無料ブログはココログ

« 佐藤健太郎「「ゼロリスク社会」の罠~「怖い」が判断を狂わせる」(5) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(2) »

2012年11月26日 (月)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(1)

はじめに <喜びと共同性>

喜びほど、人間にとって本質的な感情があるだろうか。それを感じる時に心が満たされ、それを失う時に悲しみに襲われるもの人類の誕生と共にあり、その永続的な実現のために人々が営々と努力し続けて来たもの、たとえ最も小さな度合いであれ誰もが一度は経験したことがあり、あらゆる共同体が形づくられる時、人々の心の深層で常に働いている感情、それが喜びに他ならない。しかし著名な哲学者の中で、この感情の重要性を、自身の哲学の最重要の課題として終生保持し続けた人物がスピノザである。スピノザは、<喜び>にしか関心はなかった、幸福も至福も徳も<喜び>追求のプロセスで実現されるべきものであり、彼のすべての体系、すべての主張は<喜び>をいかにして実現するかをめぐっての試みだった、ということを指摘したい。それは哲学というより、社会思想・政治思想の領域においてこそ、今一度、確認、あるいは「発見」されなければならない事柄である。

彼は主著『エチカ』で、「直観知」について語っている。この認識は、この世界そのものを絶えず構成している<力>(これがスピノザにおいては「神」または「自然」と呼ばれる)と、その個性的な現れである<個物>と、<私たち自身>のそれぞれの本質が、同じ一つの<力>において一致している事実を、一挙に、洞察的に把握することを意味し、スピノザの思想の「頂点」を形作るものものとも呼ばれているが、彼は、この状態において人間は「最上の満足」「最高の喜び」を味わうと主張している。また、スピノザは、私たちが行動を起こす際には「常に喜びの感情から行動へと決定される必要がある」「善とはあらゆる種類の喜びである」といった考えを示し、<喜び>の感情を事実上、倫理的な行為規範の地位にまで高めた。何より彼は、私たちのあらゆる思想と行動および学問の目的は、人間最高の完全性─最高度に実現された人間の本質、すなわち人間が最も能動的な力に満たされた状態─を実現することであると考えていたが、それはスピノザによれば、私たちがより大きな<喜び>へと触発されていくプロセスを積み重ねることの中にしかない。<喜び>こそ彼の思想の中核に据えられるべき感情であり、それを解く「鍵」なのである。

 

通常私たちは喜びという言葉を、何か嬉しさや楽しさを感じた「瞬間」という意味で使っている。長らく望んでいた事柄が成就したり、それが手に入ったりした時に覚える感情をその言葉で表現することも多い。しかし、それは結果としての喜びであって、スピノザの言う<喜び>ではない。あるいは、せいぜい局所的な欲望の充足である「快」か「安堵」でしかない。スピノザは、「私たちの身体の活動力を増大し、あるいは促進する感情」を<喜び>と呼び、その逆の場合を<悲しみ>と呼んだ。それと同時に、「喜びとは人間がより小さな完全性からより大きな完全性へと移行することである」とも述べ、それが達成感や到達感のようなピークの感情ではなく、移行の感情であることに注意を促している。スピノザにおいて「活動力」とは、個体において働いている、その個体を持続・展開させる<力>のことに他ならないから、誤解を恐れずに言い直すなら、有機体においては「生命力」と私たちが呼んでいるものと、ほぼ同義と考えてよい。つまり<喜び>とは、「生命力が、身体において、より全面的に展開する過程で生じる感情」のことである。自らの存在を充実させ、より広大な地平、異なった次元に連れ去ってくれるような出来事が、「今・ここ」で自分の身体の内に生起している時の、まさにその渦中で味わう感情─これをスピノザは<喜び>と名付けたのである。スピノザの哲学は、『エチカ』における、あの「幾何学的秩序」に基づく叙述も含め、一切がこの感情の周りを回っている。認識の結果としての<喜び>ではなく、<喜び>に至るための認識。これがスピノザの根本姿勢である。

人間はいかにしたら<喜び>の感情を味わえるようになるのだろうか。それは、人間が活動力を増し、能動的になれる仕組みを問うことと同じである。そして、そうした<喜び>としての能動性を一個人のみならず、集団的なレベルで実現する場合にはいかなる条件が必要か、政治的・倫理的著作を執筆する時、スピノザの念頭には、このことしかなかった。哲学や政治学が、人間にとって「本当に必要なこと」「当たり前のこと」を問題にしていないことを、彼は常に批判していた。

スピノザの<喜び>は、直接的なものである。何の体系や思想も前提にしない。「喜びは直接的に悪でなくて善である。これに反して悲しみは直接的に悪である」という定理の「直接的」という言明に込められた無媒介的な思考の荒々しさ、力強い断定を、私たちは正面から受け止める必要がある。私たちが日々感じている感覚としての<喜び>を、スビノザは丸ごと肯定し、それをもっと豊かなものにしていこうと言っている。実のところ彼の思想は、その名前も著作も知らずに生きている大多数の人々にとって、「わからない」どころか、日々それを行い、そこで描かれた感情や表象に翻弄されている自分たち自身の<鏡>なのである。しかしそれと同時に、私たちの歪んだ見方を矯正して、世界のあるがままを垣間見させてくれる<レンズ>の役割も果たしている。

« 佐藤健太郎「「ゼロリスク社会」の罠~「怖い」が判断を狂わせる」(5) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(2) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(1):

« 佐藤健太郎「「ゼロリスク社会」の罠~「怖い」が判断を狂わせる」(5) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(2) »