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2012年12月

2012年12月31日 (月)

年末

ちょうど おおつごもりで区切りとなりました。

しばらく更新を お休みします。再開は新年7日ごろからになると思います。

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(12)

ここのようなメランコリー分析の成果を生み出したにもかかわらず、当初フロイト自身が「私自身はどれほどまで信じているのか、自分でもよくわからない」と言っていた問題含みの死の欲動/攻撃欲動という仮説概念は、当然のことにフロイトの周囲にもおいてもあまり評判の良いものではありませんでした。さらにフロイトは「無機物への回帰」である死の欲動と破壊活動の関連について次のような推理を述べていました。

「この二種類の欲動はどのような仕方で互いに結合し、混合混交しているのか、ということについてはまたまったく想像もつかないほどである。しかし、このことが規則的かつ大規模に起こっていることは、われわれの脈絡にとって避けられない仮説である。単細胞の原基有機体が多細胞生物へと結合された結果、単細胞の死の欲動が中和化され、その破壊的な活動がある特殊な器官に媒介されて外界へと逸らされるということに成功したのであろう。その器官とは筋肉組織のことで、死の欲動は外界及び他の生物に対する破壊活動として出てきたのであろう」

フロイトを読み直すに当たって、著者は分子生物学のアポトーシスの考えに関心を抱いていたと言います。この関心は死の側から生を見てみるというパースペクティヴの逆転や性と死の同時成立という内容に限られていたわけではありません。というのも、アポトーシスというのは「プログラム化された細胞死」のことでした。つまり細胞は遺伝子からの指令を受けて自ら死んでいくのでした。このプログラム化された細胞死には二種類があると言います。ひとつは例えばオタマジャクシが蛙に変態していくとき尻尾を失ったりする時の尻尾の細胞の消失がアポトーシスの働きによると言われています。また、生体にとって異質な癌細胞や老廃した細胞を積極的に排除するのも同じ働きから来ていると言われます。そうなるとアポトーシスというのは、あくまで生体ないし個体の生を前提とし、それに奉仕する「細胞死」と理解してよいようです。そして、このアポトーシスは専ら再生可能な幹細胞において起こるということです。では、これに対して神経細胞や心筋細胞のような、個体の生命を直接左右する再生されない細胞に起こる細胞死が二つの目のアポトーシスに関わってきます。ひとつの目の意味のアポトーシスがあくまで「個体の生命維持」のためにあるのだとしたら、二つの目のは反対に非再生系組織の死によって、それが直接「個体の死」をもたらすからです。そして、この二つの目が個体の寿命の決定的要因となるわけです。ここで、フロイトが参照したヴァイスやゲッテの死の論議は、もともとそれぞれの生物にはなぜそれぞれに見合った寿命があるのかという関心から出て来たものです。つまり彼ら論議において「死」とはこの「寿命」すなわち「個体死」のことを意味していたというわけです。フロイトが死の欲動の究極的定義とも言うべき「無機物への回帰」を想像したのは、この論議のコンテクストにおいてでした。この講の最初から繰り返しているように、フロイトの「死の欲動」という概念に関する大きな謎のひとつは「無機物への回帰」と「破壊欲動」がなぜ同一視できるのかということでした。「無機物への回帰」が寿命に関わるアポトーシスとしての死に対応しているとするなら、もう一つ「破壊欲動」が「アポトーシス」としての死に関係して出てくる現象ではないかという推量です。アポトーシスというのはあくまで個体維持のためのものでした。ここで生じる「死」は、ある意味で個体が異他的な細胞を「殺す」ことと解釈することができます。これに対してアポトーシスは個体が自分自身の死を命ずるわけですから、「殺す」というより、自動詞的に「死ぬ」と表現したしたほうがよいはずです。「破壊」とか「攻撃」というのはもともと対象、他者、外部を前提にした概念です。原基的には「破壊」や「攻撃」というのは、あくまで自分とは異なる対象や他者の認知とそれに応じた自己の形成があってはじめて成り立つものと思われます。つまりは一定の自他関係、そういってよければ主客関係を前提にしているということです。「他なるものの認知」がなければ「殺す」という他動詞的行為は不可能です。免疫システムにおいては分子レベルでの「自己」と「非自己」の区別が前提になると言われています。このようにアポトーシスのほうに異他認知に基づいた「攻撃」の原基があるとしたなら、それが何らかの仕方で組織化され、一定の形を取ったもの、それが「破壊欲動」に繋がっていると考えることはできないでしょうか。有機体の多細胞化に伴って、異他認知をもったアポトーシスの働き自身もまた何らかの形で組織化され、それが個体の内部から外部へと放出されるようになったのではないかということです。さらに進めれば、すべからく自他の差異に基づいた異他認知を伴う対象化という働きには本質内在的に「攻撃する」とか「殺す」というファクターがついて回るのかもしれません。つまり対象化の中には多かれ少なかれはじめから一種の「攻撃」が組み込まれているということです。あるものを観察するとは、自分が当事者として巻き込まれない程度にそれに対して距離をとり、その対象としてあるものをひとつの「物」として見るということです。しかしそれはあるものを、あるものに即してあるがままに見るのではなくて、そこから切り離された主体の側がそのあるものを構成し、つまりそこに介入し、その意味ですでに「死んだ物」を「攻撃的」に観ることにならないでしょうか。自然科学の基礎をなす観察には、根本のところで何かそのような冷たいものが潜んでいるように思えてなりません。

2012年12月30日 (日)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(11)

第6講 攻撃するタナトス

フロイトは死の欲動と攻撃欲動を同一視していました。そして愛と憎のアンビヴァレンツの憎もまたこれらの概念と重ねあわされていました。普通に考えて、この二つの欲動仮説を同一視することはそれほど容易なことではなかったはずです。性的欲動によって変容され、外部に向けられた死の欲動、すなわち、破壊欲動がサディズムの根源であり、またそれが器官の内部にとどまって性的変容を受けるのがマゾヒズムだと説明されるのですが、多細胞化に伴ってできた筋肉組織によって死の欲動が外部に向けられ、それによって死の欲動の破壊欲動への転換が可能になるという論理は同じです。ここで興味深いのは、この論理を一貫させると、性欲動のエルネギーであるリビドーはその反対欲動である死の欲動を破壊欲動に変換させる中心的役割を担っているということになります。言い換えれば、エロースの活動が外界ないし他者の破壊や攻撃を生み出すという新たな疑問を呼び起こす帰結が出てきてしまうということです。この帰結はフロイトのメタサイコロジーの中で最も根拠づけが不明瞭で、多分に矛盾を孕んだ部分です。

死の欲動と攻撃欲動の同一視問題には疑問が残りますが、取敢えずそのままにして、死の欲動の変容態であるとされる攻撃欲動を前提にしたその後を追いかけます。メタサイコロジーの第二トポス論では自我・エス・超自我の三つの審級が問題になっていましたが、問題の攻撃欲動はこの中の超自我の形成に直接関わってきます。超自我というのはエディプス・コンプレックスを抑えこんだ結果生まれ、自我を道徳的に監視し拘束するものです。このコンプレックスが形成される過程で子どもは母親への愛を断念し、父親、しかも自分に懲罰を与えるかもしれない父親に自己同一化をしながら、その同一化した父をジブの中に取り込み、それを超自我として一種の超越的な審級として打ち立てるのでした。ここには死の欲動の変容である攻撃欲動がごく初期に発令された例を見ることができます。しかもこの攻撃欲動は、権威すなわち父親の側からの攻撃に対する不安と表裏をなすものです。ここには互いに敵対する力関係と子供の側における葛藤処理が起こり、その結果として超自我が生まれることになります。だから超自我とはもともとは自分の欲動断念の結果取り入れ似れた父親像であるわけです。それは無意識的なものの中に形成されます。この超自我の実質は父親による叱責ないし懲罰としての攻撃性なのですが、無意識の中で匿名となったこの審級は人格性を失って漠然とした禁止、戒め、疾しさとなって子供の自我を拘束します。だから原始宗教の多くが「父」または「父祖」の名において戒律を守っていることも精神分析的に見れば、不思議な偶然ではないのです。こうした子供の中に生じた、本人の意識にとっては出所不明の禁止や戒めがさらに洗練されたもの、それが「良心」であり「罪悪感」、ひいては「モラル」ということになります。さらにフロイトは自問します。罪悪感とは一種の「後悔」だが、この後悔はその発端となるエディプス・コンプレックスとどう関係しているのかと。ここで持ち出されるのがあの「愛と憎しみのアンビヴァレンツ」です。攻撃欲動はとはそもそも内に在った死の欲動が変容され、外向化されたものでした。まずそれが父親という自分の外部に向けられたのですが、今度はその外部である父親が同一化によって内面に取り入れられます。そしてその取り入れられたものがあくまで内部で自分自身を拘束する仕組みです。死の欲動が攻撃欲動に変容される時にリビドー、すなわちエロースが関与するのでした。そして今また、外部としての父親への同一化とその内面化のプロセスにおいて、愛すなわちエロースがベースとなって働くと言われているのです。父親を憎みながら、同時にそこに愛がなければ、その攻撃性に対する後悔は出てこないし、ひいては内面化も起こらなかったでしょうから。

このような超自我と罪責感が成立する仕組みについての一見独創的な推理は、思想史的にみると、フロイトのオリジナルではなく、ニーチェがモデルになっていると考えられます。ニーチェはドイツ語の「Schuld(罪)」という言葉が文字通り「Schulden(借り/負債)」という物質的な概念に発することに注意を促します。つまり罪とはもともとは貸し手と借り手の間の交換関係から生じた概念だということです。借り手は負債の返却が済むまで借りたという事実を記憶にとどめ続けなければなりません。それは貸し手に対する一種の負い目となります。そしてさらに負債が返却できなかった場合には、貸し手に有利なように何らかの処罰や報復が課せられることになります。ここでのポイントは借り手に負い目ができることと、貸し借りが上手くいかなかったときは処罰という一種の暴力と負債とのバランスを取るということです。ニーチェは人間が社会と平和を知った時、それまでの「本能」の行き場がなくなる。この「本能」がフロイトの「欲動」に当たる破壊欲動ないし攻撃欲動でうり、それが内面に向かって疾しさを生むといいます。

このような罪責感が成立する論理構造を精神病理に適用したのがフロイトのメランコリー論です。フロイトは悲哀とメランコリーという一見よく似ている二つの現象を比較しながら、悲哀が愛する対象を失ったことに対する反応であって自分が何を失ったかもはっきり意識されているのに対して、メランコリーは、同じように愛する対象の喪失に起因しながらも、本人には何が失われたのかが自覚されない状態で、自己卑下や自己処罰という特徴を指摘します。しかし、これらには本来外に向けられた攻撃欲動が内面化して自分自身に向かうというニュアンスを指摘しています。外に向けられていたリビドーが自分の方にリターンしてくるといっても、たんなる折り返しではありません。この折り返しは超自我を媒介とする間接的な道になります。超自我というのは、子供がエディプス体験の克服過程で同一化して自分の中に取り込んだ無意識的な「父親」のことでした。それはもはや具体的な父親から離れて訓戒や禁止を中身とする広い意味でのモラルや良心のことです。言い換えれば、自分でもなぜかわからないまま、とにかく自分の行動や考えを拘束するものです。だからリビドーが内に向かうとは、この監視する超自我が自我に対して拘束力を発揮するということに他なりません。フロイトによれば、メランコリーの最も特徴的な罪責感とか自己処罰の感情とは、さしずめこの超自我が強すぎて自我を委縮させてしまうような状態ということになります。だからフロイトは、メランコリーにおいては、「超自我が自我そのものを強奪してしまった」という印象が強いとも言うわけです。

2012年12月29日 (土)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(10)

他方では、彼には理想的な環境状態が与えられるなら、生殖行為の繰り返しによって生命体はその生を永久に維持できる可能性を持っているかもしれないという疑念を簡単に払拭することはできませんでした。これがまったく無根拠な推理でないことが当時の生物学界を揺るがすことになります。そもそも、当時の生物学者の間には有機体が内的必然によって死を内包していることに一致した見解がないということで、何を以て死と定義するかということさえ不確かだったことです。アウグスト・ヴァイスマンは新ダーヴィニズムを代表する人ですが、彼によれば、生殖細胞は基本的に不死で、死ぬのは体細胞及びその集合体としての個体です。体細胞の死は体細胞と生殖細胞の分業の成立によって必然となった生殖メカニズムが選択原理に従いつつ円滑に作動するためには、一度それに使われた個体(細胞)は種にとって不必要になるばかりか、支障にさえなるため、死滅して次の世代に席を譲るようになっているというわけです。究極のところ、死とは一種の適応現象なのです。これに対して、アレクサンダー・ゲッテは死はもともと生命体の中にセットされた必然性であると批判します。ヴァイスは単細胞生物には死がないというが、「シスト」という細胞の機能停止状態がこれに当たるという。しかし、死は最終的な停止という常識とは、ゲッテの主張は無理があるように見えます。フロイトに戻れば、ヴァイスマンの主張には胚細胞が生の欲動に、体細胞が死の欲動に類似性を見ることができます。しかし、フロイトは単細胞ひいてはすべての細胞に死が内在している、あるいはインプットされているという結論を期待していて、その期待が満たされれば、生の一部ではなく、生それ自体が本質的に死を孕むというテーゼを徹底できるからです。つまり、フロイトの死の欲動という仮説概念はみかけほど強い実証的根拠に笹売られているわけではないのです。

フロイトの欲動論というSpekulationが死守しようとしているのはエロースとタナトスの二元論です。この二元論を原理において、フロイトはアンビヴァレンツの概念に新たな解釈を与えます。アンビヴァレンツというのは、心理学的にはとくに二つの相矛盾する情動が同時に認められる概念で、俗にいう「愛憎相なかばする」といった言いまわしに見られるような感情のことです。フロイト理論において重要な意味を持つアンビヴァレンツとは、普通の意味と同じように、同一の対象に対して「愛」と「憎」の矛盾した感情が生じてしまうという事態を指しますが、フロイトはこの二つの感情こそほかならぬ生の欲動と死の欲動の現われではないかと考えたわけです。とはいえ、愛が生の欲動の核をなす性欲動とつながることは明らかだとしても、憎しみの感情と死の欲動を直接同一視するのは必ずしも自明ではありません。しかし、フロイトはこの憎しみを「攻撃性」一般に置き換え、それを死の欲動と重ねます。ここで、フロイトが早くから倒錯した幼児の性欲として認めていたある概念に新たな光が当てられることになります。それがサディズムです。倒錯とはいいながら、サディズムの中にエロースと「攻撃」というかたちをとった死の欲動の同時的共存が見られるのではないかとフロイトは考えたわけです。さらにサディズムにおける対象に向けられた死の欲動が転じて、自我の方に向かったのが同じく倒錯的な部分欲動としてのマゾヒズムになるということになります。

さて、死の欲動に対置される生の欲動とりわけ性欲動の方に関しては、この性欲動の原初的形態としてはっきりしているのは「接合」という現象です。異なった胚細胞との合体としての接合が若作りをもたらし、それが生命維持の源となっているわけです。ここでフロイトは接合という事態に直結する生命差異という概念を持ち出してきます。つまり、異なった生命体との合体すなわち接合の瞬間に新しい生命差異が導入されるというのは、それまで一定の安定状態にあった生体に外部から別の生命的要因が加わるということです。この要因とは具体的にはたしかにもう一つ別の生体のことであり、ミクロにはその生体の胚細胞のことでしょうが、究極的には必ずしも細胞である必要はないかもしれません。「生命差異」という極めて抽象的な表現は差異をもたらす活性化能力のようなものだと考えた方がよいと思われます。いずれにせよこの外部ファクターとの合体によって、それまで安定していた生体の内部に緊張が生まれます。その意味でそれは一種の支障をきたすわけですが、しかし同時にそこには若返り現象が起こりそのリフレッシュされたエネルギーをもって自立した生命系列が金知様を緩和し、生体は再び安定化するというメカニズムが考えせれるのではないでしょうか。もし以上のような推測が可能だとすると、接合による生命の連続にとって決定的な意味を持つのは、異なる者同士の出会い又は合体にこそ生命を持続させる源があるということになります。これは一種の分節化、差異化の運動です。つまり差異の出会いに触発された新たな差異化とでもいうべきこと、これが生命持続のベースを為しているとまで言うことができるのではないでしょうか。

