無料ブログはココログ

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(1) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(3) »

2012年11月28日 (水)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(2)

スピノザによれば<喜び>には二つの種類がある。受動的な喜びと能動的な喜びである。受動的な喜びとは、私たちが自分自身と自らの活動を、この本質的な源に遡って掌握していない状態での喜びであり、こうした喜びはしばしば、人が、身体の幅広い能力に関わらない、局所的な刺激にのみ囚われている場合に生じる。快感は確かに喜びの一種である。ただ、この感覚に注意を払わなければならないのは、それが、人間に身体と精神を多種多様な仕方で触発し、その全般的な能力を高めていく営みの妨げになることがあり得るためだ。しかし、スピノザは「様々なものをできるかぎり楽しむこと」を人々に促した。この「様々なもの」も、人間の身体全体が、絶えず新しい糧を必要とする様々な部分から構成されており、すなわち人間の活動力を増大させ得るあらゆる刺激に対して身体が応答できる力能を、可能な限り高めるために推奨されているのであって、やはりそれへの移行過程で味わう<喜び>なのである。

<喜び>には、もう一つ、見落としてはならない重要な側面がある。スピノザは「権利」と「力」を同一のものと考えたことで知られているが、彼は政治的思考を進める際にいつも、「いかにしたら私たちの諸権利=諸能力は守られ、それらをより堅固に、かつ多様に展開していけるか」という問題に専心していた。すなわちスピノザは、権利=力は、維持されつつ、拡張される必要があると考えていた。それもほかならぬ<喜び>のためである。「喜びは人間の活動力を増大しまたし促進するから、喜びを感じている人間は、喜びを維持すること以外の何も欲しないということが、そしてまさに、喜びがより大きくなるにつれてますます大きな欲望でそれを欲するということが容易に証明される」。<喜び>の増大は活動力の増大に直結し、それはそのまま権利の増大に直結する。実際に為し得ることがそれだけ増えるからである。私たちの活動力・生命力がより大きな状態に移行するためには、私たちが様々な「恐れ」─これは<喜び>の感情を根こそぎ奪う、しぶとい<悲しみ>の感情の一つである─を克服して、今できることよりもさらに多くのこと、今まで為し得なかったことまで為し得るように、力を拡張していく必要がある。例えば最も基礎的なレベルで言うなら、安んじて、寝たり、食事をとったり、自由な会話をしたりすることが実現されていなければ、人はより広範に活動力を発揮することは困難である。

したがって力の発露はそれを支える一定の制度を前提にする。換言すれば、権力=力は保障されていく必要があり、人間はそれを常に欲している。別の言葉で言えば、祝祭的興奮が長々とは続かないこと、人間の欲望が単に「蕩尽」を求めるだけでなく、より多くの<喜び>を求めていること、そのためにこそ、常に社会的組織を欲していることを意味している。おそらく、立法的な行為の源をそこに遡るという解釈は可能であって、「人々が集まって生活するところでは、<喜び>の実現と保障という欲望のために、必ずその集団に固有の諸権利の措定が要求される」という意味でとらえることができる。

むろん国家に関して言えば、その権力の源を形作るあらゆる法は、本質的に「支配」と「命令」の体系である。たとえいかに権益を「保障する」側面があろうと、支配と命令の体系的整備と強制的執行の権限が伴うことは不可欠なのである。その結果、その権限を行使する集団が形成される。ところが事態はこうなると、必ずや支配と命令は、大衆の欲望を後追いするか、先回りして整序するしかできないのであって、いずれにしても、成員の絶えず変化する「今・ここ」の欲望をただちに反映はしないし、それに追いつくことはない。

<喜び>を求めるどんな欲求の実現も、法のみでは常に「不足」か、逆に、その欲求を抑圧するほどに「過剰」である。しかしながらいかなる権力といえども、本質的に成員の「感情的な信任」なしには存続し得ない以上、長期的スパンで見た場合、<喜び>の感情、あるいは強力な<悲しみ>としての怒りのかんじょうによって、変質ないし転覆されていく運命にあることは避けられない。

