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2012年10月 2日 (火)

カラヴァッジョ 光と影の巨匠(6)~「マグダラのマリアの法悦」

マグダラのマリアは、イエスの死と復活を見届ける証人であったとともに、ローマ・カトリック教会では「悔悛した罪の女」として位置付けられました。福音書の記述では、七つの悪霊をイエスに追い出していただき、磔にされたイエスを遠くから見守り、その埋葬を見届けたこと、復活したイエスに最初に立ち会い、復活の訪れを使徒たちに告げ知らされるために遣わされた。そのため、イエスの受難や復活を扱った絵画ではイエスのもとに描かれている。

Caravaggiomariaまた、ローマ・カトリック教会では、彼女は金持ちの出身で、その美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに会い、悔悛したという。「悔悛した罪の女」ということから娼婦であったと解釈されているケースもあるという。そういう題材としてルネサンス以降の絵画で好んで取り上げられたといいます。聖女を描いたものとしては例外的に肌を露出し、時には全裸で描かれ、それが取り上げられた大きな原因でしょうか。晩年の隠遁生活の中でしばしば天国に昇り、天使の歌声を聴いたということからその昇天が画題として取り上げられたそうです。

カラヴァッジョのこの作品は、そういうマグダラのマリアが悔悛したことによる法悦、あるいは晩年の昇天によるものか、宗教的なトランス状態を活写してものなのでしょう。しかし、この表情や上体姿勢などから宗教的な法悦というよりも、同じエクスタシーという言葉から性的な恍惚、特に性交の後での快感を反芻し脱力したような印象を強く受けます。それは、マグダラのマリアがかつて快楽に溺れた女性だったというストーリーが妄想を掻き立て、他の画家も聖女と言いながらエロチックな裸体を描く口実として彼女を取り上げてきたということなどから、観る人の中には、そういう視線を送る人もいたのではないか。私には、下賤な言い方かもしれませんが「マグダラのマリアの法悦」でも「マグダラのマリアの恍惚」でもどっちでもいいと思えます。その表情もそうですし、肌こそ露出させていませんが、手前の左肩をはだけさせたポージングで、鎖骨から胸のふくらみを垣間見せるなどというのは、チラリズムの高等テクニックそのものです。しかも、暗い中で下から光をあてて身体の凸凹の陰影を濃くして強調し、無理なポーズから生じる身体のねじれによる筋肉の撚れが陰影で浮かび上がり、性的な高まりを想像させます。

カラヴァッジョお得意の光と影の対照を強調した手法を駆使して、とくに一番焦点が当たるはずの顔に対しては、下の顎の方から見上げるように光をあてて、顔の表面の陰影が深く、濃くなる効果を上げています。その結果、顔の表情の半分が濃い影になって、観る人の想像を駆り立てるばかりか、半開きの口が表情豊かに見え、一番表情を付けやすい目が影に入ってしまうことで、かえって明確な表情の読み取りがしにくくなり、曖昧な意識があるのかないのか区別がつかないような、逝ってしまっているような恍惚の表情であることが際立たせられているようです。

とくにマグダラのマリアであると辛うじてわかるのは赤い布を下半身に掛けていることくらいで、あとはカラヴァッジョの時代の女性の恰好をしているので、普通に女性を描いたシンプルな画面で、宗教的な題材を取り上げても、アトリビュートなどの装飾的な決まり事を最小限におさえ、重点を置きたいことだけを抽出して、あとは明暗の対比的な画面構成によって闇に隠してしまい、残された部分に光を当てて、観る者の視線を誘導していくというカラヴァッジョの特徴がよく出ていると言えると思います。そして、焦点の当たった顔については、単に光り輝くというのではなくて、光の当て方を工夫し、さらにその中で深い陰影を与えることで、効果をさらにアップさせています。そして、マグダラのマリアの顔色が光の当て方のせいなのか土気色のようにも見えます。「エロチシズムは死に至るような生の称揚」とバタイユが言ったように、エロチシズムには生と死のせめぎ合いで、その小規模な繰り返しという要素があることは確かです。フロイトがエロス(生の欲望)とタナトス(死の欲望)との葛藤を性的なものとして説明してみせたように。例えば、性的な達成を、特に男性の場合ですが、昇天と形容されるのは偶然ではない。その行為の最終的な結果は新たな生面の誕生ですから、死と再生という理屈を当てはめられるのです。そういう意味で、この作品でマグダラのマリアの表情が生死の境目にまさにいるような顔色をしていているのは、この時代では、このカラヴァッジョの作品のみと言っても過言ではないでしょう。結局、この作品でも、現代的な解釈を押し付けて楽しんでいる自分を見つけてしまいました。

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コメント

こんにちは。
私もカラヴァッジョ展を見てきましたので、『法悦のマグダラのマリア』に関する詳しいは話を興味を持って読ませていただきました。『法悦のマグダラのマリア』の死の間際のマグダラのマリアが神と一体感になった法悦に浸っていることをを感ずる見事な表現はすばらしいと思いましたが、たくさんのマグダラのマリアを描いたレーニやシラーニのような恍惚と悲哀、喜びと苦痛が入り交じったような表現は、他のカラヴァッジョの作品とは異質のようにも感じました。この作品がカラヴァッジョの真作か否かでなかなか結論が出なかったのもわかるような気がします。

私は今回のカラヴァッジョ展からカラヴァッジョの絵画の魅力と、なぜカラヴァッジョが美術史を塗り替えるほどの影響力を持ったのかを考察してみました。読んでいただけると嬉しいです。ご意見・ご感想などコメントをいただけると感謝いたします。

dezireさん、コメントありがとうございました。お説拝聴させていただき、勉強になりました。ただ、私は一般論にそれほど興味はなく、自分がどう感じたか、その理由は何かというところを出ないので、こんなものです。

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