無料ブログはココログ

« 國分功一郎「スピノザの方法」(14) | トップページ | 國分功一郎「スピノザの方法」(16) »

2012年10月18日 (木)

國分功一郎「スピノザの方法」(15)

3.「与えられた真の観念」

スピノザは『知性改善論』の中で「与えられた真の観念」を規範として精神を導くことの重要性を繰り返し強調している。さらにそれに加えて、「何ごとかを発見するための正しい道は、ある与えられた定義から諸々の思想を形成していくことにある」と述べている。つまり、『知性改善論』の引いた筋道はつぎのようなものである。神の観念に最初から陣取ることはできないから、それとは別の任意の観念から出発して、できる限り速やかにそこに到達することをめざさねばならない。ただし、任意の観念は何であってもむよいわけではなく、望ましい定義規則に則って形成されたものでなければならない。任意の定義を出発点にして神の観念をめざし、そこに辿り着いたならば、今度はその神の観念を起点にして観念獲得の道を歩んでいく。『知性改善論』の引いた筋道は、このような上昇と下降とでも形容したくなるような、方向転換を孕んでもいる。

清水禮子は「与えられた」という形容に注目した。スピノザは「人間精神の側で加工や形成ないし構成といった努力を払わなくても、精神の内に「おのずから」身を現わし、「独りでに」流れ込んで来るという性質」を「与えられたもの」として『知性改善論』の最も必要としていたものに他ならなかった。だがもー、そのこだわりゆえに同書の方法はいくつもの問題点を抱え込んでしまった。清水の議論はそのようにまとめることができる。その問題点とは次の二点に要約できる。

ひとつめ。スピノザの考える真理は観念の連結において可能であり、そしてその連結は最高完全者の観念より出発して初めて確実なものとなるのだった。したがって「「最初の道」においてもたらされる観念は、神の観念からの下降の道の中で然るべき位置、しかるべき脈絡を保証され他者ではない以上、その性格は、当然、暫定的に真という制約を免れえない。」しかし、それにもかかわらず「「最初」の道」の出発点となる観念について、非常に多くの箇所で、何の限定もなしに無造作に「真」という言葉が添えられている。つまり、スピノザは「与えられたもの」を出発点としたがために、自らの観念思想を裏切る方法を形成するに至った

ふたつめ。スピノザは「与えられたもの」を出発点とすべきと考えているにもかかわらず、出発点となるべき定義を形成するための定義論を展開している。いったい両者の展開はどうなっているのか。スピノザは出発点を「与えられたもの」においているのか、定義に置いているのか、定義論を読む限りそれがハッキリしない。つまり、定義論においては「与えられたもの」から出発する「最初の道」が「まったく無視され」ていると言わざるを得ない。清水は次のように述べる。「定義論はやがて、「最初の道」に相当するものに対するしかるべき扱いを欠いたことのために、ひどい混乱に陥っていく」

この清水の指摘は鋭い。しかし、清水は「与えられたもの」の形容に過大な意味をみている。そのためか「与えられたもの」と定義とを対立的に捉えている。スピノザはたんに「与えられた観念」とは言わず、「与えられた真の観念」と述べていた。この表現は、スピノザが「与えられた」観念であろうとも、すなわち、しかるべき順序で導き出された観念でなかろうとも、その中には何らの真理性が見出せると考えていたことを意味する。清水の言う、「最初の道」においてもたらされる観念は神の観念から導き出されたものでない以上、「暫定的に真という制約を免れえない」にもかかわらず、スピノザは「最初の道」の出発点となる観念に対して、何の限定もなく無造作に「真」という形容を与えている。ここでの「真」という言葉は、非十全な観念のなかにも何らかの真理性が含まれているという意味での「真」として理解されねばならない。「与えられた真の観念」から出発するとは、我々の所与の諸条件のなかにある真理性を手掛かりにある真理性を手掛かりにするということである。たしかにわれわれの所与の諸条件の中にある真理性を手掛かりにするということである。たしかに我々は最初の時点では真の認識(十全な観念)を手にしていない。しかし、所与の状態で我々に与えられている観念の中にも何らかの真理性が見出せる。それが神の観念へと上昇していくための手がかりとなる。しかし、これでは不十分とあるとスピノザは考えたのだ。たしかに非十全な観念にもいくばくかの真理性はあろう。だが、どうやってその中から真なる部分を取り出せばよいのだろうか。十全な観念を有さない段階で、どうやって非十全な観念の中に真理性を見つけ出せばよいのか。つまり、所与のもののどこに真理性があるのかをどうやって知ることができるのか。

出発点である「与えられた観念」として非十全な観念が採用される可能性はゼロではなく、スピノザにもその意向はあったものと思われる。しかし、『知性改善論』を書くに当たって、それをあきらめ、この問題に答えて次のように述べている。我々は「与えられた真の観念」から出発すべきであるが、そこには次のような明確な限定を付さねばならない。「身体が受ける偶然の刺激ではなくて、純粋精神から生ずる観念をもつこと」。身体から受ける刺激によって形成された観念では頼りない。従って「純粋精神から生ずる観念」を頼りにすべきである。例えば円や球などの幾何学図形である。幾何学図形は「その対象が我々の思惟力に依存していて自然の中には存在していないことを我々が十分確実に知っているところの或る真の観念」である。これならば、どこが真理でどこが真理でないかが明白であり、出発点には最適であるとスピノザは考えた。そして、幾何学図形を出発点とするためには、それを明確に定式化する定義論が必要になる。「与えられた真の観念」と定義論は矛盾するどころか連動している。では、幾何学図形の定義においてはどこが真でどこが真でないかが明白であるとはどういうことか。実際の定義論に基づいてみていこう。定義の規則は「創造された事物」の定義と「創造されない事物」の定義のふたつに分けられている。前者が個物の定義に、後者が神の定義に関わっている。ここで我々に関係しているのは前者の定義である。その内容は極めて簡潔だ。

第一に、定義はその対象を発生させる最も近い原因を含んでいること。

第二に、定義は対象の一特質をもってするのではなく、対象のあらゆる特質がそこから結論されうるものであること。

スピノザの考える定義は、無発生を根幹に据えるがゆえに精神が観念の連結に身を置くための足場になる。しばしばこの定義はスピノザの発生的定義と呼ばれている。ここから先の問いに答えることができるだろう。スピノザによれば幾何学図形のような「純粋精神から生ずる観念」が「最初の道」の出発点として相応しいのは、その定義においてはどこが真理でどこが真理でないかが明白であるからだった。そのことを我々は明白に理解できる。幾何学的図形は身体の刺激に基づいていないがゆえに、どこに真でない要素があるのかがすぐに分かる。これこそ、「最初の道」の出発点となる「与えられた真の観念」として『知性改善論』が幾何学的図形の発生的定義を採用する理由である。

« 國分功一郎「スピノザの方法」(14) | トップページ | 國分功一郎「スピノザの方法」(16) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 國分功一郎「スピノザの方法」(15):

« 國分功一郎「スピノザの方法」(14) | トップページ | 國分功一郎「スピノザの方法」(16) »