佐藤健太郎「「ゼロリスク社会」の罠~「怖い」が判断を狂わせる」(2)
第1章 人はなぜ、リスクを読み間違えるのか
この本のテーマである、「リスク」とはそもそも何でしょうか。辞書をみれば、リスクとは、「ある行動を伴って(行動しないことによって)、危険に遭う可能性や損をする可能性を意味する」などという定義が載っています。可能性、という言葉が入っているところがこの定義のミソです。例えば、包丁は危険なものですが、包丁自体を「リスク」とは言いません。(英語では、危険の原因を意味する「ハザード」が使われます)。料理で実際に使った時に初めて、指を切るなどの可能性、すなわちリスクが生じます。リスクの高低は、
「(起きた時の影響の大きさ)×(起きる確率の高さ)」
で表わすことができます。
我々は生活の中で、無意識のうちにこのリスク計算をかなりしっかりと行っています。「目的地には車で行った方が早いけれど、事故や渋滞の可能性を考えて電車で行く」というように、誰もがかなり高いレベルでリスクを測定し、判断して行動しています。リスク判断は、ある意味で生きるために最も必要な能力ですから、これは当然のことであるでしょう。
ただし、リスク判断はやはり難しいものです。実際、リスクを読み誤って失敗した例は数知れません。傍から見ていて、「なぜ、あれほどの人物があんなとんでもない判断を下してしまったのか」と思うようなケースを、皆さんも見聞していることでしょう。
誰もが当然と思う判断でも、冷静に計算してみると、実は全くの不合理であるというケースも数多く存在します。
なぜ人は、リスクを読み間違えるのか。実のところ人間という生き物は、決してあまり合理的には出来ていません。これは、人間が判断する系統を二つ持っているからです。先祖からの記憶や自分の経験をもとに瞬時に判断し、素早く反応するための「本能」の部分と、頭でじっくり考えてリスクを判定する「理性」の部分の二つです。
「本能」は捕食獣や他部族との戦闘に明け暮れていた原始時代、あるいは人類発生以前に進化させた能力です。一方、「理性」の方は、人類が脳を発達させ、文明を築く過程で手に入れたものと考えられます。リスク判断において、「本能」の方が「理性」より何倍も強力であるのは当然のことです。猛獣に襲われたとき、あるいは銃で撃たれそうなときに、のんびりと「ああした方がいいかこうした方がいいか」と考えているわけにはいきませんから、本能で素早く動いて危険を避けようとする他ありません。ただし、高度文明に囲まれた現代社会にあっては、本能で動くよりも、理性で判断して回避すべき種類のリスクの方が多くなっています。経営者や投資ファンドの責任者が、その場のカンや思いつきで戦略を立てていたのでは、待っているのは破滅だけです。しかし、本能はたいへん強力なシステムです。人は思わぬ危険にさらされた時、理性で判断すべきであると分かってはいても、どうしても本能の方が頭をもたげてしまうのです。この結果、人にはリスクを見ないようにしたり、あるいはリスクを過大に見積もろうとしたりする、心の偏り(バイアス)が生じるのです。
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