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2012年10月28日 (日)

あるIR担当者の雑感(94)~質と量

IRの範疇の中でも大きな比重をしめるのが決算発表です。その発表される内容の主なものは損益計算書や貸借対照表などに代表される財務諸表と呼ばれる数字の集まりです。これは定性的情報と呼ばれるものです。数字は数字ですから、時間的にも空間的にも同じ基準で比較できます。これが投資をする上で、時間的比較は過去のデータとの比較、空間的比較は同業他社や他の会社との比較は便利ですね。これは、数字というのは抽象化され、ユニークさを剥奪された交換可能な記号のようなものという捉え方によっていると思います。数字の1はどこにあっても、何の背景があっても1で、1と1は同じで入れ替わっても変わりはないということだろうと思います。これを私は量的な捉え方と私は、個人的に呼んでいます。これに対してこの1とあの1は違うもので、それぞれユニークなものという捉え方を質的な捉え方と、私は呼んでいます。一見、量的な方が常識的に思えます。しかし、この二つの捉え方には、それぞれ拠って立つ背景が異なるので、同じものさしで、どっちが正しいという次元ではないと思います。

例えば、先日、最高裁判所が国会議員選挙の一票の格差について憲法違反という判決をしました。これは、上の議論でいえば投票の一票を量的に捉えて、その量的な点で平等かどうか、その平等が権利の平等につながるという判断をしたものと考えられます。しかし、この量的な捉え方の背景が吟味されているのか、いささか疑問に感じられます。いわゆる一票の格差というのは、国会議員の選挙が選挙区という地域とか一定程度のまとまった人数でまとめて、そこから1人の国会議員を代表として選出するという制度で、その選挙区を構成する人々の人数が違うということだということでしょう。都心の選挙区の人数は多いが、地方の選挙区の人数は少ない。そこで都心の選挙区ならば数万人から1人代表なのに対して、地方なら数千人から1人の代表ということになって、選挙区から選出される国会議員1人に対する選挙区の1人当たりの投票の割合に格差がある。それが不平等という議論です。

しかし、これは代議制民主主義という制度で不平等になるのかという吟味をしてみると、私にはどうも胡散臭く思えるのです。どういうことかというと、上で説明したことを卑近な例で考えてみると、A選挙区とB選挙区との間で地域の利益が相反する対立があったとします。かりにA選挙区は都会で5万人を擁するのに対して、B選挙区は地方で1万人しかいない。そこで提示された政策の是非によってAとBの利益が対立する。例えば、A選挙区に有利な決定がなされた場合には、B選挙区の1万人は損をしてしまう。しかし、この場合、政策の是非を投票する国会議員は両選挙区とも同じ1人です。だから、不平等だということではないでしょうか。極端な言い方ですが。こう考えるとおかしいと思いませんか。この場合、国会議員は選挙区のために投票をするということが前提されています。こういう国会議員の行動は利益誘導政治として散々批判されてきたあり方のはずです。しかし、国会議員のこういう行動様式を前提にしなければ、1票の格差は不平等であるということはいえないのではないでしょうか。

本来代表制の前提でいえば、国会議員は選出されれば地元の選挙区を離れて、選挙区制約を受けずに、国家レベルで政策を立案し、また議会の席で議論をするべきなのです。もし選挙区の利益に縛られていたら、議会で議論を重ねて反対派に説得されて意見を変えるということはありえないはずです。そうであるならば、国会という議会で議論することに何の意味もないはずです。

私には、1票の格差という議論を大真面目でやっている人たちは数というものを無批判に量的にしか見ていなくて、その背景に何があるかを真剣に考えていないのではないかと思えてしょうがないのです。私には、そこで考えるべきは国家レベルの視野で行動できない人しか選出できなかったがために、1票の格差という重箱の隅をつつくようなことしかできない事態にしてしまった自分の投票行動をまずは反省することから始めるべきではないのか、と思うのです。

ちょっと寄り道が長くなりました。このように量的にしか数を見ないことが、数字で勝負している投資の世界でもあるということに気付いたのは、最近、翻訳がでた『ヘッジファンド』という本を読んでいて思ったことです。この本に出てくる、ヘッジファンドの歴史をつくった伝説的なトレーダーたちは、決して数というのを単なる量的な記号とは捉えていないのです。その数の捉え方の背景を探り、本当にそうなのかという本質に遡って、数を捉えなおしているのです。それが、誰も考えなかったような新しい投資の方法に結実しているように思えるのです。しかし、それを見ていた周囲の人たちがどんどん追随し、彼らは量的にしか数を見ませんから、やがて量的な数に飲み込まれていってしまうと、画期的な成績を上げていたファンドは他と変わらないものになっていく。この繰り返によって市場が発展し成長していく、そんな風に見えました。

と思うと、何も、それなら投資家だけが新しい発見をするのではなくて、発行会社からだってそういうことができてもいいのではないかと妄想してしまうのです。例えば、日本の株式市場の時価総額は30年前のバブル経済の時点を未だに下回っています。それは、日本の市場発のそういう新しい数の捉え方が出てこないということもあるのではないか。例えば、ROEという指標は、1世紀近く以前に事業部制の会社が効率的な経営をしていくために指標としてつくったものが株式投資に使われているわけでしょう。そんな100年前から企業の経営は進歩しているはずですから、現代に適した指標を日本的経営を基準にしてグローバルスタンダードにしたっていいはずです。ROEだってデュポンという一企業が始めたのですから、日本の企業がやってもおかしくないわけです。そういうことを考えられるのは、今の日本の企業の中ではIRという立場が一番適しているのではないか、思うことがあります。

今回は、近づく決算説明会を前にして、一向に考えがまとまらずストレスがたまりそうなので、逃避すべく妄想してしまいました。

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