以上のところが著者の言によれば『快原理の彼岸』の中心テーマということになるそうです。ここで著者は私見を述べています。これまで死は生の反対概念、すなわちその否定として理解されてきました。死はあくまで生に付属するものであってそれ自体には自立した意味が認められないのです。生の影としての死のイメージは我々の観念世界に非常に強い根をおろしています。しかし、たとえ大雑把ににし生の影としての位置を与えられていようとも、死には独自の働きがあるのではないかということを著者は主張します。その意味でフロイトが死を「欲動」と捉えたことは重要です。通念に従って、死が単なる生の否定態であるなら、欲動として存在するのは生の欲動だけであって、死は単にその生の欲動の消失(否定)を意味するだけでよいはずです。ところがフロイトはあえてこの常識に逆らって、死にも欲動を与えました。これは、死というものが単に生の否定、終了、影ではないという認識の宣言です。欲動としての生と死は互いに拮抗し合います。この拮抗にはある種の力やエネルギーが必要であり、それに応じた力学やメカニズムが働くはずです。そこに、フロイトがメタサイコロジーを言う理由があります。メタサイコロジーというのは自然科学でもなければ心理学でもありません。それはディシプリンとしてはどこにも存在しない「学」です。それは既成の学問によっては捉えきれない死という独特な現象に迫るためのフロイト独自の想像力が生み出したSpekulationの体系なのです。

2012年12月28日 (金)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(9)

第5講 拮抗する生と死

フロイトの理論は総じて二元論的に構成されていて、二つのファクターないし原理が互いに拮抗し合うというかたちを取ることが多いようです。トポス論的にいいますと、意識と無意識的なものとの葛藤、そこに生ずる抑圧や抵抗等が代表的ですし、先に述べた夢内容の加工や忘却などという現象も、そうした拮抗の結果として解釈されます。そうした拮抗や葛藤が問題となる限りにおいて、またそれは力動論的な性格も示すわけです。欲動論に関しても同様で無意識的なものに属する性欲動に対してもそこに自己保存欲動による規制が働いて、性欲動がそのままストレートに顕現することがないとされるわけですが、これとパラレルな関係にある快原理と現実原理もやはり拮抗関係を孕んだ二元論になっています。

「死の欲動」も例外ではありません。「死の欲動」は「生の欲動」と背中合わせの関係になっており、それ自体で単独に成立するものではありません。言い換えれば、生と死の拮抗関係こそ無意識的欲動の本質だということになります。問題はフロイトがその生死の二元論にどのような具体的内容を与えているかです。死の欲動の内容に関して我々は取り敢えず「無機物への回帰」というテーゼを知ったわけですが、ではもう一方の生の欲動とは何でしょう。それは言うまでもなく、常識通りあらゆる生命現象をかのうにしている根源的な力ないし生気一般を意味しているには違いありませんが、フロイトがその生命現象の中でもっとも注目しているのは生殖です。死が無機物への回帰だとすると、逆に有機物を(再)生産する過程にこそ生の核心が宿っているということになります。そこにフロイトが性欲動をさらに一般化して「エロース」の概念を立て、それを死の欲動に対置する理由もあります。つまり死の欲動はエロースを基本的な内実とする生の欲動と対にされるわけです。

この用語の元祖とも言うべきはプラトンのエロースとタナトスの概念ですが、プラトンは基本的にはエロースを死すべきものが不死を目指して営む行為を哲学と捉えています。プラトン哲学の目標は永遠なるイデアに到達することです。不死のイデアを求めて飛翔するエロースというイメージです。プラトンに置いては「死すべき」存在としての人間のエロースは可死的な肉体レベルと不死の精神レベルの二種類があって、「不死なるもの」を求める哲学は、前者の次元を超え(否定し)、後者の次元での出産を目指すことだとされるわけですが、この言説を今度はタナトスをテーマにした言説と突き合わせてみると、ひとつの面白い背理に遭遇することになるのです。プラトンはタナトスがエロースと同等に愛知の道のひとつであると言います。なぜこれらが対等に置かれているかというと、両者がともに精神を肉体から分離解放して、それを浄化することを目標にしているからですが、ことタナトスに関するレトリックはやや複雑になっています。というのも、本来不死なる魂は肉体からの分離としての死によって不死なるものの世界に到達できるというのですから。これを言い換えれば、人は死ぬことによって永遠の生に到達するということになりますが、ことらの言い換えでも、やはり生の消滅によって生がうまれるというレトリック上の逆説が生じます。そして何より逆説的に聞こえるのは、ともに同等な愛知の道でありながら、エロースのほうは「出産」を、タナトスのほうは文字通り「死」ないし「死の練習」を意味しているということです。このようなプラトンの言説には背理は避けられないようです。この両者の背反的共存をひとつのアイディアとして受け入れそれに沿って言説を進める道を取ろうとしたのがフロイトだったではないか。

フロイトは、死の欲動とは生命体ないし有機体が無機物に回帰するよう駆り立てられることであるという抽象的テーゼにまで到達したのでした。とすれば、生の欲動の方はどう位置づけられるのでしょうか。フロイトが注目するのは有機体の胚細胞です。有機体において他の細胞が自然死に向かうのに対して、唯一胚細胞だけはそこから分離し、それが発生するもととなった「遊び」を繰り返すからです。とりあえず精子と卵子を考えれば、この事態は量かい可能です。あらゆる生命的個体は死滅します。しかしその個体は自らの中から胚細胞を分離し、それの合体である生殖行為を通して延命を図ります。そしてそこに有機体の生の欲動と無機物に向かう死の欲動との拮抗が生じています。こういう拮抗があるにもかかわらず、しかし生命体は結局は死の欲動に屈することになります。ということは裏を返せば、生の欲動は結局のところ死に至る道をたんに長引かせる働きを担うだけということになります。

2012年12月27日 (木)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(8)

第4講 死は欲動するか

前講で我々は、ことの発端が戦争神経症、外傷性神経症、反復強迫といった、互いに類似の現象にあることを知りました。そこでフロイトは自分のメタサイコロジーを駆使して、まずこのなかの外傷性神経症のしくみを解き明かそうとします。外傷とは「トラウマ」、すなわち何らかのショッキングな体験が心の傷となって残ったもので、後になって当事者に強い不安やパニックをもたらしたりする原因となるもののことです。

トポス論とは、意識・前意識・無意識的なものの三つの心的装置とその配置関係のことでした。このうちトラウマの形成で直接問題となるのは意識です。意識の先端を形成しているのは知覚です。我々は感性的知覚を通して外部にある対象と出会います。言い換えれば、知覚は外界と内界との境界ないし接点に位置するわけです。フロイトのトポス論における意識というのは外界と内界を調整しながら仲介する特殊な心的装置だということです。このような発想を前提にしてみると外傷性神経症は、一言でいうと、その境界に位置する「刺激保護が大規模に決壊してしまった結果」ということになります。言い換えれば、外界からの刺激量が過度に大きいため保護膜が破れてしまい、内部にパニックが発生するということです。

これをエコノミー論の観点から見ると、例えば堤防が決壊しそうな時に救助隊がそこを大量の土嚢で補おうとします。そうするとその分堤防の内側にある土や砂が大量に運び出されることになるわけです。普通は刺激が外から襲ってくる場合、我々は多かれ少なかれ不安を感じるわけですが、フロイトによれば、この不安は、ある意味で外的刺激に対する準備乃至は防衛を意味します。つまり、「エコノミー論」の言い方を借りれば、刺激と実際に遭遇するまでの間に各処から防衛のためのエネルギーが備給されてくるということです。例えば不意打ちの場合この不安による準備が不可能となります。だから不意打ちをくらって驚愕に陥った場合は刺激量がそれほど大きくない場合も、刺激保護が決壊しパニックを引き起こし、それがトラウマになる可能性があります。

これは外傷性神経症の一応の説明とはなりましたが、これで戦争神経症や子供の反復強迫までは説明できないからです。戦争神経書も外傷性神経症も「外的」暴力が原因となって起こるといいますが、戦争神経症の場合には転移神経症のように「内的な敵」がいるという推測を述べていました。そのきっかけが、「いないいない・ばあ」にみられる反復強迫です。子供はもともとは母親不在という不快な経験に基づく遊びを飽くことなく何度も繰り返しました。だからこの場合の強迫は外からというよりも、むしろ、積極的に欲する子供の内面から来るものと考えられるわけです。これと同じように当事者の内面からやってくる何ものかが戦争神経症にもあるのではないかとフロイトは勘ぐっているのです。もし内側から刺激が襲ってくるのだとしたら、意識は外的刺激に対するような防御膜をもっていませんから、これに抗するのが非常に困難になります。この「内側からの刺激」ないし「内的な敵」とはなにか。

フロイトは「欲動Trieb」を問題にします。欲動は生命ある有機体に内在する衝動で、この生命体が外的な障害の力の影響で放棄せざるを得なかった以前の状態を回復しようとするものといっています。この衝動の本質が以前の状態を回復することにあるというと、精神分析とその周辺で胎内回帰願望という言わる、一般化すると、人間がそれまでにたどってきた発達の段階を逆に遡る「退行」現象の一種です。さらにフロイトは、これを人間のみならず、生命体すべてに内在する「欲動」にまで一般化します。「生命体がかつて捨て去り、またあらゆる発達の迂回路を通ってたちもどろうとする、かつての出発点の状態である。あらゆる生命体が内的な理由から死んで、無機物に帰るということを例外のない経験と仮定してよいなら、あらゆる生命体の目標は死だと言うことができる。そもそも遡れば、生命なきもののほうが生けるもの以前に存在したのである。」要するに「以前の状態」とは「無機物」のこと、そこへの回帰とは「死」だというわけです。いったい「無機物への回帰」を「欲動」だと言ってよいのか。

そもそも「欲動Trieb」という言葉は問題含みの概念です。もともとドイツ語には「Trieb」だけではなく「Instinkt」ということばもあるのです。ところがフロイトは、わざわざ「Trieb」の方を選んでいるのです。たしかに両者はよく似た概念です。しかしその微妙な差こそある意味ではフロイト理解にとって決定的になります。前から述べているように、他党フロイトが生物学や脳解剖学などの知識を使いながら論じていても、その言説はあくまでもフロイトの新たに打ち立てようとするメタサイコロジーを構成するものだということです。「Trieb」という言葉も例外ではなく、一見生物学的に見えようとも、これはあくまでSpekulationにもとづくメタサイコロジーの概念なのです。それだから単なる本能ではないのです。

Trieb」という言葉は動詞の「treiben」から来ています。この動詞の元々の意味は「あるものを特定の方向に駆り立てること」をいいます。さらに問題になるのし「treiben」を直接名詞化したものに「Treiben」と「Trieb」の二つの形があるということです。前者は文字通り「駆り立てること」です。わずかに表記の違った後者は、だかに意味もややずれていなければなりません。あえて前者に対応させて言えば「駆り立てるもの」と言うことになるでしょう。やや原因や原動力のニュアンスが加わる感じです。これに対して、適当な日本語が見当たらないため、翻訳するに様々な知恵が絞られて、最近では「欲動」という訳語が定着してきています。私としては便宜上これまでの翻訳者たちの苦労の結晶である「欲動」という訳語をつかいますが、その場合「駆り立てるもの」「駆り立てる力」と言う原義をつねに念頭に置いておいてもらいたいと思います。

2012年12月26日 (水)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(7)

第3講 反復強迫の射程

ここではまずフロイトがその究極概念に思いいたることになった具体的なきっかけを検討してみたいと思います。

第一次世界大戦に際して、フロイト自身はウィーンにいて戦地に出ることはなかったのですが、そのかわり医師ないしカウンセラーとして多くの帰還兵の面倒を見る立場にありました。なかでも、トラウマに襲われる神経症つまりノイローゼを得意分野とするフロイトの関心を引きつけたのは「戦争神経症」と呼ばれる心理傷害です。

それまでの精神分析理論によれば神経症というのは、基本的に「自我と自我によって斥けられた性的欲動との葛藤」から生まれる、言い換えれば「不首尾に終わった愛」または「満たされないリビドー」が原因となって神経症が発症するという立場でした。この型に当てはまるのが「転移神経症」と呼ばれるものです。とご戦争神経症をはじめとする外傷(トラウマ)性の神経症にはこのテーゼが簡単に当てはまらないのです。同時にリビドー論が他の病理にも一律に有効でないことを確認させられる機会でもありました。このことをフロイトは正直に認めながらも、普通の転移神経症と戦争神経症を含む外傷性神経症の両者を統一的に解釈できるような理論の必要性を訴えます。彼は言います。

「いずれの場合にも、自我の毀損に対する恐れがある─それは転移神経症にあってリビドーによる、外傷性神経症や戦争神経症にあっては外的暴力による。戦争神経症で恐れられているのは、純粋な外相神経症とは異なって転移神経症に近く、むしろ内的な敵だと言えるかもしれない。こういう統一的把握を妨げるような理論的困難は克服不可能なものではないように見える」

ここでフロイトはいったん戦争神経症を外傷性神経症と並べて、それらは「外的」な暴力に対する恐れに発すると言っておきながら、同時に戦争神経症には転移神経症と同じように「内的な敵」があると言っているのです。この「内的な敵」としての「暴力」こそ、フロイトがまもなく「死の欲動」として仮説的に想定するものに直結していくからです。要するに、この文章の意味こういうことにあります。苛烈な戦場での体験がその後外傷(トラウマ)となって患者をたびたびパニックに陥れるという事態を前にして、フロイトはそれまでの性愛(リビドー)を中心にした自分の欲動仮説に疑問を抱き始めました。というのも、それまでの仮説では、たとえば夢の本質は基本的に性愛を中心とする願望の充足ということになっていたのですが、そうだとすると、戦争神経症の患者たちが願望どころか忌避すべきはずの恐怖をわざわざ夢に見ることの説明がつかないからです。それとも人間の深層すなわち「内部」には、あえて恐怖をも願望してしまうような何か暗い性格が宿っているのか、フロイトは考え始めたということです。

その1年後、フロイトは『快原理の彼岸』で、「快原理」というのはそれまでの精神分析理論を支える中心仮説としてのリビドー論です。快・不快の量やそのやりとりが問題になるリビドー論がエコノミー論と重なっていることは見易いでしょうるただし、フロイトはこの頃には、性愛に基づく快原理をそのまま放任すると個体を危険に陥らせることになるということから、それを抑えるべく「現実原理」がはたらき、いわばその両者の拮抗関係において快・不快が生じるという立場を確立していました。いわゆる快原理と現実原理の二元論的立場です。問題はこうした仮説理論で外傷性神経症や戦争神経症において著しい「不快」が充分に説明できるかということです。

ここで、フロイトがとったのは迂回戦術です。この迂回路の最初に出てくるのが、「いないいない・ばあFort-Da」遊びです。ことはフロイトの個人的な体験に起因しています。あるときフロイトは生後一年半になる男の子と数週間ほど一緒の時を過ごす経験をします。この子は母親に可愛がられた行儀の良い子だったのですが、時々手に持ったおもちゃを放り投げるのでした。そして放り投げるたびに「オーオーオーオー」という声を発します。フロイトと母親はこれを「いないFort」の意味に解釈し、この声を伴った放り投げを一種の遊びとみなします。あるときこの個が糸巻を持って同じ遊びに興じます。この時は紐の端を持って糸巻だけを投げたので、その紐を引っ張ると、いったん消えた糸巻がまた姿を現わします。そしてそれが現われるたびに子供は「ばあDa」という声を発したというのです。こうしてフロイトこの一連の行為が「いないいない」と「ばあ」、すなわち消失と再来がセットになった遊びであることを確認します。フロイトはこの子供の「いないいない・ばあ」の遊びは母親が「いないいない」になる現実を自分なりに加工演出して受け入れる方法だったと解釈します。だとすると、母親がいなくなることはこの子にとって決して好ましいはずではないにもかかわらず、なぜこの子はそれを喜んで遊ぶのかという疑問です。フロイトはとりあえず二つの推理を行います。ひとつはこうです。この子供は初めは受動的な形で母親の不在という体験に見舞われたのであったが、やがて自ら能動の側に転じ、不快に満ちたその体験を遊びとして繰り返したのでしないかという推理です。この場合には背景に「占有欲動」が働いているのかもしれないと言います。もう一つの推理は、子供が物を投げることによって、自分を置き去りにした母親に対して抱く「復讐衝動」を表わしているかもしれないという推理です。これらはあくまで既成理論の範囲内で解釈可能な解答を試みたものです。

