無料ブログはココログ

« 國分功一郎「スピノザの方法」(5) | トップページ | 國分功一郎「スピノザの方法」(7) »

2012年10月 8日 (月)

國分功一郎「スピノザの方法」(6)

第二部 逆説の起源

第三章 スピノザのデカルト読解Ⅰ

第一部ではスピノザの方法をめぐって現われる三つの形象を検証し、二つの逆説に至った。これ等の逆説を解決しなければ、スピノザの方法の何たるかを知ることはできない。まず、この二つの逆説はジョアキムとヴィオレットによって指摘されている。しかし、彼らはその矛盾を解決することはできなかった。彼らが方法を論じるに当たって方法だけを論じていた。方法について論じるのだから、論述対象を方法に限定するというのは当然のように思える。彼ら二人が強調したのが、スビノザの方法はその適用に先立って存在しないということだった。方法はその適用と区別できない。区別できないから逆説が生じている。ならばどうして適用という点を無視して方法だけを論じるのだろうか。

スピノザの方法が適用される対象と何か。先の三つの形象に注目すればすぐに分る。それは観念である。方法をめぐって現われる三つの形象は、すべて観念のありようを規定している。獲得された観念は次の観念のための道具となり、獲得された観念は真理の標識を必要とせず、獲得された観念は次の観念獲得のための道具となり、獲得された観念は真理の標識を必要とせず、観念を獲得する道筋そのものが方法と言われる。スピノザの方法はスピノザの考える観念、観念についてのスピノザの思想と切り離せない。奇妙と言わざるを得ない彼の方法概念を、スピノザが平然と提示することができたのは、彼が独自の思想を前提していたからかもしれない。ということは、観念についてのスピノザの思想を解明することができれば、二つの逆説にうまくアプローチできる可能性がでてくる。

ここからさらに、もうひとつの目算が立てられる。それは、スピノザの方法が求める観念思想の革新がデカルト哲学の乗り越えとして構想されているのではないかというものだ。

スピノザの方法の解明を目指す我々は、ここまでスピノザの方法論である『知性改善論』を読み進めてきた。しかし、スピノザがデカルト哲学をどう理解し、そこから観念についてのいかなる思想を紡ぎ出すに至ったのか。スピノザの方法の解明は、そのような問いを我々に突き付けている。スピノザの方法の解明はスピノザの観念思想の解明を要請し、スピノザの観念思想の解明は、それがいかなる意味でデカルト哲学の乗り越えを目指していたのかという問題の解明を要請している。また、このようなアプローチができるのは、直接に依拠できるスピノザの著作として『デカルトの哲学原理』が存在しているからだ。

1.「スピノザの思想」、「デカルトの思想」

『出るとの哲学原理』には、ある特殊事情が存在している。『知性改善論』や『エチカ』はスピノザが自らの思想を書き記した書物だと言っていい。『デカルトの哲学権利』はスピノザがデカルトの思想を紹介した書物とされているからだ。しかし、著者はいう。『デカルトの哲学原理』はデカルトの思想についてのモノグラフィである。スピノザはデカルトの思想を完全に再構成している。だからといってスピノザは「デカルトの思想」の名のもとに自らの思想を語っているわけではない。あくまでここで解釈されているデカルトのテキストである。スピノザの解釈が明るみに出す「テキストが引き受けえたものの向こう側」は、「デカルトの思想」の外側にあるわけでもなければ、「スピノザの思想」の内側にあるわけでもない、ここで問われているのは、思想の所有権を決定するという所作の妥当性差のものだと言っていい。この点を看過して『デカルトの哲学原理』を読むことはできない。

『哲学原理』はそれまでのデカルトの思惟のまとめとして読むことができる。自伝という形態をとった『方法序説』・自らの思考遍歴を「省察」という名のもとにまとめたもので、さまざまな神学者・哲学者の反論と、それらに対する自身の再反論を収録するというハイブリッドな形態をとった『省察』。そうした雑多な形態で述べられてきたことを『哲学原理』はきれいに体系化する。このようにデカルトの思想を語るに当たり、その素材として『哲学原理』を選択するのは不当ではない。しかし、スピノザはその中で第一部を『省察』の「第二反論への答弁」に付された「幾何学様式で配列された、神の存在および精神と身体との区別を証明する諸根拠」(以下「諸根拠」と略す)を土台にして書かれている。この「諸根拠」を取り上げた判断の妥当性はけっして自明なものではない。「諸根拠」はデカルトが著したもののなかで特殊な位置にあるテキストだ。「諸根拠」において出発点をなすのは、コギトではなくて神なのである。そしてさらに事を複雑にするのは、他の著作ではコギトから始めるデカルトが「諸根拠」では神から始めているのに、それを解説するスピノザは幾何学的様式を用いながら、コギトから始めているということである。

« 國分功一郎「スピノザの方法」(5) | トップページ | 國分功一郎「スピノザの方法」(7) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 國分功一郎「スピノザの方法」(6):

« 國分功一郎「スピノザの方法」(5) | トップページ | 國分功一郎「スピノザの方法」(7) »