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2012年10月 5日 (金)

國分功一郎「スピノザの方法」(3)

2.標識─哲学における説得の問題。

『知性改善論』に現われる方法の三つの形象のうちも道具の形象を検討した。彼は言う。真の観念はその対象と異なるものであり、それゆえに、ある観念はそれ自体が他の観念の対象になり得る。観念がその対象と異なるというのは、観念はそれ自体が他の観念の対象となり得るというもう一つのテーゼの理由として現われるや、その「異なる」は、たんに観念とその対象の別だけでなく、両者の対等まで意味している。これは観念のレベル分け、すなわちメタ・レベル(観念)とオブジェクト・レベル(対象)のレベル分けが可動的であることを意味する。観念は、事物から作る事物の影のようなものではない。観念は対象の奴隷ではない。観念の対象たる実物が実在性を持つように、観念も実在性を持つ。そのような実在性を持った観念は「形相的」という言葉で形容され、形相的に捉えられた観念なり事物なりを対象とする観念の方は「想念的」という言葉で形容されている。

ある観念、すなわち想念的本質は、形相的に捉えられたとき、すなわち実在的なある物として捉えられたとき、別の観念の対象となり得るし、この別の観念もまた同じように別の観念の対象となり得る。そして、この過程は無限に続けることができる。ペテロの観念は他の観念の対象となり得るものであり、そうしてできたペテロの観念の観念は、また他の観念の対象となり…という観念の連鎖が、ペテロが何であるかを知っていること、またさらにそれを知っていることを知っていること…という連鎖に言い換えられる。これによって観念と対象のレベルの可動性は次のように言い換えられる。何かを知っている者は、自分が何かを知っていることを知っている。じつのところ、ここにはスピノザの真理観を支える根源的な要素が現れている。何かを知っている者は自分が何かを知っていることを知っているとは、つまり、私は何かを知っているとは、つまり、私は何かを知っている時、誰か他の人に自分が何かを知っているのかどうかを尋ねる必要はないということを意味する。言い換えれば、自分が何かを知っているかどうかについて、自分の外に、それについての基準を求める必要はない。人はあることを知っている時、自分がたしかにそれを知っているという事実を知っているのであって、自分が本当に何事かをしっているのかどうかを誰かに尋ねる必要もないし、自分が知っているのかどうかを判断する基準も必要もない。これはつまり、自分が何かを知っているということをどうやって相手に証明したらよいかが全く問題とされないことを意味する。自分が何かを知っているという事実を確証するための基準を、その事実以外のところに求めないということは、他者とその事実の共有を求めないということである。

これに対してデカルトは「お前はなぜ何事を知っていると言えるのか。強大な力を持った何かにそう思いこまされているだけかもしれないではないか」と問い詰めて来るもの、あるいはそのように問い詰めてくる自分を論駁するという課題をみずからに課した。つまり揉むデカルトは自分が何かを知っているという事実をどうすれば確証し、伝達し、共有できるか、それを徹底的に考えた。デカルトにとって真理は論駁する力、説得する力をもつ強い真理でなければならない。これはデカルトが徹頭徹尾他者に向かっていたことを意味する。デカルトが考える真理には、他者がつねに蔭を落としている。

それに対し、スピノザは知ることはそれだけで疑いをきれいに雪ぐ。そこには、少なくともデカルトに取り憑いているような他社は完全に欠如している。自分にであれ他者にであれ、本当に何事かをしっているのかどうかと疑いを挟むのは、その人がその何事かを知らないからである。

何事かを知っているのかどうかを判断するための基準は必要ない。だから知っていることそのもの、観念を有していることそのものが知っていることの正しさ、観念の確実性となる。「確実性とは想念的本質そのもの以外の何物でもない」というテーゼが意味するのはそれである。「形相的本質を感受する様式こそが確実性そのものである」スピノザは、ここで想念的本質こそが確実性であるというテーゼを変形して、確実性の根拠を「形相的本質を感受する様式」に求める。つまり、いかにして知るにいたるか、いかにして観念を形成するかを確実性の根拠とした。方法の探求は、この「いかにして」の探求としておこなわれることとなる。

そしてこの「いかにして」のなかから最初に排除されるのが、真理の基準を求めることであり、それが第三のテーゼによって定式化される。「真理であることが確かになるためには、真の観念を持つこと以外なんら他の標識を必要としない」ここで使われている「標識」が第二の形象である。真の観念を持つこと以外にはなんらの標識も必要ない、

なぜ標識は必要ないのか。これはこれまでの議論から既に明らかである。標識はその標識の正しさを証し立てる別の標識を必要とする。この論理は無限に繰り返すことができるから、われわれは標識を求める限り無限遡行に陥るほかなす。観念や知ることをめぐるスピノザの議論は、この標識の論理を斥けるために練り上げられてきたと言ってもよい。デカルトの議論は標識の論理に陥っている、とスピノザは考えた。スピノザに取り憑いている無限遡行の問題は『方法序説』の明晰判断によっても断ち切れないものだった。

真理を人に説明、共有しようとすれば、真理の標識が必要になるだろう。スピノザは真理がそのようなことを許すものではないと考えている。適切な様式によってそこに到達したときにはじめて人は真理を知るのであって、いくらその真理を説明したところで、その「様式」を通り抜けていない人にはそれを伝達できない。真理に到達している人は、自分が真理に到達していることを知っている。真理に到達していない人には、そのことは分らない。したがって真理に到達している人以外、真理の何たるかを知ることはできない。だから、スピノザは自らの哲学の中に論駁、あるいは説得というモーメントを設けていないのだ。

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