外傷神経症や戦争神経症とこれらのエピソードに共通するのは、当人にとって不快や苦痛であるはずの事柄を自ら進んで繰り返してしまうという事態です。自分の意識は望んでいないにもかかわらず、そうせざるを得ないように「強迫」が働いてしまうということです。「強迫」というのは精神病理で当人にとっても不合理と思われる観念や行動が支配的になって取り除けなくなってしまうことをいう言葉ですが、その取り除けなくなってしまった観念を「強迫観念」と呼びます。さらにその観念がもたらすのを「恐怖症」ないし「フォビー」と呼びます。フロイトが関心を向けるのは、この恐怖をもたらす強迫が当人の意志に反して反復されてしまうという事態です。いわゆることが「反復強迫」と呼ばれる症状に他なりません。この反復強迫はこれまでの快原理の枠に収まらない、すなわち「快原理の彼岸」あると仮説を立てますが、これは普通にある確かな実証に基づいて立てられる仮説とはやや違うものです。それは大胆な想像的解釈を駆使した「Spekulation」であり、勇気のいる決断だと言います。ここからフロイトの本論がスタートするところに来ました。

2012年12月25日 (火)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(6)

こうした眼をもってもう一度フロイトの「Spekulation」を見直してみると、それはフロイトなりのパラダイム・チェンジへの挑戦であったと言えるかもしれません。フロイトがここで脱却しようとしたのはどんな既成パラダイムだったのでしょう。簡単に言うと、それは「自我/意識中心主義」に基づいた人間精神の理解です。我々の精神が「我々の意識」なよって担われ、それを前提とした発想法とそれに基づく理論が哲学や心理学の分野で一種のパラダイムとして長らく機能していました。しかし、「無意識てきなもの」への注目とともに、フロイトはこの一見自明に見える前提そのものに懐疑の目を向けたのです。つまり彼の無意識的なものに向けての「Spekulation」とは、自我/意識中心的なパラダイムからの転換の試みでもあるのです。それがパラダイム・チェンジにも匹敵する大胆な挑戦であったことはだれもが認めることでしょう。

Spekulation」や仮説に基づいて精神分析というひとつの新しい「学」ないしは「科学」を打ち立てることがフロイトの目指したことでした。ただ単に具体黄な精神病理現象を記述するにとどまらず、その現象を超えて、その背後にあると推定されるメカニズムや力学構造を想像的に打ち立てること、この新パラダイムに向けての挑戦が、フロイトにおいて「メタサイコロジー」と呼ばれるものに他なりません。与えられた精神病理学的経験を超えてその原因やメカニズムを掴まえることが必須の課題でした。そもそも原因が突き止められない限り医者にとって治療も何も不可能だからです。ここで与えられた経験的事実というのは病者たちの言動と彼らに対する様々な治療実験の結果を意味します。そうした諸々の経験的事実からどのような着想を得て、それを学的検証に耐えられるような仮説にまで発展させていくか、フロイトの一生は専らそういう課題に向けて費やされたと言っていいでしょう。

このメタサイコロジーが「メタ」と呼ばれるのは、単に経験的事実を「超える」からだけではなくて、それまでの心理学が「意識」の領域に留まっていたのに対して、メタサイコロジーが意識の背後にそれとは別のメカニズムを備えた「無意識的なもの」という領域を仮定するからです。要するに「無意識的なもの」を想定する事自体がすでに「メタ」なのです。したがってその無意識的なものの核をなすという「欲動」もまた当然「メタ」レベルの概念ということになります。つまりそれらは決して経験的事実そのままのものではなく、あくまでそこから試みに想定された「仮説」だということです。

フロイトはこの「欲動」を核とする「無意識的なもの」へのアプローチとしてのメタサイコロジーを大きく三つの方向ないしパースペクティヴから構想しました。三つのパースペクティヴとは力動論、トポス論、エコノミー論です。

トポス論は、場所とか空間を意味するギリシャ語の「トポス」に由来します。フロイトがいうのは、様々な心的装置の区別とその配置関係のことです。トポス論とは、心的な装置を空間的場所的にイメージの助けを借りて規定しようとする観点です。その心的装置の区別とは、まず「意識」「前意識」「無意識的なもの」の三つの装置の区別を言うのですが、こり区別とはまた別の系列として「自我」「エス」「超自我」の組み合わせもあります。

力動論は、心理的現象を最終的には欲動に発しながら何らかの圧力を加えるような葛藤や力関係の結果として見る立場を表わす、ものです。基本的には、様々な症状や心理現象をトポス論にいわれる様々な心的装置の間に起こる葛藤や妥協の産物と見る立場といってもよいと思います。

エコノミー論は、心的な出来事は、増減可能でかつ他のエネルギーと対等になりうるような測定可能なエネルギー(欲動エネルギー)の流通や分配のなかで起こるという仮説すべてのことがこの言葉で言い表される。ちょうど経済が金銭のやりくりであるとするなら、ここでは何らかの「心的エネルギー」のやりくりややり取りが問題になります。このエネルギーは増減可能で測定可能、しかも、流通や分配もされるというわけですから、その意味で確かに経済現象に似ています。

こうして見てくると、これら三つのパースペクティヴに共通するものがあることが分かります。それはいずれにおいても心的な「装置」と心的な「エネルギー」が問題になっているということです。トポス論では主に「装置」とその配置関係が、また力動論とエコノミー論ではその装置内または装置間での「エネルギー」の運動および備給関係が探索されるというかたちになっています。その意味では、フロイトのメタサイコロジーの発想は基本的に「形而上学」というよりも、むしろ一種の機械論─それも非常に抽象化されたかたちでの─に近いと言ってよいでしょう。

2012年12月24日 (月)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(5)

第2講 想像的解釈とメタサイコロジー

そもそもフロイトがこのような語りえないものに対してどのようにアプローチしようとしたのか、その基本的な態度のようなものを明らかにしておきたいと思います。

語りえないものへのアプローチは暗闇の手さぐりに似ています。こういう状況においてわれわれは全く無力なのでしょうか。無力のようでいて、確かに行われていることがいくつかあります。ひとつは我々が「試みに」自分の身体を動かしてみるということ、もう一つはその試みの結果として得られる「しっかりとした物」を支えなり足場にするということです。しかもこの暫定的に与えられた「しっかりした物」に対して我々はそれまでの知見を総動員して「仮の」表象なりイメージを作り、とりあえずそれを信じて次の動きに移るということが起こります。この仮のイメージはまだ確かめられたわけではありませんから、けっして具体的ではありえません。それはただ手触り足触りで具体的なだけで、相変わらず漠然としています。あえて言えばそれは多かれ少なかれ抽象的であらざるを得ないわけです。抽象的であるけれども、どこか安定性のあるもの、それが頼りとなります。我々の行うことはこれで終わりません。次にこれらの都度出会った比較的安定した物どうしを結び付けて、そこに一種の配置関係を思い浮かべようと努力します。そしてその暗闇をなす空間全体がおおよそどのよう構造になっているか、自分がどこに立っているかを、たとえ間違っていても、想い描いてみることになるでしょう。

以上、一般的な例に即して見たことは、そのまま「無意識的なもの」という「暗闇」の探求にも妥当します。フロイトは学問というものについて、「学」とはドイツ語のWissenschaftです。これは文字通りには「知の集積体」を表わす言葉ですから、あえて言えば「学」とは「一定の形式やルールを備えた知の集積体」ということにでもなるのでしょうか。いずれにせよ、この学が扱う知は経験事実そのものではありません。本質的に語りえない暗闇としての事実そのものをターゲットにして造り出された抽象的で不確かな観念とそれを介して抽出される限りでの「事実」です。この観念はさしずめ暗闇の中でおずおずと差し出される手足に似ています。それが暗闇の中にある本体に到達できるという保証はまったくないのです。それは自ずと試行錯誤とならざるを得ません。だからその成果は、いつでも変更可能な「取り決め」であることに甘んじなければならないわけです。フロイトにとってそういう試行錯誤の真っただ中にあるのが、他ならぬ「欲動」という観念でした。その意味で、我々が、これから読もうとしているテクスト『快原理の彼岸』には初めから終わりまで試行錯誤や自己吟味の言葉が何度も繰り返されることになります。フロイトは、さらに自己否定的な言辞も書いています。出から読者の中には初めからこのような態度で書かれたものを全くの戯言と見なす人もあるかもしれません。にもかかわらず私には、まさにこういう混乱を招くほどの問題の書にこそフロイトという天才的な人物がなりふりかまわずその知性をぎりぎりのところまで突き詰めてみた姿が見えてきて、逆に大いに好奇心を煽られるのです。

ここで使われている用語として「思弁」という言葉について少し触れておくことにしましょう。ドイツ語の「Spekulation」には投機という意味もあり、思弁と投機では両者の類縁性がよく見えてきません。「Spekulation」はラテン語のspeculatioに由来する語で、もともと「窺い探ること」すなわち「偵察」と「洞察」の両義を意味する言葉です。そのニュアンスを一般化して表現するなら、与えられた経験を超えて考察をめぐらすこととでもなるでしょうか。探偵は数少ない証拠物件(与えられた経験)から様々な推理を立て、捜査を行います。こうした原義から投資家や相場師が特定の限られたデータをもとに、それを超えた推理を立て、その思惑(期待的推理)のもとに投資を行います。その思惑は多分に主観的な期待のかかった推理ですから、当然リスクが伴うことにもなります。これが投機です。哲学の分野の思弁もこれによく似ています。「Spekulation」とはあくまで与えられた経験的事実を超えて思索をめぐらすことであり、一般的には理性や論理(だけ)に基づいて考察をめぐらすというような意味で使われています。フロイトのいう「Spekulation」もこういう原義から離れているわけではありません。彼の直面している対象はあくまで「語りえないもの」でした。それは自分の目前なり、内部に直接経験される事実です。ただ、それを語る言葉が見つからないのです。言葉が見つからない以上、それがどのような性格をもっているのか、どのような構造になっているのかを明らかにすることはできません。そこで「経験的事実を超えた推理(思惑)」としての「Spekulation」が一役買うことになります。それは経験的事実にもとづくものであるとはいえ、一種の想像を伴った解釈のようにものですから、その推理が高ずるにたがって、経験的事実とのつながりが不確かになり、ときには空想にも似た推理にまで進んでしまうがあり得ます。『快原則の彼岸』というテクストはその「Spekulation」を思う存分開放してみた、いわば思考実験でもあるのです。しかし、「Spekulation」といっても、フロイトの場合はあくまでひとつの「学」を打ち立てるための基礎概念を求めるという意図のもとに行われるものであることを忘れるわけにはいきません。つまり、単なる個人的な思いつきのレベルにとどまっていてはならないのです。

この「Spekulation」に関連する言葉として「仮説 Hypothese」という言葉はギリシャ語の「ヒュポテシス」に由来します。「ヒョポテシス」とは文字通りには「下に位置すること」を意味しますか、それが土台となって、その上にさらに積み上げることができるものというニュアンスを伴っています。この仮説も単なる一回的な思いつきのことではなく、それを基にしてさらに考えを発展させることができるようなベースとなる考えを意味しています。科学において仮説は不可欠です。今日の先端科学の状況を見れば、仮説を前提としない実験はあり得ませんし、テーマや対象が深められれば深められるほど観察もまた仮説や装置に依存してきます。そういう意味では科学の世界において仮説は絶え間なく作り続けられていると言ってよいでしょう。その膨大な仮説群の中から一定の信憑性を獲得した物だけが、発見や公理となって、ときには世を画するグランドセオリーとなって新しい研究分野や学科を創出することもあり得るでしょう。いわゆる「パラダイム」の成立です。

2012年12月23日 (日)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(4)

つづいて「無意識的なもの」という概念に繋がる哲学者として、どうしても挙げておかなければならないのがショーペンハウアーです。このショーペンハウアー哲学には我々の関心からして無視できない観点がいくつかあります。中でも注目すべきは、その哲学の中心をなす「意志」の概念でしょう。よく知られているように、カントは我々の感性的直観を通して得られる現象の世界しか認識することはできず、その背後にある「物自体」は認識できないと考えました。言い換えると、それは主観によって構成的に認識された世界のみが現実的だということですショーペンハウアーも基本的にはこの認識論の構図を受け入れ、世界は直接的な物自体の世界ではなく、あくまで「表象/観念」の世界だと考えます。ではしんし、そもそもその表象ひいては認識という働きはどこから出て来るのか。こう問うことによってショーペンハウアーはカントから分かれます。表象や認識が可能になるのは、ほかならぬわれわれの内部に何かが働いているからです。それも直接に。

「われわれは単に認識する主観ではなく、他方でまた自ら認識する本質に属している、つまり自ら物自体なのである。したがってわれわれには、外からは迫ることのできない、かの事物の自らに固有な内的な本質には、内なる道が開かれている。」

この「内なる道」は、他の諸々の表象とは違って、むしろ認識者の主観内部に直接感じ取られるものであり、その意味で「物自体」だとショーペンハウアーはいうのです。物自体はカントでは対象の背後に想定されていたのですが、ショーペンハウアーでは逆に主観の奥に想定されていることが分かります。そしてこの対象の側から主観の側にひっくり返された物自体としての通路こそがショーペンハウアーのいう「意志」にほかなりません。

ショーペンハウアーの狙っているのは、表象され、ある意味で対象化されてしまった現象ではなく、あくまでそれを生み出す主体の内奥からでてくる衝動のようなものです。ショーペンハウアーの場合、この「意志優先」の原則は人間のみならず、あらゆる有機体から無機物にまでおよびます。つまりすべての存在者の根底に物自体としての意志がはたらいているというわけです。これはこれまで見てきたロマンティクの発想とも通じます。我々にとっての問題は、こうしたあまねく広がる意志を中心に置いた世界観ないし宇宙観と無意識的なものとのつながりです。ここではショーペンハウアーとフロイトの類似性を事細かに論じたツェントナーの著作『忘却への逃走』の記述を借りることにします。ツェントナーはショーペンハウアーの「意志」とフロイトの「Es」すなわち無意識的なものとを比較して、そこに26項目におよぶ共通点を見出すと共に、ショーペンハウアーの「知性」とフロイトの「自我」との間にも15項目にわたって共通点を指摘しているのです。ここでは、前者の共通点を要約して示します。

第一は、ともに我々の精神の内奥にあって、その精神を根源から成り立たせている一時的な物だということです。第二は、それが「欲動 Trieb」のダイナミズムにおいてとらえられているということ。第三は、因果律や論理さらには時間から自由な存在であるということ。第四は、ともに意識によってはとらえることができず、もっぱら象徴や比喩を介してアプローチされること。そして第五には、その内部では快・不快の原理が働いており、とりわけ性的欲動に焦点が当てられていること。まだこのほかにも両者がよく似た比喩をつかっていることとか、新生児への関心が強いとか、いろいろ挙げられていますが、ツェントナーの著書の要点はこの五点に尽きるでしょう。私自身はこれに第六点として、両者が死の観念およびペシミズムに強い関心を示していることを付け加えておきたいと思います。

