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2012年10月 1日 (月)

カラヴァッジョ 光と影の巨匠(5)~アッシジの聖フランチェスコを描いた2つの肖像

Caravaggiofran「フランチェスコは1182年にウンブリアのアッシジに裕福な織物商の息子として生まれ、享楽と放蕩に溺れる恵まれた青年時代を送った。長い精神的な逡巡を経験した後、らい病患者の介護を始め、人生の規範としてのキリストの教えを福音書を通じて発見し、気楽な人生に背を向け、すべての財産を放擲し、絶対的な貧困の中で普遍的な友愛を祈るようになった。この友愛は、貧者や浮浪者とともに生活することで実体化したが、神の創造した森羅万象に例外なく向けられた。」と解説で説明されていますが。かれを慕って人々が集まり、後にフランチェスコ会という托鉢修道会に発展します。私にはそれよりも、「聖フランチェスコの小さな花」という彼の死後に書かれ、16世紀以降のヨーロッパでベストセラーとなった伝記に描かれた純粋無垢な、まるで天使のような姿です。小鳥に説教するというような象徴的なエピソードがありますが、誰でも微笑まずにはいられないような、キリスト教信者以外の人たちにも広く親しまれたシンボルです。現代でも繰り返し映画の題材として取り上げられているキャラクターです。現代でもイタリアの守護聖人になっていて、広く親しまれているなど、絵画の題材として過去にも多く取り上げられているキャラクターです。

ここで展示されているカラヴァッジョの作品を見ると、そういう純粋な天使のようなイメージとは違って、聖人の晩年の姿を描いていることもあって、厳しい姿として描かれています。たしかに、財産を全て放擲し、貧困の中で托鉢だけで生き、ひたすら全身全霊を投げ出して神に祈るということは、言葉にすれば純粋で清々しく聞こえますが、実際にそれを生涯を捧げるということは生半可なことではないし、自己を律する厳しさが求められるでしょう。外から見れば、場合によっては狂信的と映るかもしれないものです。実際に、フランチェスコと同じようなことを実践して、ローマ教会から異端として迫害された人も数多く存在します。カラヴァッジョの描くフランチェスコにはそういう厳しさが色濃く表れています。

しかし、そういう絵画は、近代以降の画家の個性を尊重し、他の人と違った視点で描くことで自分の個性を主張することが芸術という時代なら歓迎されるにしても、当時は近代的な芸術とは違う考え方の時代であったわけで、そういう時代に、このような個性的ともいえる作品を受け容れられたというのは、どういうことなのか。カラヴァッジョは近代の芸術家と違うので、これらの作品は注文があって初めて描かれたはずなので、こういう作品に対するニーズがあったのか。それとも、フランチェスコを描くような注文を受けたカラヴァッジョがこのような作品を仕上げてしまったのか、素人の私には分かりません。

Caravaggiofran2ここでも、2つの作品に見られるのは、カラヴァッジョの作品の特徴である、劇的な作為というのか、わざとらしく、あざとい演出です。そして、それを全面に出すために、それ以外の要素を全て余計なものとして排除してしまうことです。ここで描かれているのはフランチェスコ本人と、それがフランチェスコであることが分かるために必要な小道具(アトリビュート)の髑髏と十字架です。それ以外は暗闇に隠されてしまっています。カラヴァッジョが専売特許のように画面構成で多用する光と影の対比は、劇的な効果を出すだけでなく、暗い影を作り出すことで、その影に余計なものを全て隠させてしまうという効果もあるのですね、こういう画面は、現代の私の目でみれば映画の映像効果を駆使したワンシーンによく似た感じとして見ることができます。これに対して、描かれた当時の人々にとっては、他の画家が描くものと、あまりに違うので、はたしてどのような捉われ方をしたのでしょうか。たしかに、フランチェスコを描いたこれらの作品は信仰の峻厳さを見る者に強く訴えかけるところはあります。しかし、そう感じるのは現代の私であって、信仰というものに距離をおいて冷静に見ているから言えることであって、実際に信仰の真っただ中にいて、このような厳しい姿を突きつけられたら、果たしてどう感じるのか。また、当時の他の作品とあまりに違うので、フランチェスコの作品とはこのようなものだという先入見を、誰しも持っているとはずなので、そこにこれらのような全く異質な作品が提示されたときに、はたして受け容れられたのか。これを描いたカラヴァッジョにしても、ある程度そのようなことは予想できるはずで、何も考えずに、このような作品を製作しているはずはないので、芸術家としても職人としての側面が強かった当時の画家の常識として、これらの作品を描いた時に、それなりの計算はあったと思います。

全体の色調は暗く、装飾的な要素は皆無で、教会の壁面に飾るには適当かといわれると、首を傾げざるをえない。ただし、信仰を個人の問題として、神と対峙するような姿勢ならば、このような作品は受け入れられる、むしろプロテスタントの精神に近いような気もするのです。影に対する光の使い方も、強烈な光を直接当てるというのではなく、斜光気味にして、まるで黄昏時の黄金色の光線のような影の多い光の当たり方に描かれています。描かれているのか晩年のフランチェスコで人生の黄昏を迎える姿などと、とうしても現代の象徴的な解釈をしたくなるのです。これらの作品を見ていると。

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