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2012年10月13日 (土)

國分功一郎「スピノザの方法」(11)

4.観念と実在

「われわれの観念の想念的実在性は、この同じ実在性をたんに想念的にだけでなく形相的にかあるいは優越的に含む原因を要求する。」

スピノザは、この公理をそのまま引用するが詳細な注意書きを加えている。この解説は、もともとあったデカルト自身の解説を完全に消去した上で新しく加えたものだ。デカルトは、「たとえば我々は、空が存在しているということをどのように知るのだろうか。それを見るからであろうか。」という問いによって説明しようとする。観念がそれに対応する実在を原因として有していると想定しなければ、我々は事物を認識できないことになってしまうではないか、というのがデカルトの説明だ。ここで、たしかにデカルトは空は見えているのだから存在していると言っているのではない(デカルトの懐疑は、まさしくそれを疑うことであった)。そのために心像と観念を区別した。しかし、観念と実在は、間に何かを挟んだうえで結局は結び付けられる。デカルトはここで、(公理6)で確認しておいた観念の中の実在性の含有量という考えを持ち出してくる。そうなると、(公理6)にかけられたものの大きさが推し量られる。スピノザはそれは、このような重要な公理を「先行するものが後続するものの助けなしに知られねばならない」という原則から言うと、置き方の順番上、説明が成り立たなくなるという。

ではスピノザはどのような説明をしているか。その前にデカルトの機械の例の説明が必要だろう。ある人が極めて精巧な機械の観念を持っているとしよう。この場合、その観念の原因が何であるにせよ、つまり、彼がそのような機械をどこかで見たにせよ、あるいはそれについての知識をどこかで学んだにせよ、あるいは自分でそれを案出できるほどの才能を彼が持っているにせよ、その観念の中に含まれている全技術はすべてその原因の中に含まれていなければならない。このようにデカルトは機械の例を使って、我々の形成する観念が、実在する観念が、実在する原因を有していることを説明しようとしていた。それに対して、スピノザが述べていることは、人間は新しい観念に対して何らかの原因を指定することができると、指定された原因の妥当性には注意も払わず、原因を指摘できたという事実だけで満足してしまうということである。つまり、観念の原因の探求が中途半端なところで止められてしまう。

ここであげた公理に対しては、デカルト哲学体系の維持という観点からは絶対に認めなければならないが、スピノザの考えでは認められないことになる。しかし、この公理がなければデカルト哲学はデカルト哲学でありえない。そこで、スピノザは、その行為の妥当性はともかくとして、そのようにして探し出された原因の以外の原因を未だ何人も発見できていないのだから、そのように考えることには一定の正しさがみとめられるだろう、と説明する。そこでまた、デカルトの置いた公理の順番をさきほどと同様の論理で批判してみせる。それによってデカルトの観念思想をより整序された形で提出すると同時に、どこにその要石があるのかを明らかにするのだ。

スピノザの再構成は、この公理をデカルトの観念思想の前提あるいは基礎として浮かび上がらせた。スピノザは、観念という語に被せられる制限として「表象」「心像」「思惟の様態」という三つの表現を登場させている。まず、「思惟の様態」について、観念を思惟の様態として考察するとは、思惟の領域に存在する何かとしての観念を思惟の領域に存在する何かとしての観念を思惟の領域の中だけで、思惟の領域の外のことを度外視して考察することを意味する。この限りでは、公理は必要ない。ここで、思惟の領域の外のことを度外視するとは具体的に何を度外視することなのか。これが「表象」に関わる。表象するものとしての観念とは心像としての観念である。では心像とは何か。デカルトは、知覚された映像が脳内の想像器官に描かれているその状態を指して心像と呼んでいる。その上で心像と観念を区別している。デカルトは、映像・心像・観念が明確に区別されていると同時に、一定の条件を満たすことで変態可能と考えていた。デカルトは観念から遡るやり方で、観念の原因としての実在を措定している。だが、このような考えは、頭の中に何かがありさえすれば、その対象もまた存在しているはずだという粗雑な論理との差異化を常に必要とする。