このような中で「無意識的なもの」という言葉が単なる否定形の形容詞から、実体とまでは言わないまでも、なにかそれに匹敵する積極的な何ものかを言い表す概念として定着し始めました。社会的にそういう時流が生まれていたと言えます。

この時流という意味で、「無意識」という概念と並んで、というかこれに連動して、この時期に注目される特別な言葉がもう一つあります。「Es」という言葉です。いうまでもなくドイツ語の「それ」を表わす代名詞「es」のことですが、ちょうど「Unbewuβt」という否定の形容詞が概念の時熟にともなって「das Unbewuβte 」という大文字の名詞に変じたように、ここでも小文字の「es」が大文字の「Es」に変じていることに注意が向けられなければなりません。

先ず出発点となる三人称中性の代名詞「es」ですが、既述の特定の事柄を「それ」として直接指示する、いわゆる指示代名詞です。しかし、問題となるのはこの指示機能ではありません。むしろ非人称代名詞として使われる場合です。雨が降ることをドイツ語では「Es regnet.」と表現します。これは英語の「it」と同じ非人称の用法で、「es」自体には特定の意味はありません。この「それ」は何であるかはっきりしない、いわば匿名の状態や雰囲気のようなものです。さらにドイツ語独特の表現に「es gibt」というのがあります。文字通りには「それが与える」なのですが、ひれは英語の「there is」やフランス語の「il y a」に当たる表現で、ただ「ある」を意味します。問題はこうした言い回しに出てくる「es」を文字通りに「何ものかとしてのそれ」と理解したら、どうなるかというところから生じてきます。あくまで不特定で、「これ」とはっきり指示できないとはいえ、それ自体何らかの力や能力をそなえた「それ」としての何ものかが「雨を降らせ」たり「与え」たりする、と考えたらどうなるかということです。この「それ」を神と同一視すれば、そこに神話や宗教が生じます。しかし「神が死んだ」19世紀の思想家たちがやったのは、これを「神」の代名詞やメタファーとすることなく、あくまで不定のままでありながら、なおかつ能動的なはたらきをする特別な存在や力を言い表わす言葉として解釈する事でした。

ニーチェは近代哲学の前提として自明視される「自我Ich」に懐疑的でした。だからデカルトの「我考える、ゆえに我あり」にも根本的に懐疑の目を向けます。その意味で、意志を「個人/個体」に認めようとしたショーペンハウアーにさえも不満でした。だから「私が考える」に代わる「それが考える」は、今日風に表現するなら、近代的思惟の桎梏ともいうべき自我中心主義を一歩相対化し脱構築するものであったのですが、ニーチェの目にはそれさえもまだ言い過ぎと映ったのでした。このニーチェの「es」に対するスタンス、それが今まで見てきた一連の「無意識的なもの」を哲学的に先鋭化したものです。「それ」はもはや言葉では表現しえないものでありながら、にもかかわらず人間の思惟の担い手ないし、そういってよければ真の「主体」だという発想がここには如実に読み取れます。言い換えれば「私が考える」のではなく、私という場を借りて、「それ」としか言いようのないものが考える、という立場です。だから「私」とはあくまで「Es」という言葉で辛うじて暗示される、匿名の能動主体あるいは意志のひとつの現れにすぎないのです。ある意味では19世紀末におけるこの「Es」をめぐる言説の流布は「無意識的なもの」という概念の時熟とパラレルな関係にあったと言っていいでしょう。

このように「無意識的なもの」およびそれに連動する「Es」という概念を中心に19世紀ドイツの思想潮流を通覧してきたわけですが、この二つの概念の特徴は何と言っても、その規定不可能性ないし表現不可能性にありました。つまりそれらは「無意識的なものdas Unbewuβte」というように、否定の接頭語「un-」をつかったネガティヴな表現によってしか言い表し得ないものか、または「Es」のように、もっぱら漠然と暗示的に表現する以外にないものでした。それが20世紀に向かって次第にポジティヴな姿をとって立ち現われてくる様子が見えたと思います。それと同時にフロイトの格闘も、まさにこうした大きなうねりの中から出てきたものです。精神分析というのは、フロイトという人物の単なる個人的な思いつきでもなければ、突然どこからともなく降って湧いた奇想でもなく、むしろドイツ語圏を中心とする大きな思想潮流がたまたまフロイトという天才的な人物においてひとつの表現を得たものだということが言えるのです。

2012年12月22日 (土)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(3)

そこで次に、19世紀の哲学がこれにどのように対応したのかを少し振り返ってみたいと思います。哲学の分野で、このように思潮に大きな影響を与えたのが、シェリング、それも独特の自然哲学を発展させた初期のシェリングです。この時期のシェリングは、スピノザが「所産的自然」から区別して強調した「能産的自然」、つまり自ら生み出し、創造する自然の考えをさらにひとつの体系にまで発展させようとしました。シェリングの自然哲学の要点を一言で言うと、無機物をも含めた世界の全体はひとつの動的調和のとれた有機体であり、その有機的自然の全体にはそれに内在する根源的で統一的な何かが働いているという考えです。この何かが「能産的自然」の核に当たります。ヨーロッパ哲学においては、世界ないしは宇宙を造り出し動かしている霊的ないし心的な存在という考えは、すでにヘラクレイトスやプラトンあたりから知られていますが、中世にキリスト教の教壇哲学が広がって、世界の外または上から世界を創造し支配する超越的な人格神の考えが主流になると、「世界霊」に類する考えは異端として排除されていきました。それが近代における自然科学の飛躍的な発展とともに再び注目されるようになります。そこでなんといっても大きな影響な影響を与えたのはスピノザでした。スピノザの「能産的自然」というのは、一種の汎神論で、いわば神の代理でもあるのですが、この考え方が革命的であったのは、創造主を世界ないし自然の外に置かないで、あくまでそれらに内在するものとして見るという立場です。言い換えれば、自然は自然自体に内在する目的性や法則性に従って動いており、それが結果として神の創造摂理と一致しているという考えに他なりません。この考えをさらに推し進めれば、自然科学は神学的偏見から離れて、あくまで自然それ自体に即して、その法則を解明してよいということになるわけです。シェリングもまたこうしたスピノザ以降の自然科学の発展を知っています。この発展方向は必然的にその神的性格を切り捨てていくことになりました。これに対してシェリング及びその影響下にあった当時のドイツのインテリ、とくにロマンティクの文学者たちが向かったのは、スピノザの「能産的自然」を踏襲しながら、あくまでそのなかにあった神的要素を保ち、それを現実の自然科学の進展と調和させる道といっていいと思います。もはや人格を備えた超越的な神が自然に介入してくるという神話的発想は意味をなしません。自然はそれ自体で自らの秩序を造り上げているのです。だからシェリングにとって体系とは「自らを担い、それ自体で完結し、自らの運動と連関の根拠を自らの外部に前提することのない全体」のことです。しかし、それはもはや人格を持たなくても、どこか創造主に相通じていなければなりません。これがシェリングにおいて再び「世界霊」という埋もれていた考えが復活する理由です。世界は「条件づけられることのない」匿名の「霊」ないし「心」によって造られ。また秩序づけられており、それはまた同時にその霊によって不断に再生産され続ける有機的な運動体でもあるわけです。「anima」の概念やカールスの「心理」がこうした考えと共鳴していることは容易に察せられるでしょう。こうした文脈でシェリングが『超越論的観念論の体系』において、根源的な自然の活動を念頭に置きながら「無意識的なもの」という言葉を使ったのも、ある意味必然だったといえるでしょう。ここでは無意識的な活動は「無形の」「自由に動く」「欲動Trieb」であり、それは知的直観によってのみ捉えられるものとされるのに対して、意識的な活動の方は「制止」や「抑圧」の結果とされるのですが、このあたり少なくとも表面的な言葉づかいはフロイトとたいへんよく似ていて驚かされます。

2012年12月21日 (金)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(2)

第1講 無意識の時代

フロイトを考える時、接頭語「un-」のついた「語りえないもの」、どうしてもこういう否定的で不明確な存在のことをぬきに語ることができないのですが、これにはフロイトを取り巻く歴史的な事情も関わっています。それは学問的及び思想史的な背景です。まずは、メスメルの磁気仮説から催眠療法が広まり、フランスの催眠療法を経て徐々に理論的に洗練され、それがフロイトに影響を与えたと言われています。

フロイトの精神分析の背景となったのは、催眠療法という特殊な分野を超えた、もっと広い分野にわたる思想的背景ないし時代精神のようなものが大きく影を落としているからです。それが「ドイツ・ロマンティック」という思潮です。1800年頃からドイツ語圏を中心に広がりを見せ、19世紀を通してひとつの時代精神を形成したと言ってよい、この運動が文学、絵画、音楽といった芸術の分野を活動の舞台にしたことはよく知られている。ロマンティクの起源は、カントに象徴される近代的な啓蒙合理主義に対する反発から始まったと言われています。多士済々な文学者や哲学者を輩出したロマンティクの思想内容を簡単に要約することはおよそ不可能ですが、その一つのメルクマールとして独特の自然観があります。ロマンティクでは自然をたんなる数量や法則に還元してしまうことが嫌われ、むしろその「語りえない」神秘的側面が強調されます。簡単に言うと、自然の本質は実験と観察に基づく計量によってではなく、直観によってアプローチできるという立場です。こうした機運のなかでフリードリッヒやルンゲなどを代表とする絵画の流れが出てきます。例えば、フリードリッヒの絵画が示しているように、風景すなわち自然は個々の人間を超えた崇高な存在です。それを表現するため、フリードリッヒは峨々たる山や荒涼とした海辺、あるいは月光の降り注ぐ夜景を描いたりしました。やや誇張していえば、明るく日の照る表の俗世界を背後から支配している厳かで神秘的な夜の世界とでも形容したらよいのでしょぅか。

このフリードリッヒと非常に親しい関係にあったカール・グスタフ・カールスという人物が重要で、ドレスデンで産婦人科医、解剖医として知られていましたが、病理学や心理学の研究も残し、メスメリズムを積極的に取り入れた人です。彼において初めて「Un-Bewuβtsein(無-意識)」という概念のもとに一種の医学的生理学的説明の試みが為されたということです。基本的に、カールスにとって「心Seele」とは無意識的な段階から意識的な段階へと発展的に自己形成していく生のプロセスだということです。その意味で「無意識」はいわばそういうプロセスの出発点であり、生そのもののベースでもあります。カールスにとって「無意識」とは細胞のレベルから始まり、胎児の段階を経て、成体にまで有機体が発達していく過程に見られる一種の生気的な働きのことです。この過程の中から次第に意識が形成されてくるわけですが、当然その意識の根底にもつねに無意識が働いていると考えるわけです。カールスは、同時にこの無意識を過剰に神秘化してしまうことにも反対します。

こうしたカールスの発想と並行するように進行していったのが、通称「ロマンティク医学」と呼ばれる流れです。とくにゴットヒルフ・シューベルトはフロイトの『夢解釈』に先んじた『夢の象徴学』という著作で知られた人です。我々の関心にとってより興味深いのは『自然科学の夜の面』という著作です。この著作は宇宙全体をひとつの統一的な生命体とみる立場に立って、天体から無機物、生物に至るあらゆる存在の「有機的」性質とそり構造を説明しようとするもので、メスメリズムの動物磁気や催眠術が強調されています。ここで興味深いのは、その着想ないし発想の独創性です。催眠状態と死の類縁性に目が向けられていることです。シューベルトは次のような奇想天外な推論も発表させています。有機体が死ぬとその死体から燐が出て発光することがありますが、シューベルトは、これは宇宙のいたるところに「燃える本質」があって、それは死体において可視化されるだけではなくて、「電気現象からさらに深く有機体における性の合一現象にまで」見られることだと言います。だから死と性はある意味で同一の性質を持った現象になるわけです。そういう奇妙な説明方法を駆使しながらとらえようとしている死と生殖、いいかえればタナトスとエロースの同一視というテーマは、後に見るように、簡単に笑って済ますことのできない問題を孕んでいます。「燃える本質が部分的、一時的に解放される」性とは生の中に「部分的、一時的に侵入する死」のことであり、それはまた「人間の自然がより美しい故郷へ向かって錨を揚げる瞬間、新たな存在形態の翼が動き始める瞬間」であると言われる時もそのポエティクな表現の背後に何が捉えられているか、それはたしかに一考に値する事柄だと言わなければなりません。ここにメスメリズムないしそれら類する発想がいかに広く流布していたかが分かると思います。

そのなかで中心的な役割を果たしていた動物磁気という概念を考え直してみましょう。問題になるのはこのなかの「animal」という形容詞です。この言葉の起源となるラテン語の「anima」には「空気」「風」「息」「生命」「活力」「精神」といった意味があり、漢字「気」の意味の広がりに似ています。さらにもう一つ付け加えておかねばならないのは、ヨーロッパ語の流れにはもうひとつこれと並行する類似の言葉があるということです。ギリシャ語の「Ψχ」に起源をもつドイツ語の「Psyche」や英語の「Psychology」などです。もとは「息」の意味ですが、それが今日ではもっぱら「心」とか「心理」の意味で使われているわけです。ここで話を戻すと、ここで言われる「animal」には「空気」「風」「息」「生命」「生気」「活力」「精神」から、さらには「心」「心理」のニュアンスが入っているということです。動物という概念に関していうなら、その中にこのanimaが吹き込まれているから動物なのです。メスメリズムやロマンティクを支配していたのはそういう発想法です。この様々な意味を含む「anima」は、そもそもその実体をつかもうとしても、容易にそれができない存在です。言い換えれば、それは一種の「語りえないもの」です。

2012年12月20日 (木)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(1)

我々の周りには死が氾濫し日常化しています。私個人に限ってみても、周囲に沢山の死を見てきました。そして今では自分もまたやがて彼らと同じように何れは死んでいく身であることを思い知らされています。無論こうしたことはなにも私だけに限ったことではありません。それは例外なくだれの身にも降り懸かること、避けられないことです。だからこそ人は問い続けてきたのです、死とは何かと。

しかし皮肉なことに、その事態の真っただ中に立つ当事者である死者はそれを問うことができません。だから人は生きる限りにおいて死を問うほかはありません。しかし生が死を問うとはひとつのパラドックス以外の何ものでもありません。死は生にとってどうにも手の届かぬ「彼岸」だからです。それはそもそも生の側からは語りえないものと言うことができるかもしれません。こうして死は我々の日常において不断に遭遇する近しい出来事でありながら、基本的に「語り得ぬもの」として遠ざけられ、忘れられていくことになります。しかし私にはこの自明の事実が時に疑問になることがあります。本当に死は語り得ないものなのだろうか、あるいは我々はこの生死のパラドックスに耐えて、一体どこまでそれを語る努力をしてきたのだろうかと。

語りえぬものへの挑戦を歴史的にもっとも象徴しているのは「atom」という言葉でしょう。日本語では「原子」と翻訳され、輸入されているわけですが、これはもともと否定の接頭語「」と動詞の「τομεω」からなるギリシャ語の「τομεω」に起源を持ち、「(いれ以上)分割されないもの」ほどの意味で使われていた言葉です。あえて語源に即して翻訳するなら、「不分子」とでもなるところでしょうか。これを特殊な哲学用語としてつかったのがイオニアの自然哲学者デモクリトスであるとは、哲学史の教科書などでもよく触れられていることです。注意したいのはこの言葉の一部をなす否定の接頭語「」です。これは後のヨーロッパ語、たとえばラテン語の「in」やドイツ語の「un」などに転換されて引き継がれていくわけですが、「atom」ではそのままギリシャ語の原形が残ったことにナリス。いずれにせよ、ヨーロッパ語の中にはこのような接頭語を持つ語が少なくありません。こうした否定の接頭語を冠した諸概念のなかに、その後ドラスィックにその意味内容を獲得し、さらにそれを充実、変転させていったものが少なくないという事実です。周知のように「atom」すなわち「原子」は、今日ではもはや「分割不可能なもの」ではありません。それどころか、20世紀の物理学の劇的な展開が示したように、それは次から次へと分割されつづけ、ついには「物質」としての「実体性」さえもが疑問に付されところまで進んだのでした。つまり、初めはたんに「分割されないもの」とネガティヴにしか表現できなかった概念が、その後の知的挑戦によってそのネガをポシに変えられた典型例がここに見られるのです。

