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2012年10月 4日 (木)

國分功一郎「スピノザの方法」(2)

第一部 ふたつの逆説

第一章 方法の三つの形象Ⅰ

スピノザが方法について論じているのは『知性改善論』である。したがってスビノザの方法の解明を求めるわれわれの論究は、その読解より開始されねばならない。われわれはまだ、スピノザの方法がなぜ探究されねばならないのかを理解していない。方法が用いられるべき何かであり、スピノザがそれを提示しているのであれば、わざわざそれを探求する必要などない。事態がそのようでないということは、我々自身が何らかの問題を解決し、スピノザの方法へと到達しなければならないということを意味している。では、その問題とは一体何なのか。スピノザの方法はいったいどんな問題に取り囲まれているのか。スピノザの方法を巡る諸問題を定式化し、この方法が探究されねばならない理由を明らかにすることが第一部の目的である。

1.道具─哲学におけるソフィズムの問題

『知性改善論』においてスピノザは、方法の概念を説明する三つの形象を登場させている。三つの形象は、それぞれの仕方でスピノザの方法の核心に関わっている。そのひとつめが、「道具」の形象である。

スピノザが探究している真理探究のための方法、認識すべきものを認識するための方法である。ところが真理探究の前にその方法探求のための方法が必要になる、ちょうど道具を使うためには道具を製作せねばならず、道具の製作のためには別の道具が必要であるように。この論理は無限に繰り返すことができるから、そのなかにいるかぎりわれわれは真理の探究に赴くどころか、そこからかぎりなく遠ざかってしまう。スピノザがここで言っているのは、そうあってはならないということである。これは至極当然のことのように思える。だが、この至極当然のことがスビノザの方法探求の根幹にある問題なのである。無限遡行に陥ってはならないのは当然である。しかし真理探究のための方法を探求するかぎり、われわれが無限遡行に陥らざるをえないのも当然である。実際もスビノザはこの問題に前にして拒絶の姿勢を示すことしかできていない。無限に続く招来を招き寄せざるをえない探究を開始しながら、そこに陥ってはならないと口にするスピは、無限に続く探求をただ斥けているだけである。ここで拒絶と論駁をしっかりと区別しなければならない。「そけはいけない」と言って何かを斥けることと、何かの誤りを証明することとは違う。無限に遡ることはできるが、そんなことは無駄だ、しかし、無駄とはいえたしかに無限に遡ることはできるのである。

では、無限遡行に陥らないで真理探究すすめるには、どうしたらいいか、スピノザはこれに答えない。かつて人は仕事をしながら少しずつ仕事の複雑さの度合いを高めていったと、スピノザは、どうすればよいかではなく、どうであったかを語る。このような一見無駄な議論を行い、すぐに解決策の探求に議論を進めなかったのか。スピノザにとっては必要な議論だった。つまり、それはソフィスト的議論を投げかけてくる輩の口をあらかじめ封じているのだ。その上で、スピノザは無限に続く探求の問題に取り組を始める。

さらにソフィスト的議論だけにとどまらず、二人の哲学者に対するスピノザの批判的態度を読み取ることができる。そのひとりが、フランシス・ベーコンである。ベーコンによれば、知性はそのままでは素手のようなものであって効果に乏しい、道具があってこそ知性は大事を成し遂げる。スピノザの記述、知性は「生得の道具」をもって「知的道具」をつくりあげ、やがて「英知の最高峰」に達する。この記述にはベーコンの影響が見られる。だがそれだけではない。実のところベーコンとスピノザの間には、方法をめぐって重大な差異がある。それどころか、道具の意味が両者ではまったく違っている。ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』では、人間知性が生得的に有する力の貧弱さを強調するためにこの道具の形象が用いられていた。その貧弱さゆえに人間知性は補助を必要とする。対し、『知性改善論』は、人間知性には生得的に力が備わっていること、そしてその生得の力は知性をその最高峰へと高めるのに十分なものであることを強調するためにこの形象を用いる。ゆえに「生得の道具」という表現が可能となる。ベーコンにとってこの表現は背理である。ベーコンによれば、知性は外から有用な道具を与えられるべきなのだから、自ら道具を用意するだけの能力を持たない者たちには、ベーコンのような優れた哲学者が指導者として道具を用意すべきだということになる。 それに対してスピノザは、知性にはそもそも有用な力が備わっているのであって、道具を外から与える必要はないと言っているのだ。

もう一人の哲学者はデカルトである。デカルトは言う。われわれは一生に一度は人間理性がいかなる事物の認識に達し得るのか、人間の認識はどこまで及び得るのか、つまり何ができて何ができないのかを尋ねてみるべきである。それが理解できれば、そもそも人間にはできもしない課題に心血を注ぐという無駄を避けることができるし、やり方が悪かったがためにできなかった課題について「自分にはそもそも無理なのだ」と挫けることも避けられる。逆にそうしなければ、われわれは精神が何をなしうるかについて常に迷いながら、誤った軽率な労力を無駄に払うことになるだろう。その後、デカルトは、必要な道具の作り方を考案できるタイプの技術を実行する場合、我々はこの「方法」を適用しているのだという。例えば鍛冶屋の技術を実行しようとし、何ひとつ道具を持っていない場合、我々は鉄床や金槌の代わりに石を採ったり、火箸の代わりに木片を採ったりするだろうが、しかし、そうしたものを準備しても、そのまますく゜に刀剣や甲冑の製作に取りかかりはしないだろう。何よりもまず、鉄床や金槌火箸など自分の使う道具を製作するだろう。知性においても同様である。手始めの段階でも我々は精神に本来備わった指針を持っている。しかしそれを用いて即座に哲学上の難問などに挑んではならないそうした指針を用いて真理の探究に何が必要であるかを探し求めていくべきである。このことは、デカルトがスビノザと同様に、知性にはその進歩に必要な道具が生得的に具わっており、この生得の道具を有効活用することが知性の進歩の鍵になると考えている。我々は先にベーコンとスピノザの間にあるある転回に言及した。デカルトはスピノザに先立ってこの転回を遂げていたことになる。そしてデカルトには無駄なソフィスト的な議論にかかずらっている余裕などなかった。しかし、後続のスピノザには、それにかかずらうことこそが重要であった。

以上、大まかながらスピノザが自らに課した課題とその前史が見えて来た。まず精神には方法という道具が必要であるとするベーコン的段階がある。この段階では方法は精神にとって外的なものとみなされている。それに対して差し込まれる横やりが懐疑論=ソフィスト的な議論である。これは道具をつくるためには道具が必要であるという無限遡行の問題を持ち出し、方法の探求そのものに水を差す。デカルトがここに新しい転回を持ち込む。彼は精神には既に道具が備わっていると説き、また懐疑論者=ソフィスト的議論にはコギトの真理を持ってこれに対抗した。するとスピノザは、以上の三段階を踏まえたうえで新しい方法を打ち立てようとしていたことになる。

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