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2012年10月11日 (木)

國分功一郎「スピノザの方法」(8)

3.循環

緒論で取り上げられているもう一つの重大な論点である「明晰判断」という真理の基準について検討する。スピノザは、ここでデカルトに対する疑問を白状してしまって、明晰判断は程度を持つ量的基準であのだから、それを真理の基準とするのであれば、どの程度であれば真と言えるのかをはっきりさせる必要がある、つまり基準の基準が必要だと言っているのである。

デカルトも明晰判断における程度の問題の重要性を認識していた。しかし、デカルトはそのことを、はっきりとはさせない。それは、明晰判明な観念の正しさを神によって保証させようとするためだ。

スピノザの解説を追ってきた我々には、この考えは奇妙である。スピノザが言うように、(1)明晰判断は相対的な量乃至程度であるのだから、明晰判明を真理の基準として採用するのであれば、「これは真である」との判断を許す明晰判明の量乃至程度を判定する別の基準、砂綿基準の基準が必要であり、そして、(2)あらゆる学問の基礎はコギトの存在であるはずなのだから、この基準の基準はコギト以外のものに依拠してはならないはずだ。しかし、デカルトは明晰判明を神によって保証しようとし、いわゆる「デカルト的循環」の問題が発生することとなった。一般に「デカルト的循環」は次のよう形で知られている。

(1)デカルトは、きわめて明白と思われる事柄についてすら現われてしまう疑いを取り除くために、彼を絶対に欺くことのない神というものの存在を証明しようとした。

(2)ところで、神の存在を証明するためには、ある種の事柄が真であると前提しなければならない。つまり、神の存在の基礎について明晰判明な観念を真なるものと認めなければならない。

(3)だず、それは神が彼を欺くような悪しき霊でないことが証明されるまで禁じられているはずである。このようにして、循環が現れる。

これに対して、スピノザは神の存在によって明晰判明な観念の正しさが保証されるという論理を前景化はしないが、その論理が導き出せないわけではないような書き方をすることで、「デカルト的循環」をギリギリのところで回避している。誤謬の原因は混乱した知覚に同意してしまうことにあり、それは我々が数多く有する先入見ゆえのことである。したがってただ混乱した知覚を避けようとするだけでは不十分で、そこでデカルトは観念を単純な観念に分割していく方法を取った。そうすることによって、どれが明晰判明で、どれがそうでないか分かる。しかし、単純であることと明晰判明であるであることとは別である。できるかぎり単純なものへと分割していきながら「私は思惟する、故に私は存在する」という命題と同じ程度に明晰判明なものが得られたなら、それが真であると認定されるのである。このようにスピノザはデカルトが「懐疑の泥沼」から解放される過程を説明して見せた。

スピノザは、最後に神の存在という我々が知り得ないことこそが不確実な前提であり、そこから確実を結論として導くことはできないという批判にこたえる。神の存在を知り得ないということは、神の存在が証明を必要とすることだ。コギトの存在はそれ自体で自明であり、またそれ自体で自明でなければならなかったが、それとは異なり神の存在は証明されねばならない。そして神の存在の証明は明晰判明という基準の正当性を前提とするわけだが、この明晰判明という基準は、デカルトによれば神の存在によってしか正当化されず、したがって循環が現れる。しかし、スピノザは、明晰判明が神の存在によって保証されるという点に言及しない。これについては、コギトの存在によって保証させていた。

したがって神による保証という問題がなくなる。それだけでなく、我々の知覚がいかに明晰判明であろうとも、この知覚する欺瞞者たる神による捏造であるかもしれないという懐疑の余地がある。これを以下に取り去るかということだ。そのためには、神は欺瞞者ではあり得ないと認識すること、すなわち、神の何たるかを教える観念を形成することにほかならない。つまり、ここで、スピノザは神の存在と神の観念を区別して後者こそがあらゆる物事についての確実性に到達するために必要だと言っているのだ。神が存在するのかどうかを問うのとは別に、そして神が存在するのかどうかを問うよりも前に、神が何であるかについての観念を計施することが必要であると言っている。