この「atom」によく似た言葉のひとつに「individual」と言う言葉があります。「atom」が物理学を中心とする分野でその内容の先鋭化と、その結果としてのネガからポジへの変転を経験したしたのだとすると、「individual」の方は、どちららかという社会科学、生物学あるいは哲学といった分野でその進展を見たのでした。興味深いのは、この「分割されないもの」という原義をもった「原子」と「個人/個体」がはからずも近代という時代になって並行してその概念の進展を見たということです。類似の表現構造をもつ二つの言葉が、かたや物質ないし自然のベースとして、かたや人間ないし社会のベースとして、いわばグランドセオリーの基本概念としてつかわれていったこと、そこに「近代的パラダイム」と呼ばれるものの思想的ないし哲学的特徴があったと言ってもいいでしょう。言い換えるなら、原資と言う表象を要素とする機械論的な思考モデルがそのパラダイムの内容を成していると言ってもいいかもしれません。

思想や理論歴史をこういった観点から振り返ってみた時、無視して通り過ごすことのできない際立った例がまだひとつあります。それが本書のテーマとなるフロイトの切り開いた精神分析という分野です。精神分析は基本的には「Bewuβtsein 意識」と「das Unbewuβte 無意識的なもの」を区別することに始まります。注意してほしいのは、フロイトは「意識 Bewuβtsein」の対概念にけっして「Unbewuβtsein」という表記を当てていないということです。日本語で無造作に「無意識」と訳されてしまうことが多いのですが、原語はあくまでun-という否定を意味する接頭語のついた形容詞形「Unbewuβt」を名詞化した「das Unbewuβte 」、つまり「意識されないもの」です。この表記法からも推察できるように、フロイトは当初これを意識のネガとして想定し、そこから自己の理論構成を開始したということを忘れてはなりません。一言で言ってしまえば、フロイトという人はつねにネガティヴにしか表記できいものに関心を示し、そこにポジとしての分析や理論をうちたてようと格闘し続けた人と言えると思います。本書は基本的にはこのフロイトの精神分析の中心概念「無意識的なもの」をテーマにするのですが、その最終ターゲットはこの「無意識的なもの」をもう一歩先に進めたところに出てきます。それは、それ自体すでにポジティヴには表記不可能な「無意識的なもの」の、そのまたない奥に位置するとされる「死の欲動 Todestrieb」と呼ばれる概念です。死というのは一般に生の反対概念として受け取られ、生が消失する事態として理解されています。つまりそれはあくまで生というポジに対するネガとして受け取られているということです。ところがフロイトはこれに「欲動 Trieb」という語を結びつけました。こういう語が結び付けられると、死はもはや、それ自体ではポジティヴな意味を持つことのない単なる生の裏返し(ネガ)というわけにはいきません。生ではなく、死そのものが「欲動する」というのですから。そこには「欲動」する積極的な何かが認められるのですから、これはネガからポジへの反転の一歩だと言ってよいでしょう。フロイト、とくに後期フロイトの異様性ないし特異性はまさにここにあります。

2012年12月18日 (火)

河井徳治「スピノザ『エチカ』」(4)

第2章 自然とその認識─『エチカ』第二部

身体はデカルトの場合と同じように物体の法則に従い、他の物体と区別されない。だが、スピノザの場合は有機的個体とも見られている。延長属性の下に一定の仕方でと限定された、神の本質を表現するのが物体であり身体である。物体は、神の本質を一定の仕方で表現することで、その内在を証する。また、ものの本質という定義には普遍性とともに「このもの」「あのもの」という個別性が属する。円の本質は円一般とされるが、スピノザは目の前の一つの円を消し去ってしまえばなくなるようなものも円の本質に属するという。しかし、それを産み出す個々の形相的本質は神の属性に在り、永遠である。だから神の中にある起成因として在る形相的本質が取り除かれることはあり得ない。

 

この著作は、スピノザのエチカに書かれている概念を逐一丁寧に解説してくれている。当初は、これを勉強しようと読み始めた。しかし、重要な概念なのだろうけれど、それを並列して単に取り上げ、エチカの著述の順番に従って解説していく参考書のようなものだった。それぞれの概念の説明は丁寧だが、それが他の概念とどういう関係にあって、全体としてどうなっているのかという視点が感じられないので、読んでいてイライラしてきた。まるで受験参考書のような著述だったので、つまらなくなったので、このへんで放り出そうと思う。研究者や勉強しようという人、あるいはこれを副読本として『エチカ』を読む人には向いていると思うが、この本単独での読書の対象としてはどうか。

2012年12月17日 (月)

河井徳治「スピノザ『エチカ』」(3)

「有限であるということは実はある本性の存在の部分的否定であり、無限であるということはその絶対的肯定であるから、実体たるものはすべて無限でなければならないことが帰結する」。まとめて言えば、知性的にのみ捉えることができる無限性が第一の規定であり、表象的には有限でありながら、知性的にその原因から見ると無限となる無限性が第二規定であり、実体から分離され、数で表現しようとしても無際限としてしか現れない表象上の無限性が第三規定ということになる。だから第二規定は第一規定と第三規定を両義的に含んでいる訳だ。

無限と有限の対比は存在の絶対的肯定と部分的否定の対比と言うことになる。部分的否定は、翻せば部分的肯定である。だから無限なるものが自己展開して、有限な部分に内在していると言ってもかまわない。「同じ本性を有する他のものによって限界づけられうるものは、その類において有限である」しかし、想念と物体の様に異なる類に属すれば、相互に限定し合うことはない。類が異なれば相互の限定はないのである。だから相互に限定し合うということは、同じ一つの類に可分性と多様性を許容し個別化させることになり、それが「有限化」を指すわけだ。しかし想念や物体の持つ本性が無限なるものであれば、一つの円弧に無限が宿るために、有限化した想念や物体それぞれに、その本性に当たる無限性が含まれていても問題はない。部分的に肯定されているからである。さらに、有限なるものについて、本質の原因と存在の原因が別だという考え方提起される。そうすると個々の様態では本質の原因が同じだとしても存在の原因が異なるということが、無限なるものの内在と共に有限なるものの著しい特徴となる。

ところが存在の原因がそのものの本性ないしは定義のうちに含まれて入れば話は別である。「すべて在るものはそれ自身において在るか、それとも他のものにおいて在るかである」続けてスピノザは言う「他によって概念されることができないものは、自らによって概念されねばならない」前者が存在の原因に関して、後者は本質の原因に関して言われている。

自己原因というのは、前者の「それ自身のうちに在り」、後者の「それ自身によって概念されねばならない」ものの存在根拠が問われているのだ。そして、それ自身の存在だと定義されるのである。アリストテレスで言えば「形相の形相」の存在、究極目的の存在の肯定である。スピノザでは一切の起成因となる原因である。起成因の起成因の存在である。自己原因は神でなければならない、スビノザでは、起成因は永遠の相の下での存在論上の根拠を指し、論理的な前提と帰結の関係に平行する概念なのである。だからこの起成因は必然的な結果を導く原因ともなる。

実体と様態の関係もこうした存在論的かつ認識論的な因果関係として成り立っているのである。自己原因の定義を受け継いだ実体と、それに依存する様態がそれぞれ次のように定義される。「実体とは、それ自身において在りかつそれ自身によって概念されるもの、言い換えればその概念が形成されるべき他のものを必要としないもの、と私は知解する」「様態とは、実体の変状、すなわち他のものにおいて在りかつ他のものによって概念されるもの、と私は知解する。」ところで実体と様態との関係は、在るものはなんであれ、様態でなければ実体、実体でなければ様態というように二つの在り方のいずれかとなる。「互いに共通点を持たないものはまた互いに他から知解されることができない。すなわち一方の概念は他方の概念を含まない」もしそうであれば物体と想念の様に互いに限定されないものも、異なる類に属するから、相互に因果関係は成立しないはずだ。これとパラレルに言う「真の観念はその対象と一致しなければならぬ」ここでスピノザが言っているのは観念と観念されたものの関係である。スピノザは実在論に立つから一致しなければならない要請が必要なのだ。実在論として真理が成り立つには、異質なものの同一性が保証されなければならない。だからこそこの同一性は存在論的に要請されねばならない。

また、スピノザは属性を実体の本質的構成要素として認める。つまり鉛筆に芯がなければ鉛筆ではないように本質的な属性を欠けば実体は成り立たない属性を認識する能力は知性であるが、実体の本質を構成するのは知性ではない。スピノザの場合、実体には属性を構成する本性がある。実体つまり存在性とはそもそもそうした構成的力能のことだ。そうした本性としての力能の作用ないし働きが、属性として具体化されるとは考えられないか。知性の働きはそのことを知覚する。

2012年12月16日 (日)

河井徳治「スピノザ『エチカ』」(2)

第1章 在ることの始源は神という自然─『エチカ』第一部

無限という概念がないと『エチカ』は読み取れないと言ってよい。スピノザは無限なるものこそ真実在という形而上学樹立に向かったのである。無限が有限よりも積極的に捉えられているのだ。デカルトは物体は有限でつねに分割可能であると考えた。創造主である神は物体ではなく被造物である自然とはその点で峻別された。しかしデカルトは無限と有限の関係を類比の関係で橋渡しできると考える。

ところがスピノザは、有限性と無限性は根本的に異なるから、絶対に橋渡しできないと見た。スピノザの主張は「無限なるもの」、数には表わせない「無限量」が存在するという積極的な肯定であり、同時にその主張は延長するものに無限性を肯定するものになる。延長実体は本来無限であるはずだ、物体は有限化した在り方だ、と。スピノザからすれば無限な物体的実体が存在するということになる。無限なるものの存在を積極的に考えることがなぜ困難であるかと言えば、我々の感覚の対象として知覚する確かさに頼り、知的な本質の洞察よりもそれを優先させるからに他ならない。無限量は知性で捉える他はないのである。

スピノザは無限性を三つに分けている。「或るものは、その本性上無限であり、いかにしても有限とは考えられない」。これを仮に無限性の第一規定とすると、第二規定に当たるものとして、「それに対して、或るものは、それが依存する原因の力によって無限であるが、しかし抽象的に概念するならば、部分に分割され、かつ有限であると見なされうる」。有限なものに内在化した無限性の在り方を指している。そして第三規定は、「最後に、或るものは、いかなる数にも等値することができないために無限、というより無際限とよばれるが、これはしかし、より大きいもの、より小さいものが考えられうる」。つまり無際限と言い換えられるような無限性である。そして次のように付言する。「数に等値できないものが、必然的に等しくなければならないという結論にはならない」、と。つまり、無限なるものを消極的に扱えば、それは無差別に一様に見える。だから積極的に扱い三つの規定に沸けたが、数(有理数)に等値できないものも、これまた無差別に扱ってはならないと言うのだ。ここで仕分けられた無限性の第一規定は、「無限で唯一で不可分なものとして現われる」無限性を指し、そして第三規定は、数で表現しようとすれば無際限となり、より大きいもの、より小さいものが考えられる無限性であるから無理数があげられる。問題は第二規定の無限性である。これは或る意味では第一規定と第三規定の間に入り両側面の特徴を持っている。だからこの領域では量は「二様の仕方」で現われることになる。部分に宿る無限なもの、これが第二規定で示そうとした無限性である。これは自然についても言えないか。自然を自然にする起成因、それをスピノザは能産的自然と言い、その起成因が内在する自然を所産的自然と呼んだ。人間もその所産的自然の一部分にすぎない。しかし、そこには無限なるものが宿っていることになる。「我々は量を二様の仕方で考える」と言う観点の二重性は、この根拠の違いからであった。無限概念の逆説が教える無限性についてのこの数学的確信がなければ、スピノザはこうした形而上学的テーゼを導くことはできなかったであろう。

そもそも数はスピノザにとって理性が有するだけの「理性の有」であり、理性も共通認識に替わる。つまりわれわれは便宜上設ける概念に過ぎない。例えば水を例に挙げて「水は水である限りにおいて分割される」。その水は「しかし実体としては産みだされも滅ぼされもしない」先の二様の仕方で水を見るならば、一つは知性的に、もう一つは表象の対象となる有限な様態の側面から水は見えることになる。水を水にする起成因であり、形成因となるものは、現象としての一杯のバケツの水が土壌の植物に吸収されて変化したとしてもなくなりはしない。しかしそれはしかじかの量をもつバケツの水であり、それを数量化できる。

2012年12月15日 (土)

河井徳治「スピノザ『エチカ』」(1)

序章 スピノザの視点

エチカは倫理学と訳され、アリストテレスに始まる。アリストテレスには禁欲主義を説く気はさらさらなく、極めて大らかな人間観察に基づいて最高善とは何か、幸福とは何かを解明しようとして見ようとした。

エチカは住み処を意味するギリシャ語のエートスを母語とするラテン語である。一定の住み処で人々が暮らすためには慣習や道徳、規範が生まれる。アリストテレスは、こうしたエートスの基底となるものが何かを問い、人間存在にとって求めるに値するもの(善)が数ある中で、祖家らを統括する究極の善を明らかにし基礎づける哲学を実践哲学として確立し、普遍なもの、必然的なものを求める理論的な哲学、つまりは自然学や形而上学の課題から区別したのである。アリストテレスは、実践上の判断について目的と手段の区別とその連鎖を発想の原点に据える。「人は何のために生きているのか」という問いに、もし空しさを感じることがあれば、それは様々な目的、それらが要するに「善」なのだが、その希求する様々な善が確固たる一点に収斂せず発散してしまうからだと考える。そして人々が様々な善を有機的に統括する究極の目的、最高善が何かを問い直すのである。そうした行為の判断能力は「思慮」と呼ばれるが、「技術」もそれに類する実践的能力である。このような実践的能力は、医術は健康を、経済は富をと言う具合に、それぞれが目指す目的のために発揮され、その目的にそれぞれの善があるわけだから、アリストテレスは技術が思慮に従属すると考えた。ではそれらの諸善を統括する究極目的、最高善は何か。それは幸福である。幸福とは何か。自ずから足りること、自足することである。

それにひきかえ、近代になると事情は逆転する。社会形成と政治形態に対する考え方が伝統的コミュニティーを母体とする考え方から権力支配を母体とする考え方へと大きく転換した。

アリストテレスの倫理学の考え方で最高善である幸福は自足と言ったが、その時速とは「機能を発揮すること」とも言い換えられる。人間の営みに快が伴うのは、それらに人間の機能が働いているからである。共同体の成員の幸福を実現するには共同体の政治が善くないといけない。ポリスの運営と言う社会的分業の中で、各人が自らの適性と能力に応じて適材適所でその能力を発揮するところに、それぞれの自己実現の充実感、幸福が成り立つことになる。この政治が善く行われる目的は、各人がそれぞれに「人間の機能」を発揮することで得られる自足を実現することだとした。

アリストテレス説く倫理学の要点は、スピノザの『エチカ』の構成と微妙に重なって見えてくる。しかし、アリストテレスとは決定的に違う視点も明らかになる。アリストテレスによれば、倫理学説は根源的な原理にまで遡ってそこから始める必要はなかった。人々が何が善かと言うことは心得ている、なぜそれが善なのかと言う点を根拠づければ良いという訳だ。既成の諸見解を掘り崩し「道徳的回心」を求める必要はなかった。ところがこの回心を求めたのがスピノザだ。新たな原理のもとで善や正義や徳などの倫理的価値概念を鋳直さねばならなかった。

デカルトの哲学上の関心が、確実な知識を得るためにはどのような「私」の思考を導くべきかを問題にしたとすれば、続くスピノザは、人生の虚しさを克服し真に幸福を与える善を得るには「私」はどうすればよいのかを問題にしたと言えるであろう。ここで問いを発するのは近代的な個人である。その問いは個人が確実な知識をその生き方に生かす哲学、つまりは宗教的救済にも比肩できる近代のエチカの創立へと向かわせることになった。

