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2012年11月23日 (金)

佐藤健太郎「「ゼロリスク社会」の罠~「怖い」が判断を狂わせる」(4)

ここで、リスクそれ自体の性質・特徴について、見てみることにしましょう。

リスクというものは、何ともつかみどころのない厄介な概念です。たとえばリスクというものは、放っておくと勝手に拡大し、とめどなく膨張していく性質があります。ですから、リスクを下げる、あるいは一定に保つためには、それなりのエネルギーや労力をつぎ込む必要があります。低リスク状態は、営々たる努力の上に初めて成り立つものです。ある意味で我々の行動のほとんどは、生活上のリスク削減のために起こされているという言い方も出来るかもしれません。

しかし、こうしたリスク削減をいくら続けても、リスクというものは決してゼロにはなりません。あるリスクを削減するには、コストが必ずかかります。食品に毒が入っていないをチェックするにも、自動車に安全装置をつけるにも、必ず何がしかのコストが必要になります。当然コストを無制限にかけるわけにはいきませんし、莫大な費用を投じたところで、リスク削減には結局限度があります。あるリスクを避けようとすると、別種のリスクが発生して来るという、「トレードオフ」が起こるからです。交通事故の危険を避けるなら、家に閉じこもっているのが一番いいでしょうが、運動不足になって病気のリスクが高まるでしょうし、そもそも生きていくためのお金が稼げません。我々は生活のため、交通事故その他のリスクを取って、給料や社会生活といった利益を得ているのです。大げさなことを言うようですが、人生は「どのリスクを取って、どの利益を得るか」という選択の連続だとも言えます。

この時、わずかな危険回避のために漫然と行われ、多大なコストを垂れ流し続けているような事例を身の回りにいくらでも見ることができます。リスク計量という考え方さえしっかりしていれば、すぐなくせるようなムダのため、日本の社会はずいぶん悪くなっていると感じます。ではどうすればいいか。結局のところ、リスクを何らかの形で計量し、比較して判断することに尽きるでしょう。化学における分析実験には、「定性分析」と「定量分析」の二つがあります。分析したいものの中に、ある物質が含まれているがどうかを調べるのが定性分析、どれだけの量が含まれているかを調べるのが定量分析です。当然ながら後者には、前者よりも高い技術と知識が必要になってきます。現在のリスク判断は、そこにリスクがあるかないかという、「定性的」な判断しかなされていないことが多いように思われます。「水道水に汚染物質が検出された」という報道だけがあり、どの程度の量含まれていたのか、それを取り入れることによる影響はどの程度と予測されるのかといった一番肝心なことは、ほとんどの場合、ほとんどの場合説明も報道もされません。

この「リスクをきちんと測る」という当たり前のことが行われていないがために、無駄な騒動が度々起こり、犯人探しが行われ、再発防止策が立てられ、以降、膨大なコストがそこに投じられることになります。そしていったん対策が決定すると、本当にそのコストに見合った効果を上げているのかどうか検証されることもなく受け継がれてゆき、膨大な無駄を延々と垂れ流すという流れが、何度も繰り返されています。

もちろん、危険がどの程度か分らないうちは、因果関係がはっきりしていなくても大作を立て、調査を行うことは必要です。しかし、十分なデータが出揃って、問題の全容が判明した後でも、きちんと反省し総括することなく、何となく対策だけが残り続けるという図式は、もう勘弁してほしいものと思います。

リスクがどうやってもゼロに出来ないなら、何らかの形で付き合っていくよりありません。要は、あるものによって引き起こされるリスクと、それによってもたらされるベネフィット(利益)を計量し、後者が上回るときにこれを採用するということになります。といっても、リスクやベネフィットはものさしで測るように単純で数値化できるようなものではありませんから、比較は簡単ではありません。まして、日本は強烈な減点法文化が根付いている国です。ベネフィットの方には、なかなか目が行きません。例えば、自動車などでリコールが発生すると大問題として厳しく叩かれますが、実際にはあれだけ複雑な機械を様々な条件の下で走らせている以上、故障や不具合は完全には避けられません。リコールは、こうした必ず発生し得る問題に対応するためのシステムであり、これがあるから我々は安心して車を買えるのです。小さな失敗を過剰に叩く文化は、必ず失敗の隠蔽を呼び、問題の根を深くします。

また、失敗を許さない社会は、新しいチャレンジをしにくい社会でもあります。

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