関係と、それらの観念対象の間にある関係との関係について、言い換えれば観念の連なりと事物の連なりとの関係について。これは、道として定義された方法が具体的には何の連なりであるかを説明するものである。

(2)最高完全者の観念について、この観念は我々の考える道の出発点に関わる。観念間の関係と、観念対象間の関係とが同一であるなら、もっと優れた観念対象の観念こそが、最も優れた観念であることとなり、それゆえこの観念が規範となって、精神を導いていけばよいことになる。そのためには最初にこの観念が獲得されねばならない。

まず、(1)の点から見ていくと、二つの観念の間にある関係、それら二つの観念の対象にある関係、これら同一と言われる二つの関係は交互関係という語で名指されている。スビノザ自身による注により、ここでいう関係が、産出・発生の観点から捉えられていることが分かる。二つの観念の間にある関係、そしてふたつの観念対象の間にある関係は、一方が他方を発生させる関係である。スビノザによれば観念の連結は、ある観念が他の観念を発生させる、発生の連鎖のことである。これはスピノザが観念を事物の世界からでなく、観念の世界だけで考えていることを意味ずる。精神は、写生でもするように事物の世界を見ながらそれを観念の世界に描き出すのではなく、観念の中に観念だけを使って観念の連鎖を創り出す。スピノザは観念と事物の間に因果関係を認めない。観念の原因は観念のみである。このようにスビノザは観念の世界を事物の世界から切り離した。その上で、観念の連結と事物の連結の同一が主張されている。では、その同一性とはいかなるものであるのか。

スピノザは観念と事物の位置関係を前後関係ではなく平行関係と見た。Concatenareされたラインが二つ走り、その間でreferreが起こる。これがスビノザの構想する脱表象論的観念思想の概要である。では、観念の連結と事物の連結の同一性はいかなるものであるか。それは、次の三つの同一性を意味する。第一は、序列の同一性である。事物も観念も同じ順序で並び、連なりを形成している。事物の連なりにおいてA→B→Cという序列が確認されるのであれば、観念の連なりにおいてもA→B→Cという序列が確認される。ふたつのconcatenatioの間でreferreが可能であるためにはこの原則が貫かれていなければならない。

第二に、二つの連結の序列が同一であるためには、当然二つの連結を支配する法則が同一でなければならない。法則の同一性、これが第二の原則である。法則と言っても、具体的には因果法則のことを指している。Aという事物がBという事物を発生させる、その際とまったく同じ因果関係の法則によって、A問う観念がBという観念を発生させる。

最終的にこの同一性を支える三つ目の原則は、法則の同一性が可能であるためには、法則の適用される対象群の間にズレがあってはならない。その法則の適用されるふたつの対象群が一対一対応をなしていなければならない。これは要するに、事物と観念が存在として同一であることを意味する。存在の同一性、これが脱表象論的観念思想の要求する三つ目の原則である。事物と観念は同じ存在であり、同じ一つの存在が別の仕方で考えられた、あるいは別の仕方で現われたものであると考えるところまで進まねばならない。

この三つの原則によって実現される観念思想とは、『エチカ』がその特異な神の観念によって可能にした観念の考え方、後にライプニッツによって平行論と命名されることになる思想に他ならない。神は無限に多くの属性を有する実体であり、存在するのはこの実体とその変状だけであり、この変状が延長の属性において考えられれば事物、思惟の属性においては考えられれば観念と言われる。

脱表象論的観念思想がいかなる方向に向かって構想されているのか、そしてそれが実現された際にいったいどういうことが起こるのかを、次いで、(2)の論点で見ていく。あらゆる観念は最高完全者の観念から導き出されねばならず、あらゆる観念の源泉はそこに求められねばならない。そして最高完全者の観念を始点としてあらゆる観念が導き出されるなら、観念対象の連結に完全に対応するような、諸観念の連結が得られる。事物の世界から完全に切り離され、そこからいかなる因果関係上の影響も受けないにもかかわらず、それに完全に対応する観念の世界。あらゆる事物の起源の観念からあらゆる観念を導き出すことができれば、そのような観念の世界を構築できる。

すると、ここから方法の逆説の解決が見えてくる。精神の指導と制御のためには規範が必要である。スピノザの考える規範は、精神が活動するたびに参照しなければならない規則ではありえず、精神の活動と区別できないような規範でなければならない。この規範は、具体的には諸観念の起源としての最高完全者の観念に到達し、そこから諸観念を導き出すこととして構想されている。つまりこの規範は行為そのものである。それが実現されるとき、精神によって獲得される諸観念は、事物の連結と全く同一の連結を成す。観念を獲得していくのは精神自身だが、獲得される観念は秩序づけられた連結を有している。したがって、たしかに精神が観念の連結を形成するのだが、その観念の連結が精神を指導・制御することになる。これが道としての方法が行う、精神の指導と制御である。それが実現する時、最高完全者の観念から諸観念が発生するその運動と精神が一体化した状態が起こる。

方法という道を歩んでいく限り、獲得された真の観念に対して懐疑が発生しえないこと、真理の標識を必要としない。それは、真の観念を獲得していくにあたって、知性はその観念だけでなく、その観念を貫き、またそれを他の観念と結びつけている法則、すなわち知性の法則についての観念を同時に獲得するからである。言い換えれば、知性は真の観念を獲得しつつ、その観念の内容を受け取るだけでなく、その観念が一つの対象としていかなるものであるのかを説明する観念、すなわち観念の観念をも獲得するのである。方法が観念の観念であると言われるのはそのためである。我々はひとつの観念を目にするなら、それがどれだけ明晰判明であろうと、懐疑の可能性を捨てきれない。道としての方法はそれ故、観念と同時に、その観念を貫く法則についての認識を与えるのである。言うまでもなく反省的認識の場合と同様、スビノザの方法を実現するべく観念の観念を形成しようとしても無駄である。スピノザの方法が実現されたときに獲得される観念が、真の観念であると同時に観念の観念であるということなのだ。

精神の規範が精神の活動そのものと区別できないということは、規範だけを活動に先立って示すことはできないことになる。そこでは、いま言ってきたような「諸観念の起源としての最高完全者の観念に到達し、そこから諸観念を導き出すべきだ」という言表すら排されねばならないことになる。だとすると、われわれは方法論の逆説をどう考えたらよいのでろうか。

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