「生殖」と「突然変異」に端的に象徴されるように、生命は、ある一定の有機的組織を保守的に形作る性質と共に、それを超え出ていく力をも併せ持っている。しかし私たちの身体や思考が、<喜び>ではなく快と不快によってしか行動に決定されない状態である限り、そうした感情を通して形成される制度や法は、「必要な限りの」安全ではなく、「限りない」安定と防衛を志向するようになってしまう。<生>に対する管理と支配を遂行する権力の進行が、あらゆる抵抗や軋みを引き起こしながらも、大勢として一向に止むことがないのは、生命の持つこの保守性のゆえであり、快に安住し、現状の維持を欲する側面を身体がたしかに持っているからである。

したがって、<喜び>に基づく共同性とは、常に「そこにある」ものであると同時に、いつでも一つの「奇跡」としてある。それを語源とする「出来事」という言葉は、スピノザ的な意味での共同性を形容するに相応しい。そこには一切の超越性も目的論も含意されていない。それは超越なくして超え出ていくものであり、目的なくして方向を持つ運動なのである。例えばこれまでの歴史を通して私たちは、人間の幸福の実現を約束するはずの政治思想や宗教思想が、当初の目的とまるで逆の結果を齎すようになる事態を経験し、目撃してきた。その際、お決まりのように持ち出されるは、「理念においては崇高で理想的な状態が志向されているのだから」という言い訳だった。しかし少なくともスピノザについて言えることは、そのようなロジックを断固として拒否するという姿勢である。人々は、<喜び>を求めて集い、<喜び>の感情に奉仕する限りにおいて制度や法の組織化を進めてよい。しかし、それに反する制度や法に直面した場合には、それを改変するか、撤廃するために闘うか、可能な場合にそこから離脱して構わない。「脱出」が正当化されるのはこの文脈においてである。そしてそれは、<喜び>の一形態である以上、必然的に「権利」の確立を要求する運動となるだろうし、なる必要が生じてくる。

簡潔にまとめよう。スピノザの倫理的な定式はただ一つ、「汝の<喜び>を最大限に味わえるように行動せよ」、これだけである。国家も共同体も方も制度もすべて、活動力の増大という生命活動のあとから、要請され、組織されたものであって、その逆では全くない、対照的に、「道徳」は国家や共同体の存続のために要求される規範に他ならず、スピノザが問題にしている「倫理」ではない。そしてこの倫理的定式はそれだけで、集団性と共同性の構築契機を包含している。『エチカ』の中で繰り返されているのは、自己の生命とそれ以外のあらゆる生命が協和していく局面─互いに合成しあい、両立可能性が成立する場─を探り出そうとする入念な試みである。

あらゆる道徳的言説を超えて<喜び>を─このスピノザの訴えは、多様性への賛歌でもある。」道徳人の集まりは、どれほどそこで「人格」の尊重や、個的な「選択」とん「決意性」が叫ばれていようと、根本的なレベルで無差異・無人格的な人間の集合にならざるを得ない。なぜなら、道徳の志向するものは「一般性」だからである。しかし、<喜び>は、本性上多様である。例えば、「人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性において常に必然的に一致する」という彼の主張も、自己の本性としての力を、自覚的かつ全面的に展開しようとしている人同士の間では、自らの能動的な力に従って行動するという方向において不一致はないということを意味しているのであって、人々が同じ行動様式をとるようになるということでは全くない。ある人の<喜び>は、その人に固有の仕方で表現される活動力・生命力のさらなる展開だから、当然ながら特異な仕方で伸長する。スピノザは、この多様な<喜び>を交差させながらひとつの共同体、より大きな<喜び>を構築していくプロセスを構想している。

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(1) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(3) »

スピノザ関係」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(2):

« 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(1) | トップページ | 浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(3) »