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2012年11月30日 (金)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(5)

スピノザには、人間の身体を、手や足や頭で輪郭づけられたいわゆる私たちが「体」と読んでるもので区切る考え方はない。むしろ機械も道具も含め自然のあらゆるものは、「運動と静止の割合を伝え合い」、私たちの身体の本質を成す一定の構成関係と矛盾することなく合致している限り、私たちの身体の一部をなすと考えられるのである。そもそも孤立した系として人間や個物をとらえる認識は、スピノザにとってイギマチオ(表象知)ないし一般概念として厳しく斥けられている。人間は、諸力の織り成す関係の中に包含された一様態にすぎないし、この様態を構成する諸部分はそれこそ無数のさらにミクロな諸身体である。このような視点で考えれば「事物はそれ自体で見れば、善でも悪でもない。ただ他の事物との関係の中でのみそれは善ないし悪と言われるのである」という主張も当然である。人間を含めた諸々の個物にとって何がよいか何が悪いかは、その時々の構成関係が必要とするものによって変わるからである。

スピノザが「私たちの活動力を増大し、促進するものが善であり、私たちの活動力を減少し、阻害するものが悪である」と主張する際に、活動力を増大する主体として、何ら個人の「主観性」が前提されていないという点である。つまり、活動力の増大を享受するはずの個的な意識というものが、「私たちの本性と共通性を有するもの」という認識の導入によって乗り越えられているのである。個的な意識はあらかじめ「共通のもの」という外からの力によって常に/すでに貫通され、集団性/共同性を帯びている。言うまでもないが、この共通性とは力能の共通性である。本質とは力能の度合いに他ならず、人間も含め諸々の個物はこの力能において共通の影響関係にあるからである。

仮に、ニーチェ的な意味での能動的な人間ないし超人が、自分の能動的な力の増大のみを単に喜び、享受し、占有するだけの存在であったとしてみよう。スピノザの能動的人間と一見極めて近いところにあるように見えるその人は、しかしながら、スピノザ的な意味における徳と能力を備えた自由人とは言えない。というのも、前者にとって他者は、超人の強大な能動性に圧倒され、それを畏怖しているいわば「影」としてしか現われてこないのに対し、後者は、自らの本質と他者の本質が、何らかのイデアにおいてではなく、まさに力能において共通の源泉を持っていることを認識しているからである。したがってスピノザの自由人とは、どのようにしたら自らの能動的な力の増大ができるか、喜びの情動の増大が可能かという課題を、諸々の力能の合成の局面において、すなわち共同性の平面に置いて試みることができる人間である。その人は自己の能動的な力の誇示といった主観性の罠に陥らない。スピノザ的な能動的人間は、一切が力能と見なされたこの様態的世界において決して<個人>など存在しないこと、<人間>などという限定が諸力の錯綜した現実に対する非十全な表徴でしかないということを認識しているという点で人間を越えており、<超人>たり得るのである。

だからこそ「徳に従う人の最高の善はすべての人にとって共通であって、すべての人が等しくこれを楽しむことができる」とスピノザは主張する。この「徳」とは「力能」に他ならない。したがって、「徳に従う人々が自己のために求める善を他の人々のためにも欲する」のは、何も外にそのような規範が存在するからそのように行為するのではなく、他者の力能と合成し合うことがより大きな力能を作り出す契機になるからに他ならない。

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