無料ブログはココログ

最近読んだ本

« シャルダン展─静寂の巨匠(1) | トップページ | シャルダン展─静寂の巨匠(3)~「台所・家事の用具」と最初の注文制作 »

2012年11月15日 (木)

シャルダン展─静寂の巨匠(2)~多難な門出と初期静物画

Chardmortシャルダンの初期の作品群で、彼が最初に描いた静物画ということになっている野兎を取り上げた作品が展示されています。友人であるコシャンの手記がシャルダンの言葉を伝えていると言われているそうですが

「描いた最初のもののひとつは兎であった。それはまったくとるに足りないもののように思われた。だが、自分が望んだように表現するためには、真剣に取り組まなければならなかった。ひからびて冷やかにしてしまうような、事物に隷属していた表現に陥ることなく、あらゆる点において最大限の真実をめざし、良き趣味とともに描こうとしたのである。さらに兎の毛なみを描こうとはしなかった。毛を一本一本数えたり細密に描写したりする必要をまったく感じていなかったのである。彼は自分にこう言い聞かせた。『ここに描くべきものがある。その真実を描くことだけに集中するため、今まで自分が見た者すべて、そして他の画家たちが描いた様式さえも忘れてしまわなければならない。細部がもはや見えなくなるほど遠くに対象を置く必要がある。それの全体の量感、色調、ふくらみ、光と影の効果をうまく、最大限の真実とともに模倣することに、私はとりわけ専心しなければならない』」

このことを、カタログの解説では「シャルダンが言っていることは、対象をただ表面的に正確に写すことではなく、その存在そのものを表現する、ということだろう、それこそ彼と先輩・同輩画家たちや北方の画家たちを分ける最大の特色であり、シャルダンが50年余りの活動の中で、テーマが変わり技術的に進歩を遂げても、変わることのなかった彼独自の個性、「魔術師」と呼ばれた彼の芸術の本質である」と述べています。これらは、シャルダンが評価をされているからこそ出てきた言辞でしょうが、実際の作品以上に言葉が独り歩きしてしまっている印象を受けます。最初にも言いましたように、シャルダンの作品には結果的にスノビズムに媚びるというのか、この作品を好きになったら、きっと万人に受け入れられるような作品ではないから、この私が支えてあげなくてはならない、とでもいうような思いを抱かせるところがあるように思います。そして、私には、それがシャルダンの作品の最大の魅力ではないかと思います。カタログでシャルダンの芸術が「魔術師」と呼ばれたと書かれていますが、そこには受け入れる側の多分に心理的な要素が働いているのではないかとおもいます。

Chardbill実際に作品を観てみると、兎の毛を一本一本細密に描写する必要を感じていなかったというより、絵の具をボコっと画布に塗りつけるような粗っぽい筆遣いで描かれているので、このような描き方では、そもそも細密に毛を一本一本描き込むような繊細な筆遣いは望めない。つまり、そんなことができる技量がない、ということの方が真実ではないか、と私にはおもえてなりません。その証拠といっては何ですが、同じ展示室に飾られている『ピリヤードの勝負』の天井からぶら下がっている梁やそこに乗せられている物体の不器用な描き方、まるで塗り絵のようなもの。このような描き方をしている人が、いくら精進をしたとしても数年もたたないうちに繊細で細密に兎の毛を一本一本描き込んで毛並みに見せるなどという芸当が、果たしてできるのか。ということから、シャルダン本人の言というのは、それだけの技量がないことは自分で分っていて、そのような技量で最大限の効果を上げるための方法論として選択されたもの、という方が私には説得力があります。

この『死んだ野兎と獲物袋』という作品では、野兎の死骸と獲物袋がどこに置いて在るか分らない。背景が省略されています。好意的に受け取れば、対象物だけをピックアップさせた、本質の存在だけを描いたということも可能でしょうが、私には、背景を描き込んでしまうと、野兎の死骸と革製の獲物袋がそれぞれ茶系のくすんだ地味な色遣いが描かれているため背景に埋もれてしまって、それを際立たせる自身がシャルダンにはなかったのではないかと、私には思えます。だからこそ、野兎の死体を壁に掛けてぶら下げるような縦の構図にし、足を広げさせて対角線を描かせるということで野兎を強調させるというトリッキーというのか、私には、これが生贄の祭壇を連想させるのですが。そこで、突飛な格好を背景を省略するという単純化させた画面で強調させると、観る方では分かり易いということになります。それが、後にシャルダンの作品が版画化されて一般の家庭に広く普及したそうですが、版画のような複製の場合、あまり細密で繊細な筆遣いの再現は困難であるので、単純で分かり易いというのは、そういう複製化にとっては便利だったのではないかと私には思います。しかも、庶民には神話や歴史の教養がなくても身近な題材なら分かり易い、というわけです。シャルダンの作品を存在を描いたと言葉でものがたりにするなら、このような拙い技術で売れるために戦略を駆使したというものがたりをつくり出すことも可能なのです。私には、作品を観ていて高尚な作家には見えないという感覚的、もっというと直観的な印象から話しています。別に事実が何かあるというわけではありません。

一本一本の毛ではなく全体としての対象の存在そのものを表現するというと、何かセザンヌみたいですが、画布という平面に描くという手段でそれをして、なおかつ、それを観るものがそうだと分からなくてはならないわけです。とくにシャルダンの場合は、生活のために画家となっているわけで、絵が売れて食べて行かなければならない。芸術のために真実を追求し、後は歴史が審判してくれるなどというような独善的なことでは生きていけなかったはずです。どちらかといえば、そういう方向性というのは、周囲の画家と自分は違うという差異化の戦略をたてて、絵の買い手にアッピールすることが狙いだったのではないかと思います。もし、そういう方向性だったら、対象の存在を描くことよりも、観る者が対象の存在が描かれているように感じ、それが他の画家にないシャルダンという画家のすごいところだということを理解させることの方が重要なことのはずです。多分、残された言辞からシャルダンという人は、そのことに自覚的だったように思えてなりません。『細部がもはや見えなくなるほど遠くに対象を置く必要がある。それの全体の量感、色調、ふくらみ、光と影の効果をうまく、最大限の真実とともに模倣すること』と自身が語っていることは、どう見せるかという効果について自覚的であることを物語っています。それこそが、私にとってシャルダンという画家の作品の大きな魅力なのです。何か、現代の資本主義の毒に侵された偏った見方と思われるかもしれませんが、私には、18世紀の画家が現代のビジネスの視点からも関連付けられるということの方が驚異的ではないかと感心させられるのです。

この最初期の野兎を題材とした作品は、画家が精進を重ねていく前の拙さが多く残る中で、そういうシャルダンの戦略的な方法論が剥き出しに出ているという点で、大変面白い作品であると思います。

« シャルダン展─静寂の巨匠(1) | トップページ | シャルダン展─静寂の巨匠(3)~「台所・家事の用具」と最初の注文制作 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: シャルダン展─静寂の巨匠(2)~多難な門出と初期静物画:

« シャルダン展─静寂の巨匠(1) | トップページ | シャルダン展─静寂の巨匠(3)~「台所・家事の用具」と最初の注文制作 »