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2012年10月 6日 (土)

國分功一郎「スピノザの方法」(4)

第二章 方法の三つの形象Ⅱ

1.道─方法の逆説

「真の方法は、観念の獲得後に真理の標識を求めることではない」このテーゼは、スピノザが標識の論理に見ていた問題をさらにもうひとつ明らかにしている。標識を探し求める限りわれわれは「観念の獲得後」に身を置かざるをえない。いかにして観念を獲得するかを問題とすべきなのに。このように、獲得された観念について問うのではなく、いかにして観念を獲得するかを問わねばならないとすると、スピノザが方法の第三の形象について次のように言う。「真の方法は真理そのもの、あるいは諸々の事物の想念的本質、あるいは諸々の観念が適当な順序で求められる道である」

ここで一番重要なことは、この道は真理に至る道ではないということである。つまり、道程を経た後に諸観念が獲得されるのではない。そうなったら無限遡行に陥ることになる。だから、諸観念がひとつひとつ獲得されていくことの連なりとして描かれる線そのもの、それが道と呼ばれているのだと考えねばならない。この道は、その道程において諸観念が獲得される、そのような道である。道という形象で名指されたこの線は、「適切な順序」とも呼ばれている。その中を通れば真理そのものが適当な順序で得られていく、そのような道、それが真の方法である。

前節でスピノザは方法が何であるのかを議論した。ここでは、方法が何を為さねばならないかを述べることから始まる。方法が何であるかは、上述の通り「方法は道である」という定式に辿り着く。しかし、方法は、方法である限りにおいてその御力一歩退き、その道について語るのでなければならない。方法の定義が方法と道との同一視を求めるのに対し、方法の役割は両者を区別することを求める。すると、我々は方法が相矛盾する二つの地位を求めていることになる。つまり、方法は道と同一であると同時に同一であってはならないことになる。ジョアキムは、道としての方法という定義と、その方法に期待される精神の指導と制御という役割が両立するということは、方法が道と同一であると同時に同一でないという矛盾が肯定されることを意味するという。ジョアキムは、これを『知性改善論』挫折の理由の一つと考える。彼は次の3点を指摘する。

(1)スビノザの方法は、諸々の観念が獲得されていく道のことだった。それは、それが指導し制御する対象であるところの認識の前には存在しない。だから当然のことながら、この方法は、その認識を指導すること、制御することも出来ない。

(2)第38節は方法が「反省的意識」であるとのべているが、ここから類推して、獲得済みの観念に後から手を加えるのだと考えることもできない。そのようなことは述べられていないし、そもそも、それでは真の観念を誤謬へとねじ曲げることになる。

(3)したがって、スピノザの方法の存在すら疑わしい。反省を加えることがその対象になんらの変更も加えないのであれば、反省的認識は最初の認識からいったいどうやって区別されるのか。つまり、観念の観念は観念からどうやって区別されるか。

ジョアキムは『知性改善論』が未完の遺稿であることを考えると、不完全さは当然という。スピノザが方法を巡る諸問題を突き詰めたあげく到達した方法は、ある種の分裂、ある種のジレンマを抱え込んでいる。それゆえに根本的な改変が必要だと説く。

では、ジョアキムの言う根本的改変によってどうなるのか。人は方法という時、これに従えば何も気遣う必要はないと信じることのできる「認識の理論」を思い描く。予め存在していて、それに従えばいいガイドラインのようなものを求める。ジョアキムはこれを「明らかな初歩的謬見」と呼んだ。スピノザには、そのような幻想はない。この幻想は、まさしく無限遡行を無視することにより維持されうるものだからである。だが、ここで疑問が残る。スピノザの方法は、「明らかな初歩的誤謬」を取り除くものに過ぎないのだろうか。スピノザは自らの考える方法に精神の指導と制御という役割を期待したが、その期待は間違いだったということなのか。

スピノザは、その後、無限遡行をされる立場から、たしかに真理は自ら自己を明らかにするけれど、そうしたことはまれにしか起こらないから、真理を明らかにするためには、たとえ不本意であろうとも無限に続く探究を招きよせざるを得ない推論に訴えかけることが重要である。したがって、一次的な例外措置によってある種の推論を「無限に続く探究」禁止の規則から除外する。ということを述べる。

そして、このようなことから、方法論に向けられる疑問に対して、次のように答える。スピノザは、そこに逆説があることを自覚しているようだ。方法論を企てるのならば我々は無限遡行の問題に取り組まざるを得ない。しかし無限遡行の問題は方法論の企てそのものを疑問に付す。方法論を紡ぎ出す推論を基礎づける方法論が必要とされ、この論理は無限に遡ることができるからである。つまり、方法論は方法論である限りにおいて無限遡行の問題を解決できない。方帆論の逆説である。

我々は、ここで二種類の逆説に直面している。ひとつはジョアキムが指摘した逆説、すなわち方法の定義と方法の役割の不整合という逆説(方法の逆説)。もう一つは方法論の逆説である。両者は同型の逆説である。どちらの場合も、無限遡行を回避しようとするがゆえに自己否定に陥っている点では変わりがないからである。ジョアキムは方法の逆説は指摘したが、方法論の逆説を指摘するには至らなかった。だから、彼は『知性改善論』の根本的な改変と完成によって容易に解決できると考えた。

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