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2012年11月19日 (月)

シャルダン展─静寂の巨匠(5)~静物画への回帰

Chardpechesシャルダンは、1750年ごろから再び静物画を描き始め、目の疾患により、パステル画を転じるまでの20年間、主に静物画を描きました。そのころは、アカデミーの会員として、王侯の注文も入るようになり、生活は安定していたらしい。

ところで、初期のシャルダンが、それしか描けない境遇の中で描いていた肖像画と、生活の安定を勝ち得た後の1750~1760年代の静物画の違いはあるのでしょうか。一見して分かるのは、作品の中の静物の数が減ったことです。初期の作品では卓上に溢れるように様々な事物が所狭しと置かれていましたが、この時期の作品では事物の数は減り、整然と並べれています。カタログの説明では「それぞれの果物の細部や、それぞれの器具が実物に忠実あるかどうかにさほどこだわっていない。重要なのは全体の見え方である。筆の運びはより柔らかく滑らかになり、初期の静物画の特徴である厚塗りは見られない。これ以降、重要になるのは、反映と透明感であり、光と影である。空気は思いのままに流れて、薄明りの中から堂々たる全貌を現わす用具や果物を包んでいる。」

『すももと籠』という作品では、すもも一個一個はきちんと書いていないように見え、籠などはデッサンが歪んでいるのか目立つほどで、おそらく籐を編んだ籠なのでしょうが、その部分がぞんざいに書かれているのではないかとも思われます。しかし、画面右手から仄かに差す光に、水の入ったコップ、すももやサクランボが映えたり陰になり多彩な色彩の変化が見られます。かといって、画面には統一感があります。その微妙な色彩の諧調は精妙で、独特の空気感とともに詩情を湛えていると言えるかもしれません。

しかし、と思うのです。展示室で、この展示に入って一つ一つの小品とも言える静物画を鑑賞して回っている間、私の個人的な偏りなのかもしれませんが、ひとつひとつを取り上げると、それぞれ佳品なのでしょうが、このように一様に並べられると退屈なのです。というよりも、何かじれったくなってしまいました。初期の静物画では、そのようなことは感じなかったのてずが、一つの作品を取り出して、自室の居間とか台所の壁に立てかけて置く場合には、存在を主張としないので邪魔にはならないだろうし、よく見ると、それなりに応えてくれるというので、長く飾っていてもよい作品と思います。その辺りが、シャルダンの作品が、没後、急速に忘れられてしまったり、その後再発見されて話題になった理由なのかもしれません。

おそらく、シャルダンは1730~1740年代に風俗画を中心に描いていて、それ以前描いていた静物画ではさほど重要なことではなかった空間という課題に向き合わざるを得なくなったのではないと思います。それは、静物画とは比較にならない広い空間を構成することや、奥行という立体的な表現の課題です。その中で、シャルダンは間(ま)ということに気が付いたのではないか。つまり何もない空気です。初期の静物画では隙間がないほど多くの事物で溢れていました。画面に多くの事物を載せてしまえば、空間を考えなくて済みます。しかし、風俗画では室内を描かなくてはならず、室内という空間があって、そこに人物や事物を配置し、何かの場面を観る者に想像させる。そういう作品を描いているうちに、シャルダンの風俗画に自然物の占める割合は次第に小さくなって、徐々に空間に人物か置かれるということで、かえって人物が印象に残るというような、空間の描き方に習熟していきます。その鍵となったのは隙間、あるいは空気の描き方、全体の配置だったのかと思います。そのような風俗画の経験を活かしたのが1750年以降の静物画だったのではないかと思います。

展覧会ポスターなどでもフィーチャーされた『木いちごの籠』では、かつては空間の広がりをChardpanier描けなかったため平面的な静物画にせざるを得なかったのが、ここでは意識的に平面的な画面が選択されているように見えます。そうすることによって、赤い木いちごと白いカーネーション、あるいは透明な水のはいったコップ、籠の黄土色の配置が規則的に平面にレイアウトされているように、しかも色彩が相互補完的に相乗効果で生かされているような画面になっていると思います。このように、あえて奥行という要素を切り捨てて画面の平面性を生かし、色彩の諧調や光と影の陰影で画面を作っていくというのは、後年の印象派の画面を彷彿とさせるではないか、かなり先走った議論かもしれませんが。シャルダンには、印象派のような強烈な光はなくて、抑制がそこで働いていますが、そのためだから、私のような刺激がほしい人には、物足りなさを覚えさせられるのです。

それは『桃の籠』の暗がりから浮かび上がるような桃の描き方に見られるように、シャルダンという画家は、当初の目の前に置かれた物を忠実に描き写すことから、描かれたものが画面としてどのように見る人に映るかに気が付いたのではないか、と思わせるところがあります。当時の絵画のヒエラルキーで最上階の歴史画は、今は現実に無い過去の事柄をあたかも今あったように画面に定着させるものなので、極言すれば画家の作り出す偽の画面です。それをよく言えばイリュージョンという便利な言葉もあります。しかし、シャルダンの描く静物画は、目の前にある台所の器物や果物をそのまま写生すると考えられていたのではないか。それに対して1750年以降のシャルダンは歴史画と同じように画家が画面という偽の空間をつくるイリュージョンであることに気が付いたのではないか。ここに描かれた桃は、桃を写生して描くのではなく、観る人が桃に見えればいい。細部を省略して粗っぽく描いても、胡桃やナイフや水の入ったコップとの対照や位置関係、色合い、光の当て方などからそのように観る者に想像させればいいのです。そこでシャルダンは観る者にそのように想像させる画を描こうとした。だから、これらの静物画は写実ではなくて、歴史画とおなじイリュージョンなのです。そのように積極的に観ようとしなければ、その面白みを堪能できない。それこそ、シャルダンがどのようにひとつの世界をつくろうとしたか、ということがこれらの作品には込められているといえるのではないでしょうか。

Chardgobelet『銀のゴブレットとりんご』という作品には、そのような虚構の要素がさりげなく忍び込ませてあるのではないか、と私には思えるのです。すごくまとまっている作品ではありますが、リンゴを映す銀のゴブレットし陶器製の器の対照的な配置や器に入っているスプーンが銀ではないのか光を反射させていない対比というのか、全体を他の静物画と同じように黄土色にして、それらを浮き立たせているところなどは、明らかに画家の作為でしょう。それを、あたかもさりげないと見せて、写実のような作品に仕上げているところにシャルダンという画家の技法の成熟を見るとともに、この画家の特異性に触れたような気がします。一見、さりげないようで、実は一筋縄ではいかないところがあると、私の考えすぎでしょうか。どうやら、私は、そういう絵の見方が好きなようです。

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