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2012年10月19日 (金)

國分功一郎「スピノザの方法」(16)

4.定義、十全な観念、虚構

スピノザ哲学は定義をきわめて高く位置付ける哲学である。これはスピノザ哲学の一貫した特徴である。『エチカ』おいて真の認識は十全な観念の獲得として定式化されるが、十全な観念とはその対象についての完全な定義でもあるということができるだろう。そして定義が発生的なものでなければならないとすると、十全な観念は対象の発生原因をそのうちに含むものであるだろう。だが、ここで重要なのは発生的意義が十全な観念であるわけではないということだ。十全な観念はスピノザの方法が実現されることによってはじめて獲得できるものである。つまり、しかるべき順序で観念を獲得していくという行為と十全な観念とは切り離せないのであって、たとえばなんらかの発生的定義一つを取り上げて、それが十全な観念であるかなどと問うことはできない。

このことは『知性改善論』の構成からも読み取ることができる。十全な観念は対象の本質を説明するだけでなく、我々の知性の法則をも表現する。だが神の観念へと到達するまでは、そうした観念を当てにすることはできない。従って知性の法則を手にすることはできず、定義の規則があるだけである。『知性改善論』は定義規則を提示した直後、知性の定義を形成する必要を説き、知性の諸特性の説明を試みている。このことの意味は明らかである。定義規則によって形成された(発生的)定義は知性の諸特性を教えてくれない。したがってそれを補わねばならない。だから定義規則の直後に、その欠落を補うべく、知性の諸特性の説明が行われているのである。神の観念に到達するまでの間は観念の獲得によって知性の法則を認識することができないから、知性の法則だけを取り出してあらかじめ説明しておかねばならないとスピノザは考えたのだ。しかし、観念の獲得から離れて知性を定義するという試みが全く成功する見込みのないことは明らかである。観念を獲得していくことによってのみ理解されることを、観念の獲得に先立って理解させようというのだから。

然るべき順序で認識を獲得していく者のみが反省的認識によって知性の法則を理解する。しかるべき順序で認識を獲得していない者に、知性の法則だけをあらかじめ取り出して説明することなどできない。しかるべき順序で認識を獲得する者は、おのずと自らの知性の法則を理解するのである。完全な定義と十全な観念の違いは、後者につてのさらなる明確な規定を与えてくれるだろう。たしかに定義はみずからの原因を含んでいる。しかし、原因を「含む」だけでは十分ではない。十分な観念はそれを「説明する」ものであるからだ。これはつまり、観念が原因の観念を含んでいることは、その観念が十全であることを少しも保証しないことを意味する。

我々は今、『知性改善論』が神の観念へと到達するための「最初の道」をどう組織化しているかを知るために、その定義論を読んでいる。我々はそれについての大まかなイメージを獲得しつつある。発生的定義を形成することで、精神は観念の連結へと身を置き、そこから神の観念の形成へと導かれる。『知性改善論』の定義論はそのための定義規則、「創造されない事物」の定義規則も別個に用意していた。二段構えの方法として定式化された同書の方法は、二段構えの定義論による完全な裏付けを与えられていることになる。

だが、それでもスピノザはある問題に気を揉んでいた。スピノザには以上の説明だけでは方法は不完全であるように思われた。ここまでの我々の説明では、『知性改善論』の方法はイントロダクションにある方法の定義と、第二部にある定義規則の説明だけで十分理解されるもののように思われる。だがスビノザはその間に第一部の議論を挟んだ。これは、幾何学図形のような「純粋精神から生ずる観念」は、「身体のうける偶然の刺激」から形成された観念とは異なり、どこが真でどこが真でないかがはっきりしている。だからスビノザはこれを出発点として選んだ。だが、これは真でない者を含んだ観念を出発点にするということでもある。つまり、幾何学図形のようなものを頼りにすると、今度は虚構を頼りにしなければならなくなるのである。第一部が虚構についての議論を展開したのはそのためだ。虚構とは、そもそも、原因の観念を欠いた思惟の形相である。例えば球の定義において、半円の運動はその原因の観念を欠いている。精神は、そこで「任意の原因を虚構する」。では虚構は虚偽からどう区別されるか。ポイント、虚構する精神は自分が虚構していることを意識しているということである。虚構と虚偽の違いはここにある。幾何学図形ではどこが真でどこが真でないかがハッキリしている理由もここにある。だが、虚偽の観念と虚構された観念は原因の観念の欠如という内的特徴を共有しており、両者の違いはただその欠如に対する意識の欠如という外的特徴のみに存するとなると、虚偽と虚構の差異は限りなく相対的なものとなる。そんな危うい観念が全ての探求の出発点たることを求められているのである。だから、スピノザは虚構の問題を看過できなかった。そしてその上で、重要なのは神の観念へ到達することなのだから、最初に虚構されたものがあろうとも、厭わず「最初の道」を邁進すべきだという。

すると、定義規則を論じているだけに見える第二部が、じつは定義論と並んでもう一つの課題を課していることが分かるのである。つまり、定義論を踏まえたうえで、いかにして出発点において必要とされた仮定を取り除くことができるか。そしていかにして虚構によって支えられた観念の連結を脱出することができるか。『知性改善論』の答えはむ明確である。とにかくできる限り速やかに神の観念に到達すること。そうすれば出発点において必要とされた仮定はもはや必要ではなくなる。神の観念からは虚構を必要としない観念の連結が始まるから。

だが、ここにこそ『知性改善論』の二段構えの方法、そしてそれを支える定義論の最大の曖昧さが見出されるように思われる。いかにして「最初の道」から神の観念へと到達することができるのか、『知性改善論』はいっさいこれを説明していないからである。定義論が「創造される事物」と「創造されない事物」の定義を区別しているため、結局のところ「最初の道」と神の観念は切り離されていることになってしまう。しかも、二つの定義規則は根本的に性格を異にしている。ここでの問題は、個物定義として提示されるものと、神の定義として提示されるものとが同じ規則にしたがっているとしても、それを構築するための手続きは同じであるのかということである。『知性改善論』における方向転換問題の分析が我々に強いるのはそのような問題である。

 

この後は『エチカ』の分析を経て、結論ということになりますが、一応、メモはここで終わりにします。この先を知りたい方は原本を読んでみるといいとおもいます。

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