スピノザは数学に加えて新たに実証的自然科学の観点とその成果を背景に目的論的世界観を否定する観点を打ち出した。つまり、スピノザは、原因を目的因ではなく起成因に限って考察する幾何学の証明や実証科学の手法に従って『エチカ』の考察を進めようとしたのである。当然その倫理学は、目的─手段の連鎖を基軸に最高善や幸福を考えるアリストテレスの倫理学とは対極の観点に立つことになる。

事物の存在の原因をアリストテレスは四つあると考えた。目的因、形相因、質料因、起成因の四つである。人工物を例に挙げてみる。銅像がここにあるとしよう。造る目的がなければ銅像は造らない。また像の形が銅像にしているのだから、形相因。また銅という素材は銅像にする質料因だ。そして質料に形相を与える働き、それが起成因であり技術の役割である。銅像が現に存在するためには以上の四つの原因が働いていなくてはならない。制作物を観察して分かるのは質料因と起成因だから、アリストテレスの目的因と形相因を主原因とする観点の対極に起成因を主原因とみなす観点ができる。これが近代科学・技術の立場だ。人工物ならば起成因は制作物の外から関わるが、自然物は起成因が自然物自体にある。つまり起成因が運動の始源だ。技術は育む役割に変わる。有機体としての自然物は、その形相ないし本質が生命であり、その質量が自然的物体であり、両者が結合した一個の個体が生命体だ。アリストテレスの「魂」はその生命体を機能させる目的である。例えば眼は見るという機能を発揮してこそ生命体としての機能を働かせている魂が宿っていると考える。だからアリストテレスにとって「運動と静止の始源」にあたる起成因は、形相因として個物に内在する目的だったことになる。目的を起成因としたのである。彼はこのように目的が自らのうちに内在する状態をさしてエンテレケイアとした。このように形相が統合的な目的として質料を有機的に統一するという考え方は、自然自体を有機的な全体として捉えることになる。アリストテレスは自然全体を質料とする形相、つまり自然に内在し自然を自然として保有する目的は神的ヌースが与えることになる。アリストテレスの『倫理学』の構成も、こうした彼の形而上学、自然学の原理に支えられている。目的因を除けばその倫理学は成立しない。

これに対して、デカルトは機械論的な自然観を導入し、物体相互の運動を介して因果的な自然の生成を語った。その運動は目的因を排除してもっぱら起成因の概念で説明されている。しかし、内的形相としての魂の動きは拒否された。生命活動自体が機械論的運動であり、紙はあくまで超越的で、被造物に対してその存在を瞬間ごとに支え続ける連続的創造の神が起成因として働いて被造物を維持するが、決して内在的ではなかった。

また、ホッブスは、例えば円の定義は「平面上の一定の直線の回転から生まれる図形である」と定義するのが発生因、つまり起成因を含んだ定義であると考える。普通、円は「平面上の或る一定点から同一の距離にある点の連続」と定義されるだろう。それが円の特質を表わしているからである。しかし、それでは、どうしてそのような特質をもつ円が生まれるかは示すことができない。ところがホッブスは神学的課題であるとして哲学の課題から排除した。ホッブスは神の創造の技術を人工的に模倣するという仕方で自然の起成因の究明を行い、起成因を直接紙に求めるのを避けた。

これに対してスピノザは起成因となる神の定義をもとめ、そこから出発しようとする。自然の始源となる神の、いわば発生論的定義の可能性の条件を求めた定義を設定し、これが一切の起成因になると明言した。「絶対に無限な」ということは無限性の究極段階を指している。要するに真に無限なるものが神であり、この神だけが超越的でなく内在的な起成因となる、とスピノザは確信した。それは自然に内在し自然を形成し、それゆえに「自然の一部分」にすぎない我々にも内在し、我々を形成し、その無限者からいかに離れようともがいても離れることができず、我々を活かし支えている神だということになる。

2012年12月14日 (金)

手島直樹「まだ「ファイナンス理論」を使いますか」(5)

「高成長、高リスク企業は手元資金を潤沢に持つことが普通です。高成長企業は成長投資の機会が豊富であり、手元資金を十分に持つことで投資のチャンスを確実につかむことができます。一方、高リスク企業であれば、業績の悪化によりキャッシュフローが悪化すると十分な投資ができなくなる等のリスクがあるため、手元資金を多めに持つことになります。もちろん、資本効率性の観点から無駄な手元資金を保有したくはないのですが、最適な手元資金額は誰にも分りません。事業計画をベースにキャッシュインフローとアウトフローの予測をすることは可能ですが、事業計画ほど当てにならないものはないからです。これを真に受けて最適な手元資金額を算出し、その額を上回る現金を余剰現金として全額株主還元にまわしたりすると、後に社債を発行するような羽目になりかねません。これを回避するためには多くの手元資金を保有するしかないのですが、上場企業である以上、ルールが存在します。一言で言えば、経営者が規律を持っているかどうかということになります。

誰もが認める高成長業であれば、いくら手元資金があっても堂々としていればよいのですが、そうでないと株主への説明が大変になります。平均的な日本の企業は高成長企業とは言い難く、当期純利益を100%内部留保すべき企業像よりは100%株主還元すべき企業像に近いはずです。現実としては、経営者だけが自社を高成長と思い込んでいたり、M&Aや積極的な投資をすることで高成長企業の振りをしているケースも多くあります。つまり、経営者と投資家の間で潜在成長性の認識にギャップがあるのです。ですから、投資家は経営者自身が考えているほど会社が成長するとは思っていないという前提に立ち、潤沢な手元資金を保有している意味を理解してもらう必要があります。以上3つのルールを念頭に入れることです。

①根拠があること

②成長が鈍化したら、それを素直に認めて株主還元を増やす約束をすること

③投資家があまりにも騒がしくなったら、それは成長が鈍化している徴候だと認める」

「株主の質が経営に大きく影響します。短期的な株主が多ければ、経営も短期的になり、研究開発費の削減などの利益調整を行うことが多くなるとの調査もあります。もちろん、わざわざグリーンメーラーやヘッジファンドに株主になってもらおうと思って経営をする経営者はいないはずです。例えば、株主還元で株主を引き寄せようとする日本企業が多いのですが、これは「株主還元キャンペーン」であり、スポーツクラブの入会割引キャンペーンと変わらないように思うのです。また株式分割も広く行われていますが、これはまさに株価にフォーカスを当てたマーケティングツールであり、株価への意識の高い株主を惹きつける可能性が高くなります。企業の価値と無関係な理由で株式を買う投資家は、企業の価値と無関係な理由で株式を売却するため、このような株主がいると、株価がビジネスの進捗と無関係に変動することになりかねないのです。株主の質は経営者のコントロールが効かないものではありません。経営の質と投資家へのコミュニケーションで決まるものなのです。経営者は株主が短期的だと嘆く前に、自分の経営を省みることが必要でしょう。結局、会社にふさわしい投資家しか株主にはなってくれません。パートナーのような長期株主を増やすには、長期的にキャッシュフローの最大化を目指す経営をし、長期的な経営戦略や経営指標の目標値などをコミュニケーションしていく必要があります。長期株主が増えれば短期的なノイズを軽減でき、番頭もどっしりと構えることができます。もちろん、番頭は自らが率先して、経営の質と投資家へのコミュニケーションを改善し、より多くのパートナーに株主になってもらうよう努力する必要があります。但し注意が必要なのは、これからの時代のパートナーが手ごわい存在であるということです。パートナーというと、かつての持ち合い時代のようにはいかないでしょう。投資家を本質的投資家、トレーダー、メカニカル投資家と分けた場合、パートナーとなりうるのは本質的投資家です。彼らの特徴は、保有銘柄が少なく、また持ち分比率が高いため、投資先への株主としてのコミットメントが高いことです。本質的投資家はモノ言う株主であり、持ち合い時代のような株主不在のパラダイスの下で経営することはできなくなります。とはいえ、見方を変えればトレーダーに翻弄されて短期主義の罠にはまるよりはるかに良いはずです。長期的に株式を保有する意図もなく短期の利益を狙う投機家と異なり、本質的投資家は、投資先が長期的に企業価値を創造するようにモノを言うのであることを考えると、よきアドバイザーとも言えるのです。モノは言うが、モノわかりがよいのも、彼らの特徴と言えます。彼らは企業に積極的に働きかけます。(エンゲージメントとも呼ばれる)が、企業は彼らが投資先に求めることを先んじて実践していれば、そういう働きかけを受けることはありません。もちろん、彼らは短期的な視点で経営者に何かを要求することもありません。長期的に株式を保有する意図がある以上、企業が長期的にキャッシュフローを高める経営をし、結果を出してさえいれば、何ら問題はないのです。彼らがモノを言うのは、投資先の経営方針に問題があったり、結果が出ていなかったりする場合に限られます。こうした関係が企業に規律を与えることになります。野放しになることはありません。モノ言う株主は手ごわい相手ではありますが、結果さえ出せていればモノ分かりのいい株主であり、パートナーとして長期株主になってくれるものです。こうした株主を引きつける努力を企業は行うべきなのです。」

2012年12月13日 (木)

手島直樹「まだ「ファイナンス理論」を使いますか」(4)

「結論は、無駄な抵抗を止めることです。収益が悪化しても、そのまま正直に伝えればよいのです。会計数値をいじくり、利益調整をしてまで、高成長企業や安定企業のフリをする必要はありません。早かれ遅かれ、事実は明らかになるのです。それならば、事実を早く明らかにして、会社の新たな姿を投資家に判断してもらえ場よいでしょう。新たな姿が投資方針に合致する、別の投資家がいるはずです。短期主義の蔓延は、アナリストと短期投資家のお祭り騒ぎに経営者までも巻き込まれているだけなのです。アナリストは自分の収益予想が外れないことが目標であり、短期投資家は株価が短期的に上がればよい。どちらも企業経営にとってはノイズに過ぎない存在であり、彼らの意見に左右されるようでは会社がおかしくなるのは当然なのです。また皮肉なことに、アナリストと短期投資家に都合がよい経営をしていると、さらに短期投資家が集まってきます。彼らは、業績に少しでも悪い兆候があれば、一気に逃げていきます。お祭り騒ぎのパーティーには必ず終わりが来るのです。」

「多くの企業が、売上成長を経営目標に掲げます。たしかに売上成長は企業価値を創造するバリュードライバーのひとつであり、成長率が高ければ高いほど企業価値は高まるのが一般的です。一般的といったのは、ROICとWACCを下回る、もしくはROEが株主資本コストを下回るケースでは、成長により企業価値が破壊されることになるからです。成長のタイブによって企業価値に与える影響が異なることと、成長は時間の経過と共に鈍化することが言えます。

成長のタイプとしては、内部成長とM&Aによる(外部)成長があります。アップルの様に革新的な商品によって新たに市場を生み出したり、新たな顧客を惹きつけたりできれば、高い成長がそのまま高い企業価値の創造につながる可能性が高くなります。一方、改善のような革新性のない方法や、価格競争やプロモーションによってシェアを拡大しても、利益の大きな拡大は見込まれず、企業価値に与える影響は限定的です。大型買収による成長も同様です。実際のところは「高値づかみ」で企業価値を破壊するところも少なくありません。

当たり前の話ですが、会社の規模が大きくなればなるほど、高成長は困難になります。市場にもライフサイクルがあり、また競争も激しくなるため、高成長を永遠に続けることは不可能です。高成長をバリュードライバーとして企業価値を創造し続けることはできないのです。ですから成長が鈍化した場合、成長以外のバリュードライバーで企業価値を創造しなければなりません。そこで重要になるのはROIやROEといった資本効率性指標を改善することです。機関投資家はこの点を認識しており、成長性よりもROEを重視することを企業に求めています。資本効率性指標を改善することです。機関投資家はこの点を認識しており、成長性よりもROEを重視することを企業に求めています。資本効率性を重視することにより、成長を目的化し成り金型の大型買収によって成長を買うという行動も企業は取らなくなるはずです。」

「社長にはお金を生む仕事だけをしてほしいと私は考えています。ただし、IR活動は直接的には金を生むものではありませんが、金の生み方に関して株主や投資家から客観的な意見をもらえるよい機会だと考えています。もちろん、社長自らがIR活動を行う以上、IR部門は社長が時間を割くに値する株主や投資家を選別できなければなりません。IR担当者ですむような質問を社長にされては困るからです。貴重な時間を投資する以上、何よりも社長にとって学びがなければなりません。社長は会社にいる限り、なかなか他人から意見されることはありません。ですから、「ボス」、すなわち株主との意見交換は、経営上のヒントを得られるかもしれない貴重な機会なのです。ただしここで「ボス」にはいくらでも言いたいことや聞きたいことがあります。意見交換と言うからには、問題は社長に意見があるかどうかです。松井証券の松井道夫社長が、IPOの際に海外ロードショーで会った機関投資家による日本人経営者の印象とは、次のようなものだったそうです。

「日本の経営者の大部分はビジネスモデルが答えられない。企業のストーリーが語れない。日本の企業にはストーリーがない」

「ストーリーを語れる日本人経営者がいない。ほとんどの経営者は、単なる担当者になってしまっている」

社長が松井社長の指摘する程度の人材であれば、株主と会うたびに株が売られ、株価が下がることになります。社長の能力が欠けている状態では、株主との効果的なコミュニケーションを行い、経営に活かすことは不可能です。」

「創業経営者や創業者一族系の経営者は、ストーリーやメッセージに事欠きません。自分でゼロから会社を興したり、この世に生まれた時点で後を継ぐことが決まっていたりするため、ビジネスモデルを語ることができないということはあり得ないからです。そもそもIR活動や広報活動をIR部門や広報部門に任せ切りという社長は、大企業病にかかっていると思わなければなりません。どちらも社長の仕事なのです。IR担当者や広報担当者はあくまでメッセンジャーでしかなく、社長の志や魂の叫びを伝えることはできるはずもないのです。ですから、創業経営者のような社長であれば、IRにおけるコミュニケーション云々以前の安心感があります。社長と株主は、同じ船に乗っているのです。「この安心感により資本コストが下がる」ということであり、結果的に企業価値は上がることになります。」

「創業社長の圧倒的な存在感とこれまでの実績を真似することはなかなか難しいことですが、彼らのエッセンスだけでも取り入れることは可能です。彼らの特徴を一つ挙げれば、これまで利益を出し、現在も出しているため、「今後も利益を出して見せる」という言葉に説得力、信憑性がある、ということです。創業経営者のような実績がないのであれば、ビジネスモデル、簡単に言えば金の儲け方について考えに考え抜いて、自分の信念を自分の言葉で投資家や株主が納得できる形で説明するしかありません。そして説明の通りに実現していくのです。実現できなければ辞めればいいだけのことです。実現できない経営者が辞めれば株価は上がり、株主のためになります。これがまさにコミットメント経営なのです。具体的には以下のような内容を、投資家やアナリストに訴えればよいでしょう。何も目新しいことはありませんが、最後のコミットメントの有無が大きな差を生むはずです。

①げんざいはこうである

②将来はこうありたい

③そのために××の分野もしくは地域を攻める

④そのために必要な能力は××である

⑤その能力はこうして育てる

⑥できなかったら辞める

生命保険協会の調査によれば投資家は中期経営計画に関して「目標達成までのプロセス・戦略が明確でない」「ビジョンが抽象的で分かりにくい」という点の改善を求めていますが、これは経営者が真面目に考えていない証拠でもあります。とりあえず利益の目標数値を示せば文句は言われないだろう、という程度の中途半端な気持ちの表れではないでしょうか。」

2012年12月12日 (水)

手島直樹「まだ「ファイナンス理論」を使いますか」(3)

