無料ブログはココログ

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(2) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(4) »

2012年11月28日 (水)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(3)

第1章 <現代性>スピノザ・ルネサンスが意味するもの

1960年代以降、スピノザは急速に復権した。その動きを追っているが、その中でもジル・ドゥルーズやアントニオ・ネグリの立場について、

スビノザにとって、人間精神を構成する観念の対象は、身体以外にない。にもかかわらずスピノザは、精神に対する身体性の外部性をまず積極的に認めるのである。しかし、スピノザが「身体は精神に思考させる力はないし、また精神も身体に、運動や静止、あるいし何かほかのことをさせることはできない」と言うとき、ここで言われている精神とは、想像知の段階にとどまったものと理解されねばならない。人間の観念は、その観念に合致した対象のみならず、他の対象の観念を持つとき、それは非十全な観念と呼ばれるが「精神が自己に現在的なものとして表象する事物について、その存在を排除する観念を欠いていると考えられ限り」、精神は非十全な観念しか持てない。したがって、スピノザの言う精神のうちには、私たちが通常意識と呼ぶ受動的な想像知の状態と、より能動的な認識能力とがはっきりと区別されており、後者においては、精神は、身体の変様やものの表象像を、身体の内部で秩序付け連結する積極的な能力を持つ。これらのことは、身体に対して、あるいは同じことだが自然に対して、必ず非十全的な観念しか持てない「意識」を強く告発すると同時に、一方ではこの意識を越える能動的に精神としての「思考」の力に対して十分な地位を与えている。ここに私たちはスビノザの思想の真の革新性を見出すことができる。

ドゥルーズが『差異と反復』で明確にしているように、思考するということは、一つの能力を自然のままに行使することではない。思考するとは、哲学が暗黙に前提としている<みんなが知っている。誰も否定できない。誰もがこう考えるはずだ>という表象の形式、つまり前─哲学的イマージュを共有せずに、<単独者>として一切の概念を振り出しから創造していくことである。スピノザが、『デカルトの哲学原理』の第一部緒論で、デカルトの<コギトエルゴスム>は、三段論法ではなく、「私は思惟しつつある」ということだというとき彼はすでに、思考とは、外部に出ようとする意志であり「働き」であることを語っている。「他のものの観念を排除しようとする」能動的な力の行使があって初めて、思考の外部性は保証される。その意味の限りで、思考とは外に立つこと、すなわち実存なのである。

 

この点は、スピノザの第二の意義、すなわちあらゆる価値、とりわけ「善悪」という道徳の彼岸に<よい─悪い>というエチカを提示した業績に結びつく。

スピノザは、人間に自由意志を否認する。しかしそれは、スピノザにとって、意識というものがいわば錯覚の場だからである。錯覚の特徴とは、結果については分かるが、原因については無知だということである。通常、私たちは自然界のあらゆる原因と結果を知るわけにはいかない。そこで、アダムのように、結果の認識と原因を取り違えるのをやめないのだ。あらゆる目的論、そしておそらく「道徳」の起源がここにある。実際、自然は私たちに何も「禁じて」はいない。善悪の規範、すなわち諸々の価値とは、あくまで私たちの意識の産物なのである。<よい>ということ、自由であるということ、道理にかなっていること、そして強いということは、個体がある出会いを組織しようとし、自らの本性に合ったものと結合しようとし、それによって自らの力を増大させることである。それに反して<わるい>ということ、あるいは隷属状態にあるとか、分別がないとか、弱いということは、行き当たりばったりに出会いを体験することであり、出会いのもたらした偶然の結果に受け身で甘んじるということに他ならない。善と悪とは、おのおのの個体が一定の条件のもとで行う、積極的かつ一時的な選別であり、何度でもやり直すべき産物である。

 

何と言っても、『エチカ』の偉大なところは、このような意味での善を人が試みようとする際に、それに対する障害や、抵抗となる心的要素を決して過小評価していない点にある。スピノザにとって、喜びとは、「精神がより大きな完全性へと移行するような精神の受動」と解され、悲しみとは、「精神がその過程でより小さな完全性へと移行するような精神の受動」とみなされている。したがって、悲しみの情念は、私たちの関係性を解体し、私たちをより小さな完全性へと閉じ込めてしまう主要因なのである。