整理するとこうなる。神の存在は明晰判明という基準によって証明されるのに、当の明晰判明の正当性が神の存在によって保証されているという循環は、スピノザによって次の三段論法へとずらされる。我々は神について明晰判明な観念を持たないうちは、いかなるものについても確実ではあり得ない(大前提)。ところで神が我々を欺くかどうかを知らない限り、我々は神について明晰判明な観念を持ちえない(小前提)。ゆえに我々は、神が欺くかどうかを知らない限り、いかなるものについても確実ではありかえない(結論)。このずらし操作は、神の観念と神の存在という水準の区別によって正当化される。そのうえでコギトの確実性により証明されていた明晰判明な観念の正しさをもって、かみについての明晰判明な観念の形成可能性を肯定するとともに、懐疑を取り除き、循環を切断する。

このように神の観念と神の存在という二つの水準の区別は、スピノザのデカルト読解を読解するうえで重要な意味を持っている。

私たちは誰しも神の観念を持っている、あるいは少なくとも「神の観念を自らの内に持つ能力」を持っている。この神の観念は公的であり、それゆえそれは神の実在を「何ら議論せずとも」私たちに認識させることを可能にする。神の観念は誰にも共通であり、何らかの必然性を持ち、私たちに真理を示すデカルトは神の観念のこの公的な性格を発見した。デカルトは神の観念について、それをいかに形成するかを問題にせず、われわれが神の観念を有しているという事実から出発する。神の観念は既成事実に、神の存在は推論対象にそれぞれ配分される。それに対し、スピノザは、神の観念そのものが推論の対象だと考えている。デカルトは神の観念の形成、あるいは構築を問題にしない。なぜなら我々はすでに神の観念を有しているのだから。デカルトが目論んでいるのは、我々がすでに有している神の観念の精錬、明晰性を欠く神の観念を磨き上げることである。デカルトは、我々の精神に刻みつけられた神の観念を出発点として、それを精錬し、明晰判明な観念へと高めていく。これに対してスピノザは、デカルトを取り巻く様々な難題を解決しようと解説を続ける中で、既にある観念を磨き上げるのではなく観念そのものを組み立てること、形成することの可能性を前面に出す。

そもそもスピノザは、われわれの精神の中に神の観念がすでに存在しているという点に全く触れない。スピノザは、いわばデカルトが哲学を構成する諸要素に陰影をつけることで、デカルトを読んでいるだけではすぐに見えてこない潜在的な回路を示し、デカルトが曖昧にしていた、あるいは曖昧にせざるをえなかった領域をきれいに整序しようとしている。

デカルトが目指したのは言うなれば説得であり、デカルトが発見したコギトはそれ自体で懐疑主義者を蹴散らすことのできる一撃必殺の真理なのだった。神の存在証明も同様の課題を背負っている。精錬は読者の精神へと働きかけ、知識の漸進を読者自らが受け入れられるようなコンディションづくりを目指した操作である。そうしたコンディション作りが成功してこそ、神の存在証明が意味を持つ。明晰判明という真理基準がなぜ神によって保証されねばならなかったのかも、ここから説明がつく。明晰判明に理解されたものはそれ自体として真であると認めてよいのであって、神の保証は必要ないのではないかと尋ねたレギウスに対し、デカルトは、どうやっても何度やっても再び会議に陥ってしまう自分を説得するために、神による保証を必要としたのだ。

スピノザは説得というものの必要性は完全に無視し、というよりも、それを取り去ることでコギトを解釈上の困難から救い出したと言える。その結果、論理的整合性がとわれた純粋な体系が目指されたといえる。デカルトのテキストの中で、例外的に精錬が明確な形で証明から区別され、精錬の歩みが証明に先行指定明記されているのが「諸根拠」である。『デカルトの哲学原理』においてスピノザが熱かったのがこの「諸根拠」であったのは、スピノザのデカルト解釈は解釈の方向性のみならず、扱うテキストの選択においても完全に首尾一貫していたことになる。スピノザは神の観念に関して精錬の必要性を認めない。

スピノザのよるデカルト哲学の再構成はデカルト哲学の中にある一定の要請に従って行われている。

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