これに対してスピノザは、「一事物の心像として考察される限りにおいて」の観念について考えていた。心像とは表象されるものである。そして表象するとは、心像や映像が実在に原因を持つように、実在する何かに原因を持つことを意味している。

観念は、単なる思惟の様態として考察される限りでは、実在性の諸段階を有さない。つまり、ここでの公理の考えは必要ない。観念が実在性の諸段階を有するのは、それが心像である限りにおいて、表象するものである限りにおいて、すなわち実在の中に原因を持つ限りにおいてである。スピノザはこうして、デカルトの観念思想の基礎の基礎を明らかにしたことになる。その基礎には、観念が実在性の諸段階を有するという考えがある。そしてこの基礎を基礎づけているのは、表象としての観念という考え方である。ここで表象とは、実在の中に原因を持つことを意味している。

このようにスピノザは観念についてのデカルトの考え方を包括的に解説した。しかしその解説にはデカルトの観念に対するスピノザの根本的な疑問が読み取れる。スピノザは、この公理が表象するものとしての観念という考え方を前提としていると考えている。観念を表象機能の担い手として考えるかぎり、観念における実在性の諸段階について考えざるを得ない。そしてスピノザが「表象する」ということを「心像」という一言で言い換えていることから分かるように、表象するものとしての観念は実在に原因を持つ。

一方、スピノザは同じ人間の手で書き写された、内容をまったく異にする二冊の写本に対して、二つの視点がありうるという。一方の視点に立つなら二つの写本の原因には何らの相違も見いだせない。これは筆跡と文字の列にのみ注目する視点だ。もう一方の視点に立つなら、ふたつの写本はその原因を異にすることが分かる。こちらの視点は言葉の意味に注目する視点と言える。言葉の意味に注目するのなら、これらの書物の第一原因を見出すことができる。ポイントは、この第一原因が著名な哲学者とつまらぬ人間の実在とまでは言われていないことにある。デカルトは、空の観念は、実在する空を自ら原因として有るとして仮定しなければ、我々はこの観念が実在すると判断できないとして、観念の世界と事物の世界の閾の飛び越えを認めざるを得ないとしている。これに対してスピノザは、ここにあるように、そのような閾が全く問題にならない。著名な哲学者の作品の中に読み得る観念と、つまらぬ人間の作品に読み得る観念が証明するのは、著名な哲学者にふさわしい優秀な考え方の観念と、つまらぬ人間にふさわしい低劣な考え方の観念が実在したということである。観念の原因は観念の領域の中にあり、その中にしかない。観念の原因たり得るのは観念だけである。観念は観念以外の何科の表象ではない。この例によって公理は換骨奪胎されてしまう。

「或る事物を維持するには、それを最初つくりだすために要したよりも、小ならざる原因を要する。」

もともと、デカルトは前段に「現在の時間は、その直前の時間に依存しない。それゆえに…」スピノザはこの部分を削除した。この削除の理由は説明不足という点だ。スピノザ別の仕方で説明する。思惟は存在することも存在しないこともありうる。にもかかわらず思惟が存在しているとすれば、それは何ものかが思惟を存在させたからである。そして「たとえ我々の思惟が存在し始めたとしても、だからといってその本性や本質が必然的存在を含むわけではないことは、それがまだ存在しなかった時に必然的存在を含んでいなかったのと同様であり、したがってそれが存在するためには、それが存在し始めるに要したのと同じ力を要する。そして我々がここで思惟について言っていることは、その本質が必然的存在をふくまないすべての事物について言われる。」スピノザは『エチカ』のなかで、本質が存在を含む事物が必然的存在であり、本質が存在を含まない事物が可能的存在であると言言い換えた。この解説では、デカルトの定義に沿うものとも、スピノザ自身の定義に沿うものとも読める書き方をしている。

個々で見て来たように、スビノザの読解の方針は一貫している。そしてその一貫した読解の中に現われるデカルト哲学への疑問も一貫している。スピノザは観念についてのデカルトの考えを受け入れられない。デカルトの観念思想は、スピノザには表象的観念思想であると思われた。そしてスピノザはそれに大いなる疑問を抱いた。

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