無料ブログはココログ

« 國分功一郎「スピノザの方法」(4) | トップページ | 國分功一郎「スピノザの方法」(6) »

2012年10月 8日 (月)

國分功一郎「スピノザの方法」(5)

2.道─方法論の逆説

R・ヴィオレットは『知性改善論』未完の理由を考察している。彼は問題に答えを出すべくふたつの概念を提示する。「創出的方法と創出された方法」である。

方法の観点から見ると、知識には二つの種類がある。ひとつは、あらかじめ準備することで手に入れられる知識。この場合には、それを手に入れるまでの道筋を自分以外の人に示してもらうことができる。我々はそれを辿りさえすればよい。もうひとつは、ただ漸進的にのみ手に入れることができる真理。それを知るためには実際に真理の復元作業を行わねばならない。その復元作業は我々自身以外の誰も代わりに行うことができず、我々自身がその真理を手に入れるための転回を遂げねばならない。これらの二つの場合において方法が果たす役割は、次のとおりとなる。第一の場合は、方法とはすでに辿られている道筋のことであり、その道筋のおかげで、我々はあらかじめ知識を得るために何か必要かを知ることができる。この場合の方法を「創出された方法」と呼ぶ。第二の場合には、真理を知りたいと望むそのたびごとに新しい努力が必要となる。この場合、方法は真理についての知識を予め先取りしておくことはできない。方法と、真理についての知識とは同時である。我々は、自らが探し求めている知識を手に入れようという努力そのもののなかで従うべき方法を創出する。この場合の方法を「創出的方法」と呼ぶ。この方法は我々の精神が真理を胚胎するその瞬間に見出されるからである。

ヴィオレットは、スピノザが創出的方法と創出された方法を混同し、スピノザ哲学は創出的方法に属するものであり、この種の方法を用いることによってのみ開花しうる哲学であるにもかかわらず、創出された方法のスタイルで書かれた「方法序説」をこの哲学の前に置くことができると考えたのが誤りであったと指摘する。この結論は、ジョアキムの議論に対する批判にもなっている。この後、ヴィオレットは『知性改善論』でのスピノザのふたつの方法についての議論の混同をいちいち追いかけている。

そのヴィオレットの議論は正しい。スピノザの考える哲学が創出された方法では提示されないものであることは分かった。ならば、そのことに気づいていたであろうスピノザが、それにもかかわらず創出された方法にこだわり続けたのはなぜか。この事実について考える必要はないのか。創出的方法の理想において見出されるのであろう真理の自己展開は、めったに起こらない。ならば創出された方法が必要とされるのは理の当然である。ヴィオレットはこのことを考えていない。ヴィオレットは『エチカ』にスピノザの方法の完成を見ることができるとしている。では、創出された方法が理の当然であるというこの問題は『エチカ』の中でどうやって克服されたのか。スピノザ哲学が創出的方法に属するというのが正しいとしても、真理の自己展開が何時でも起こるものでない以上、創出された方法は必要とされざるを得ないという当然の疑問を『エチカ』はどう解決したのか。ヴィオレットの議論は、そこまで行かない。

ヴィオレットは『エチカ』を創出的方法の実現として見ていたことから、その哲学とは、神の観念に向かって進んでいくところから始めるのではなく、神の観念に直ちに陣取るところから始める哲学である。したがって「できるだけ速やかに神の観念へ到達せねばならない」という命法は、一跳びに神の本質に潜り込むことがまだできずにいた段階のスピノザの思想を特徴づけるものでしかない。神の観念から諸々の観念を導き出していくこと、それが『エチカ』の創出的方法である。対し先の方法は、神の観念より開始するための準備を求めるものであり、そのような準備こそ、『知性改善論』が誤って訴えかけてしまった創出された方法にほかならない。ヴィオレットが暗黙裡に前提している『エチカ』像とはこのようなものである。

この方法の二つの区別は『知性改善論』の読解を容易にし、同書が孕む問題を明示する概念装置であることは議論の余地はない。これによりスピノザの方法に取り付く逆説が理解されることとなった。しかし、それ以上のことはヴィオレットを踏み込もうとしない。つまり、ヴィオレットの区別によるならこの逆説は、創出的方法と創出された方法とが混同されたテキストにあっては、出てきて当然の矛盾として片づけられることになってしまう。道としての方法は創出的方法に割り振られ、精神の指導制御は創出された方法に振り分けられ、それで終わりだ。つまり、創出的方法という言葉によってスピノザの方法を総括する方法を等閑に付すことと何ら変わりはないのである。

スピノザは、あらかじめ思考に先立って存在していて、それに従えば何の気遣いも努力も必要なくことを成し遂げられる規範という意味での方法を真っ向から否定した。だが彼は精神の指導と制御、そのための準備というものにこだわった。スピノザ哲学は創出的方法を重視している。だが重要なのは同時に、創出された方法によって果たされるであろう機能を求めていることだ。スピノザは『知性改善論』において、二つの方法に属する役割のそれぞれ同時に果たすことのできる哲学を構想していたのである。そこで、著者は指摘する。『知性改善論』の創出された方法と創出的方法を混同しているところにあるのではく、二つの方法を区別しているところにある。二つの方法を混同していると言いうるためには、それらがまず区別されていなければならない。

« 國分功一郎「スピノザの方法」(4) | トップページ | 國分功一郎「スピノザの方法」(6) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 國分功一郎「スピノザの方法」(5):

« 國分功一郎「スピノザの方法」(4) | トップページ | 國分功一郎「スピノザの方法」(6) »