「投資家はコーポレートガバナンスの充実に向けてディスクロージャーを非常に重要な要素と判断しており、企業もディスクロージャーの改善に向けて努力をし始めています。実際、生命保険協会の調査によれば、企業は株主・投資家との対話の充実に向けて、「決算説明会の開催」「個別取材の受け入れ」「機関投資家への訪問」等に重点的に取り組んできています。一方、機関投資家は、「中期経営計画での説明の充実」「経営方針・経営戦略説明会の開催」「決算短信(補足資料)の充実」などに企業が一層注力すべきだと考えています。企業は機関投資家の要望に応えながらさせにディスクロージャーの質を高めていくものと期待されます。もちろん、私も企業のディスクロージャー改善に向けた取り組みを否定しません。しかし、ディスクロージャーよりも持続的な業績の改善によって築き上げた信頼こそが投資家のリスクを下げると思っています。中期計画や経営説明会で将来の見通しを語ることよりも、これまでの実績の方が将来のパフォーマンスに対する不確実性を取り除いてくれるのです。ディスクロージャーは所詮二次的なものであり、企業としての信頼があってはじめて価値のあるものです。悪い業績に関して詳しくディスクロージャーしたところで、説明責任を果たしたことにはなりません。言い訳にしか聞こえないのです。企業は口ではなく行動、つまり結果で投資家の信頼を勝ち取るべきなのです。そうして初めて、投資家は企業のディスクロージャーに対し本気で耳を傾けてくれるでしょう。

では、情報開示が二次的なものであるならば、投資家へのディスクロージャーに責任を持つIR部門は何をすれば付加価値を提供できるでしょうか。答えは、これまでと逆のことをするということです。つまり、投資家の意見や株式市場による評価を経営にフィードバックすることです。上場企業であることのメリットは、投資家が経営に関して意見をしてくれたり、株式市場が株価の変動を通して企業に対してメッセージを送ってくれたりすることにあります。いわば、株価があることこそが上場企業の資産なのです。こうした外部の視点を経営に活かせないようであれば、上場のメリットを十分に享受できません。この役割を担う最適部署がIR部門です。IR部門は、経営者のための戦略機能でなければならないと考えています。

実は、私は非常に不安に感じてもいます。IR責任者が投資家や株式市場のシグナル(重要な情報)しノイズ(騒音)を区別せずに、経営者に報告している可能性があると思うからです。投資家が投資で成功する秘訣は、いかにシグナルを判断材料にして、ノイズを無視するかにあります。しかし、これは簡単ではなく、プロの投資家でも判断を誤ることがあります。IR責任者はおそらく社内での経験も多く会社のことを知り尽くしているはいるのでしょうが、ほとんどローテーションでIR部門に異動になった方で、特に株式市場や投資に詳しいわけではないと思います。となると、アナリストレポートの内容や大株主もしくは声の大きな投資家の意見がノイズなのか否かの判断ができず、そのまま経営者に報告されてしまうことがあると思うのです。横並び型の株主還元はこれが原因ではないかと思います。」

「株価が自社を正当に評価していないと考える経営者は多いようです。バブルやその崩壊、金融危機などによる株価の乱高下を見る限り、株式市場はまともに機能していないと考える経営者がいても不思議はありませんが、一方で、自社の正しい株価を証明できる経営者もいません。「もっと高いはずだ」と駄々をこねているに過ぎないのです。株価とは最も客観的な経営指標であり、経営者にとっては、株価こそが絶対的な評価基準と言えます。都合のよい言い訳を探す前に、株価を事実として受け入れるべきです。この覚悟がなければ上場企業の経営者になる資格はありません。非上場のままにして、売上と利益だけで自己評価をして満足していればよいのです。非上場のままであれば、株式市場の動向に翻弄されることもありません。」

「株主の多くがファンドとなり、お互いに短期的なパフォーマンスを競い合っていることを考えれば、彼らの保有銘柄が短い期間で回転するのも無理はありません。投資先の短期的な業績な業績基づき、株価が上昇する可能性が高いと判断すれば買い、下落する可能性が高いと判断すれば売却します。こうした株主が増えれば増えるほど、長期保有の株主が減ってしまうため、長期的に経営をすることは意味がないのではないか、多数を占める短期的な株主のために短期的な業績を改善するのがよいのではないか、と考える経営者がいてもおかしくはありません。しかし、結論としては、株式市場の時間軸は投資家の投資期間とは無関係であり、経営を短期的な視点で行ってはならないのです。もちろん経営戦略の観点から見ても、短期的な経営の積み重ねが必ずしも長期的な価値の創造をもたらすとは言えないという面があるのです。株式市場が短期的であるという考え方は、誤解に過ぎません。」

「ニュースに対する株式市場の反応は迅速です。株式市場は、新たなニュースに基づいてキャッシュフロー予測を素早く更新しているので。良いニュースがどの程度キャッシュフローを上昇させるのか、悪いニュースがどの程度キャッシュフローを減少させるのかを予測し、株価の再計算をします。それが瞬時に行われるため、短期的だとかんがえてしまいかねないだけです。全能な株式市場は、個々の投資家と違い、このような神業ができてしまうわけです。」

「逆説的に思われるかもしれませんが、実は株式市場が長期的な視点を持つからこそ、四半期決算次第で株価が大きく変動するのです。たとえば、ある企業の成長性が鈍化する四半期決算の発表があったとします。成長性の鈍化が一時的なものか継続的なものかで、株価への影響は大きく異なります。一時的なものであれば、キャッシュフローの現在価値の下落は極めて低くなります。今四半期や今期のキャッシュフローが企業価値に占める比率は低いからです。一方、成長の鈍化が継続的なものである場合には、株価に与える影響は大きくなります。なぜならば、今四半期や今期のキャッシュフローが減少するだけでなく、それ以降のキャッシュフローも減少することになるからです。つまり、地盤沈下のように将来のキャッシュフロー全体が下落するため、キャッフローの現在価値も大幅に下落することになるのです。」

2012年12月11日 (火)

手島直樹「まだ「ファイナンス理論」を使いますか」(2)

「確かに業績が悪化した場合、一般株主が業績に影響を与えることはできませんが、ほとんどのファンドは、わざわざモノを言うよりも、さっさと売却を選択してしまうでしょう。議決権があろうがなかろうが、実質的には変わらないはずです。種類株はコーポレートガバナンスを軽視するものではなく、多くの株主の実態に適したものだと私は考えます。種類株は、「口を挟まずに、好き勝手やらせてくれれば儲けさせますよ」という経営者からのメッセージだと考えればよいのです。とくに、新興IT企業は創業者がすべてであり、一般株主は創業者を信じ、そこに賭けるものでしょう。ですから、だれが本物なのか見極めることが、投資家の腕のみせどころになります。多くの投資家に求められるのは、経営を変えることではなく、高い将来性を持つ会社を見つけ出すことです。そうした会社の株式を安い時に買って、高い時に売ればよいのです。売却というガバナンスのスタイルが、多くの投資家に一番適しているスタイルだと思います。プライベートエクイティのように投資先とは運命共同体ではないのですかに、業績が悪くなれば見捨てるという選択をするのが合理的ではないのでしょうか。」

「日本では終身雇用のケースが多く、数十年間社内で競い合い、様々な視点において高い評価を得てきた人材が選抜され経営者になる仕組みになっているはずです。こうして選別された人材が不正をするとなると、社員全体の質が低いか、経営者選抜のプロセスに問題があるかのどちらかとなります。しかし、どちらの理由であっても、問題が起こった時の尻拭いを取締役会にさせるのは筋違いではないでしょうか。取締役会の役割は企業価値を創造することであり、道徳を経営者に教えることではありません。取締役会がコンプライアンスに主眼を置かなければならないような企業は、いずれ市場からの退場を迫られることになるはずです。ガバナンスの問題解決は、決して難しいものではありません。経営者が優秀であれば、全て解決すると思います。ガバナンスの良し悪しで会社がよくなるのではなく、優秀な経営者がよい業績を上げれば会社のガバナンスが自然とよく見えるのです。監査役設置会社であろうが、委員会設置会社であろうが、社外取締役がいようがいまいが、体制は何でもよい。何を選択しようが、優秀な経営者はその選択を正解にしてくれます。トヨタ自動車やキャノンに社外取締役は1人もいません。キャノンは現場の実態を熟知してこそ、より実効性、効率性のある意思決定および適切な監督を行えると考えています。社内に優秀な人材や専門家が多くいれば、全員社内取締役でもいいのです。きちんとした経営が行われて業績がよければ、誰も文句は言いません。カルロス・ゴーンは、コーポレートガバナンスの講演会でこうコメントしていました。「優秀な経営者を選び、その経営者を徹底的にサポートするのがガバナンスである」こう考えると、経営者をサポートできる人物であれば、社内取締役でも社外取締役でもどちらでもよいことになります。見方を変えれば、優秀でない経営者の場合は、取締役会がどうコントロールしようが、チェックしようが、モニターしようが、無駄な努力ということになります。バフェットは、「馬が老いぼれならば、どんなに優れたジョッキーが騎乗しても勝てない」と言っています。いまや株主の多くは資産運用を目的とするファンドであり、株価のパフォーマンスを最優先します。投資先の業績改善に向けて行動するよりも、株価が上がらないのなら売るという行動をとることが多く、株主からのガバナンスは期待しにくくなっているのです。ですから企業にとっては、外部からのガバナンスを必要としない優秀な人材を経営者に育て上げることが最優先の課題です。取締役会のあり方を考える前に、採用基準や昇進基準を徹底的に見直す必要があります。丹羽宇一郎氏は、優秀な経営者は「自律自制」ができると指摘しています。収益や株価が競合他社と比較して劣ることがあれば、即座に手を打つ。その際、社外であれ、社内であれ、取締役の意見を最大限に活用するでしょう。業績を長期にわたり悪化させ、社外取締役に解任を迫られる「他律」を持つことはないのです。経営者をコントロールすることが構造上困難である現実を考えれば、そもそもコントロールが不要な「自律自制」型人材を育成できるかどうかが企業価値を決定すると言えるでしょう。

2012年12月10日 (月)

手島直樹「まだ「ファイナンス理論」を使いますか」(1)

著作の主張は首肯しかねるところもあるけれど、部分的に参考になるところもあるので、気が付いたところを抜き書きして、メモしていくので、著者の意図するところから、離れているので、予め断っておきます。

 

「もちろん企業が目標を持つことはよいことですが、株主還元に目標を設定することには違和感があります。株主還元は余剰現金の還元であり、目的ではなく結果に過ぎないからです。年間の投資額も状況により毎年変動するはずですし、結果として余剰現金も変動します。当期純利益や株主資本の一定額が毎年余剰になるとは考えにくいと思います。一定額の余剰をつくるために投資を削減するなどということになれば、本末転倒です。」

「企業と投資家とのコミュニケーションを見ていると、株主還元政策をマーケティングに使っているところが多い印象を受けます。つまり、株主還元を重視するので当社の株を買ってください、ということです。実際、予想配当利回りの高い銘柄が選別される傾向もあるようです。もちろん投資家には非常に分かり易いマーケティングなのですが、企業にとっては副作用が大きいものとなります。なぜならば、自社の事業を理解しない株主が増えてしまうからです。企業の収益は右肩上がりで成長することなく、業績や株価が低迷する時期もあります。場合によっては減配が必要になることもあるのです。事業の本質を理解しない株主は、そういう場面にくると一目散に売却するはずです。株式を持ち続けて業績の改善を待つようなことは期待しにくいでしょう。企業としては、経営哲学や事業の可能性に共感する株主を増やしたいはずです。しかし、このようなマーケティングをやっている限り、それは無理な話です。短期的視点の投資家が多すぎるという不満を漏らす経営者も散見されますが、実は身から出た錆なのです。おまけであるはずの株主還元が投資家とのコミュニケーションの主役になっていればおまけ目当ての短期的な投資家しか寄ってきません。バフェットが言うように、「自分にふさわしい投資家」しか株主にならないのです。配当は目的ではなく結果です。経営哲学や事業の可能性を投資家に売り込み、共感する株主を増やすことを第一とする。そうすれば、投資家とも意味のある対話ができるでしょう。」

「村上ファンドやスティール・パートナーズといったモノ言う株主の出現により、増配や自社株買いによる株主還元への圧力をかけられた日本企業も少なくありません。この影響により、日本企業の中には、ファンドのターゲットとならないように株主還元を積極的に行って現金を減らした方がよいと考える経営者がいてもおかしくはありません。ただ注意すべきなのは、利益内部留保し、現金を保有すること自体が悪いわけではないことです。本当の投資家は、企業の成長性を判断できます。実際、前述のファンドがターゲットにしたのは、現金を多く保有するだけでなく、企業価値が低い、つまり成長の機会が乏しい企業でした。株主還元により企業が保有する現金を減らし、経営者が無駄遣いによって企業価値を破壊するよりリスクを軽減したことになるのです。またリスクを軽減の分だけ企業価値は高まることにもなります。」

「ファイナンス理論では、株主が会社の所有者であり、経営者は株主の代理人として経営を任されていると考えられています。つまり、経営者は株主の価値を最大化するために存在する雇われ人に過ぎないということです。この雇われ人が会社の所有者である株主の利害を軽視し、自分の利害を追求することがないようにチェックすることが、コーポレートガバナンスです。しかし、この理論を真に受ける経営者はいないでしょう。株主の言い分も少しは聞いてみようか、という経営者は増えてきましたが、株主が会社の所有者だと言われてもしっくりこないはずです。これは、どのような人が会社の所有者になっているのかを見れば明らかです。株主の上位リストを見れば、ほとんどがファンドです。ファンドは年金や個人の資産の運用を行っている組織であり、彼らも他人の金を運用する雇われ人、いわば資産運用代行者なのです。これこそ、株主が会社の所有者だと言われたところでしっくりこない原因です。株主が会社の所有者だというファイナンス理論が生まれた時には自腹でリスクを取って投資する個人投資家が多かったのですが、今は違います。理論の根底が崩れているのですから、ガバナンスがうまく機能するはずもないのです。資産運用代行業者という雇われ人が会社経営代行者という別の雇われ人を真面目にチェックするとは思えません。なぜそうなるのでしょうか。資産運用代行業者は短期の運用結果でチェックされています。短期的な運用結果が悪いと、簡単に他の資産運用代行業者に交代させられてしまうのです。ですから彼らにとって合理的に行動は、業績が悪い会社の株は売り、よくなりそうな会社の株を買うことになります。投資先企業を長期的な視点でサポートするということは期待できません。株の売却がファンド流のガバナンスなのです。また、分散投資もこの状況に拍車をかけています。もちろん、分散投資はポートフォリオのリスク管理には有効です。しかし、スローゼットインデックスのように、アクティブ運用と言いながらポートフォリオがインデックスとほとんど変わらないよう手背あれば、過度な分散だと言えます。たしかにインデックスを大幅に下回ることはないため、資産運用代行業者のクビはつながりますが。一方、分散投資の副作用は、ポートフォリオの保有銘柄数が多いため、投資先の十分なモニタリングができなくなることです。今後も、インデックス投資が増える見込みであり、モノ言わぬ株主が増加すると考えられます。会社ではなく株券の所有者としての株主が増加するのです。」

2012年12月 9日 (日)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(12)

第7章 <民主主義> 国家論の異例性

スピノザは『エチカ』の中で国家の規定をしているが、注目すべきは、国家が人間の理性的な企ての実現に必要な環境を創造するために不可欠のものとして作られたものとは一言も言っていないということである。むしろ彼は、至高の善や理性的な欲望などとは全く関係のない、受動感情の理論をその規定に援用しているに過ぎない。人間がもし理性に導かれて生きるのだとすれば、人々は国家などなくても自発的に和合して生きることだろう、しかしながら受動感情に支配される人間たちの間での和合は、これとは逆に、国家ないし社会による何らかの制度的枠組みが形作られなければ不可能であろう。

しかし、ここでスビノザは、国家がそれを強いるために存在するとは言っていない。同時にまた、国家が人間本性の倫理的目的の実現を保証するために存在するとも言っていない。つまり、国家は、何らかの目的や理念によって形作られたのではないし、そうである以上は、いかなる形であれ国民に何らかの目的や理念を強制するために作られている装置ではない、ということである。