スビノザは、「精神が悲しみを感じる限り、精神の認識する能力、すなわちその活動力は、減少させられ、妨げられる」と言う。いかにしたら私たちは、こうした悲しみの情念を克服することで、<権力に対する抵抗力の総体>としてとらえられた生の持つ力を拡大させていくことができるのか。おそらくそこでまず要請されるのは、思考の力である。スピノザは、受動感情それ自体の原因について思考する精神の姿勢があってはじめて、人間は隷属状態から抜け出す条件を手にしうることを強調する。「あらゆるものを必然的なものとして認識する」働きは、「理性の本性は、ものを偶然的なものでなく必然的なものとして観想することである」とされる限り、スピノザの言う意味での<理性>を指している。人間は通常、自然界の錯綜する諸原因について明瞭な観念を形成し得ない。これが、人間が絶えず非十全な意識の中で生き、外の力に従属せざるを得ないことの原因であった。したがって、ここで言う必然性の認識とは、そうした言わば虚偽意識を形成する原因の諸関係について、相互の一致点や、差異や、対立点を抉りだしながら、「自己の本性の必然性によってのみ存在し、自己自身のみによって行動しようとする状態」に基づいた関係性を探り出す作業のことなのである。

私たちは、一つの身体、一つの心が、ある出会いにおいて、ある組み込みにおいて、ある結びつきにおいて、何をなしうるあらかじめ知らない。したがって私たちは、「意識に還元されない思考の力」を通して、どのような環境のもとで、自らの情動が最大限の肯定を表出し得るかを、そのつど確かめていねばならないのである。

 

スピノザには、いわゆる「個人」の考えはない。「主観」も「自我」も存在しない。そうしたものは、自然の諸力の織り成す効果、結果でしかないからである。スピノザにおいて世界としてあるのは、「社会的諸関係の総体」としての諸存在(<人間>も、おそらく<自然>もその一つに過ぎない)とその様々な組み合わせ、諸多数・多様体だけなのである。だから、悲しみの情念を喜びの情念を喜びの情念に転換することは、個人的な快楽の追求などを決して意味していない。情念からしてすでに集団的諸関係に規定されているからである。喜びの情念にしても、決して個人の力ではなく、集団の中で諸アレンジメントの結果として、他社との相関の中でしか永続して保証されることはない。

したがって、スビノザがなぜ、理性を「共通概念」と同一にみなしたか、その理由の一つはこのことからも明らかである。それは、この共通概念という認識を通してのみ、私たちは自らの身体と外部の諸物体との間の相互作用が認識でき、感覚や意識が分断している諸存在相互の関係を、明るみに出せるかである。想像知のところで見たように、私たちは、通常事物を孤立して考えてしまうようにできており、それが事物に内在する構造や関係の相互関係の認識を妨げている。その結果、主観の牢獄とも言うべき個人のアトム化がつくりだされ、私たちは自らの存在の社会的被拘束性を見失うのである。こうした状況を打破して、諸力の形作る社会関係の地平の一部として自らの場を認識していくこと。これが共通概念の広義の役割であろう。ものが相互に関係し合うための前提となる共通の側面を見出し、いわば物事を、超越的次元からを持たない一つの共通平面上に生起する事態としてとらえること、そして具体的な身体や思考を、その形態や機能からでなく、触発し、触発される力の関係で考えることは、実際、決して容易ではない。

 

スピノザは、人が自らの隷属を断ち切るために、受動感情を乗り越え、人間相互の多様な連結の形態を創造していく作業をしない限り、真の連帯と相互の尊重もないことを意味する。社会制度の分析と心理的分析の統合。そしてと社会的実践の指針として、理論的認識に劣らず、情念による誘導と感情のサブリメーションを重視する点。マルクスとフロイトの論点を、多くの点で事実上先取りしたスピノザの思想は、様々な再評価を経て、極めて現代的な思想として蘇りつつある。今後スピノザの思想は、私たちの狭窄で一面的な社会認識、自然認識を組み替えると同時に、他の諸思想と様々な結合をしながら、長く同時代への批判的機能を持ち続けることになるだろう。

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(2) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(4) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(3):

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(2) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(4) »