 

スビノザは国家を社会の中から生じるものであることを主張している。しかしながら、スピノザの国家は、その根拠を受動感情に従う人間行動の中にしか求めていない。「諸感情に必然的に隷属しかつ不安定で変わりやすい人間」が、「いかにしたら相互に保証を与え相互に信頼し得るということが可能か」という『エチカ』のくだりで、スピノザが参照を促している定理は「感情はそれと反対で、かつそれよりも強力な感情によってでなければ抑制されることも除去されることもできない」というものである。

周知のように自然状態とは、ホッブスやロックらの社会契約説において国家の成立を説明する前提となる、政治的社会すなわち国家が成立する以前の状態を指している。この中で、ホッブスは自然状態を絶対的自由の状態とみなし、そこから国家状態を形成するにあたっては、コモンウェルスとしての公共的な権力に、全員一致して、人々の持つありとあらゆる強さを譲り渡してしまうことが必要であると考えていた。スビノザの想定する自然状態は、こうした考え方とは全く異なるものである。ある者が権利を持っているということは、彼がどれほどの力を行使できるとかということと同一である。したがってスピノザは、自然正体においては、実質的な人間の自然権というものを想定する事は不可能だと主張しているのである。このような悲惨な状態から抜け出すために、自然状態にある人々は何らかの合意なり意志なりをもって、ある種の社会制度ないし国家を作り上げなければならないのだろうか。すくなくともスピノザにとってはそうではない。社会はあくまでも、感情と言う何の規範性も前提とされない所与を素材に、このような一見混沌とした状況より、自ずから生起する。それにはまず、個体の自己保存の法則を最小限の仮定として導入するだけで十分である。すなわち、人々は好むと好まざるとに関わらず、自らの存在を維持させないものに執着しない。人間は本性的に平等でも対等でもない。従って自然状態にある人々は、たとえ自らが隷属的な状況に置かれるとしても、その生存を保障してくれる強者に従い、一方、強者は自分が利用できる限りにおいて弱者を自分の手元で保護することになる。このようにして「暴力による国家の成立」とも呼ぶべき強者を中心とした階層が形成されていくが、人々は、自らの力すなわち自然権を保持し、より強力なものにしていくためには、どうしても国家状態としての共同性を構築しなければならなくなる。このような共同性が確立されるためには、何の規範性も必要ではない。ただ単に各個人ないし集団が、ある個人ないし集団から自らの権利を守るために、その他のより多くの個人あるいは集団と結託して、一つの多数者を形成すればよい。

 

このようにスピノザの国家の生成プロセスには、国家を自分たちの意志やよりよき理念によって形作ろうとする倫理的意志の介在する余地は全く存しない。それは自ずから生成するものであり、私たちの諸々の感情に、そしてそれのみに依存する。ある国家が維持される理由は、契約によるものではなく、まさに感情的なレベルで一定の信任を成員相互が与え合っているからであり、成員の恐れと自己利益という支えがなければ国家は維持できない。

スピノザの政治論には、自然状態の仮説は存在しても、いわゆる社会契約は存在しない。契約は守られなければならないという規範性が存在しないため、国家の基礎を契約に求めることはできないのである。国家は成員の感情にのみ依存しているので、国家の力と権利は、成員が一致した感情を持つ度合いによって減少もし、増大もする。国家が曲がりなりにも維持されているのは、成員の全員が一致して、国家に一切の力を認めないと言う感情に支配されることか稀なためである。

スピノザは、国家が、とりわけ感情の諸法則としてとらえ直された人間の本性─自己保存の努力─に反して行動すれば、それが消滅することがあり得ると主張し、いかなる力をもってしても変えることのできない人間の適応力の限界が存在することに言及している。つまり国家が従わなければならないのは、人間の立てた何らかの理念や規範ではなくて、人間の自己保存の努力ないし自然の法則という最高の法なのである。もし国家が、長期間成員の必要と利益に反した施策を進めたり法律を作ったりすれば、成員の自発的な服従はもはや全く当てにできない。かくして国家の最高権力は、権利上は制限されないにも関わらず、実質上は制限されることになるのである。国家の基盤を倫理におくのではなく自己保存の欲求に従う個々の成員の感情に置くこと。もちろんこれは要請ではなく、事実、国家がそのようにして存立していることをただ追認しているだけなのだが、これによって国家は実質的な意味では、個々の人間の欲求に対応し、それを実現するシステムを作ることに専念せざるを得なくなる。

このことから、スピノザが倫理と政治を分離した第二の意味が導き出される。伝統的に成員の倫理意識に送り返されてきた問題を、結果が倫理の要請に基づくものと同様に導出されるシステムの構築の問題へと移行させたのである。

スピノザは、幹事用を抑制し得ない理性に基礎を置く国家は不安定なのであり、成員がいかなる感情に駆られようと、理性に従うのと同じ結果を得るように制度を整えることが、国家自体の存続のために不可欠であると指摘している。国家の目的は、強いて明言するなら、人々が不合理な行動も含め、何らかの行動や発言を自己の裁量に従って行いながらも、結果として社会全体のとしての人間の活動力が増大し、自由が確保されるような空間を組織化することである。

はじめに国家があったのではなく、人間が国家を形成したのであり、人間が国家を維持しているのであり、その人間のために国家は存在する。スピノザによれば国家は、いわば人民へのサービス機関として構想されている。

スピノザは、思考する力や行為し活動する力も含め人間に自然的に備わった諸能力が十全に開花されるような状況がより多く設定されればされるほど、人々は自らの自己保存の本性に従って自発的な和合を行うようになるだろう、と考えている。国家が人々の欲望を整序する装置である点ではいかなる政治体制でも変わらない。

かくしてスピノザにおいて政治の課題は、倫理的是非の問題というより、成員の能動性と喜びを増大するような仕組みや制度を成員自らが実験的な態度で構成するという、純粋に力学的な折衝の問題に移される。

あるIR担当者の雑感(96)~説明会で共感

先日、第2四半期の決算説明会が終わりました。それによる脱力感もあるのでしょうか、ここ数日はエネルギー補充の意味も含めて、感傷的になっています。今回は、デレデレになってしまうので、先にお断りしておきます。

このところ、毎回そうなってしまうのですが、前回の説明会に対して反省点が大きくなってきて、説明会の進め方とか構成とか、を考え直すというのでしょうか。説明会のたびに、何のためにやっているのか、ということから、では説明会で何をするのか、というような根本的な考え直しをする羽目になってしまっています。何か文章にするとたいそうに映りますが、それだけ、浮ついているということです。こんなことを始めようとすると、余計な神経を使ったり、物理的な労力が格段に増えたり、何よりもとりあえずパターンとして安定していたものから、わざわざリスクを取りに行くようなもので、50歳をすぎたジジイが年寄りの冷や水で、と思うこともあります。かなり青臭いことを言わせてもらうと、だから面白い…、ということもあります。結果が伴っているかは、また、別の問題ですが。

ただし、こんなこと一人で思ったってできるわけではないので、そんな時に、単に私自身の勝手な思い込みに過ぎないかもしれませんが、分ってくれる人がいてくれる、という思いがあって、あえて年寄りの冷や水をやってしまっています。とくに、会社の中ではなくて、会社外のところです。これが、今の勤め先の中で、このIRという業務について、こんなブログなんかを始めてしまった理由でもあります。また、このブログを始めたことで、その思いが一層強くもなりました。

という訳で、本題に入ります。このように、説明会でパターンを見直そうと考え、実行するのに、担当者である私の背中を押してくれているものについて、少しお話しします。

私の勤め先では、決算説明会を定期的に実施するようになって、しばらくしてから、パーセプションスタディとして、説明会に出席していただいたアナリストや機関投資家に意見を尋くということを始めました。会社の人間には直接話しにくいこともあるからと、会社には属さない人にきいてもらって、その内容を教えてもらうようにしました。私というか、私の勤め先の会社にとって幸運だったのは、その時に説明会に出席してくれたアナリストがいらっしゃったということでした。最初は、そのアナリストの意見を教えてもらいましたが、ショックでした。後に思い出して見れば、それほど厳しいことは言われていなかったのですが、当時はボロクソに言われたよう思えました。説明会について、社外から批判的なことを言われたことがなかったので、それだけでもショックだったこともありました。ちょうど、何度か説明会を行って、最初は手探りで資料を作ったり、社長と話の内容を相談したりしていたのが、パターンとして定着して、こんなものかと一種のルーチン化して手際もよくなってきたときでした。多分、当時の説明会の内容を考えれば、私が落ち着き始めたのは自己満足で、一般的に求められる説明会のレベルとか内容を全く考えていませんでした。そのことを、アナリストは基本的なところで指摘してくれたのだと思います。それが、パーセプの始めでした。

これを聞いたときはショックでしたが、そこでアドバイスもあり、とにかくできることをやって行こうということになりました。それ以降、説明会は試行錯誤の場になりました。実際、資料や説明の仕方も毎回変わりました。それについて、パーセプも、その都度つきあってくれました。そして、意見を言ってくれる人が徐々に増えて行きました。(このパーセプに対して、1度だけで終わってしまう人もいれば、続けて付き合ってくれる人もいますが、2度つきあってくれると3度目以上続けてくれて常連化するようです)

それを何度が繰り返しているうちに、実際にアナリストと、このことで直接会話をすることはありませんが、何となく信頼関係が生まれてきたような感じがし始めました。最近でこそ、あまり厳しいことは言われなくなりましたが(でも、安心していると「この会社には計画戦略などもともとないのではないか」という当を得た?直言をうけたりします)、言われたことの中から、会社サイドとして首肯できることでできることは実行すると、それは評価してくれたり、何回言われても一向に進まないことについては、飽きることなく毎回のように指摘してくれたりしました。それも、続けるにしたがって、言われることが表面的なことから突っ込んだことに、より建設的になってくるのが、分かりました。ときには、こんなことまで言ってしまっていいのか(表面的な礼儀上は、お茶を濁して直言しないようなこと)もさりげなく言ってくれることもありました。それだけ、本音を伝えてくれているのだと思います。

そのなかで、このところの、私の勤め先の説明会に対して、情報量については平均点に届くようになってきたが、会社として、今後どのような方向に行こうとしているのか、会社の姿が伝わらないということを複数の人から指摘されていました。(ても、このような指摘もキツいですが。だって説明会をして会社が伝わっていないということですから)それで、このように外から会社を見られていると、経営者に話して、説明会での社長の説明を思い切って絞り込んでしまうことにしました。それができたのは、パーセプの積み重ね、経営者に対しては市場の声として無視できないものになっているためです。

だから、今回の説明会に対するパーセプが、どのような反応が還って来るか、戦々兢々としもいるし、楽しみにもしています。

 

ある人に指摘されたことですが、私の勤め先の会社は地味な会社で、市場でのパフォーマンスも目立つものではありません。ただし、技術があるとか先端技術にたいてい関連しているとか、潜在的な可能性がある会社なので、周辺情報として見られる可能性はあるという位置にあるようです。そのなかで、パーセプでのアナリストや機関投資家とのやり取りに感じるのは、美しい言葉で言えば共感の輪のようなことです。当初の拙劣な説明会に対して、「この会社は下手なんだけれど、何か放っておけないところがある」というようか思いを持ってもらえたということです。だから厳しい意見も言ってくれたし。そして、会社も耳に痛かったことをとにかく、それを聞きました。それで、コミュニケーションが成立したのではないかと思います。それで、会社に対して親しみのようなものが生まれたのではないか。それが進んで、パーセプに意見を言ってくれる人の中に、こうすることで、この会社(の説明会)をもっとよくしてあげよう、という気持ち。多少でも会社に参加しよう、というと言い過ぎでしょうか。説明会を一緒に作って行こう、とくまではいきませんが、そこに連なっていくような意思が生まれているのではないか、と私は個人的な思い入れで思っています。(多分、こんなことを当のアナリストの人にぶつけても、戸惑われるだけ、却って引かれてしまうでしょうが)

で、大袈裟な結論です。これは何も説明会に限ったことではなくて、IRということ自体にも、あり得るのではないかと思っています。つまり、現時点の株式市場のパフォーマンスとか、時価総額とか、様々な指標はあるのでしょうけれど、それとは別に(全く無関係ではありえませんが)、アナリストや機関投資家といった人たちが、「この会社何となく見守ってみたい」とでもいうような、淡い共感で会社を見るというような方向性もありうるのではないか。あってもいいのではないか。と思っています。

 

※ここで書いたパーセプですが、このようなことをやっている会社は少ないそうです。また、会社に頼まれて、こう言うことをする人も少ないそうです。実際のところ、これをやるには厳しいことでも正面から受け止め、それを会社の上(経営者)に伝える覚悟だけは最低限必要です。そうでなければ、相手は1度は意見を言ってくれるでしょうが、その後付き合ってくれなくなるでしょう。

2012年12月 8日 (土)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(11)

私たちの本性の必然性に基づいた欲望は十全な観念から生じたものである。これに対してそれ以外の欲望は、ものを非十全にとらえる精神に由来し、そのような欲望は、人間の能力によってではなく、私たちの外部の力によって規定されてしまう。十全な観念を持つとき私たちには、私たちの本性に基づいた能動的な欲望が生じる。反対に、非十全な観念を持っている時には、私たちは自らの本性に基づかない外部の力に受動的に依存していることになる。ここで、喜びとは「人間がより小さな完全性からより大きな完全性へと移行すること」であるから、私たちは、十全な観念を持ち、自らの本性からから生ずる欲望に従っている時には、喜びを味わい、非十全な観念を持って自らの本性から切り離された状態でいる時は、悲しみを味わうことになる。このような意味で、共通概念という十全な観念を私たちが持つとき、私たちは喜びの情動に満たされる。私たちは、人間の本質であるコナトゥスの働きによって、それが外的な理由で阻害されない限り、自己の存在し活動する力を増大するのに役立つ他の有益なものと結びつくことを止めない。この衝動=欲望を解放すること。これがスピノザの実践哲学の要である。スピノザ主義者である限り私たちは、自らが喜びを感じ自らの活動力を高めるものと結びつくことを、まるで子どもがそうである様に、止めようとしない。

 

非十全な観念とは、原因から切り離された、すなわち自らの生成因としての力を表現しない観念であり、私たちの表象・知覚・記号などすべての日常的なイマージュがそこに含まれている。スピノザは、私たちの意識のほとんどはこの非十全な認識によって覆われており、十全な観念に出会う頻度の方がずっと少ないことを強調していた。それはなぜかと言えば、私たちが諸々の身体と出会う際の原理が、「偶然の遭遇性」に任されているからである。行き当たりばったりの出会いを重ねている限り、私たちは自らの身体に適合する身体と必ずしも出会うとは限らず、その力を弱め、解体する諸力との遭遇に絶えず悩まされ、場合によってはそれによって死に至ってしまう。

スピノザが『エチカ』の中で繰り返し訴えているのは、束の間の刹那的な喜びをいくら積み重ねても、人は能動的にはなれない、ということである。自らの本性に基づいて行動するということは、自らの力を真に自身のものとして所有することである。偶然の出会いによって外から到来した十全な観念、そしてそれに伴う喜びの情動を、確実にそしてできる限り永続的に味わうことを通して一層能動的な存在になっていくためにはどうしたらよいのか。こうした問題を熟慮して行動するということが、スピノザ主義にとっての、大人になること、なのである。スピノザの理性とは、自らの身体のためにこのような要請をする内在的な力である。

スピノザは共通概念を理性と等置している。とするなら、私たちが他の身体と出会い、その間に共通するものの表現を見る時、すなわち十全な観念が生じる時、そこにはすでに理性があることになる。スピノザの理性は、私たちの日常的な営み─人々と出会い、喜びや悲しみを感じ、食べ物や労働を通して自然と関わるごくありふれた日常的な営み─の中に、すでにして内在している。後は、そこに表現されている理性を、より強固で確実なものにしていこうとする欲望に気づくことであり、一時的な喜びではなく、強固な喜びを求める自らの本性に従うことである。そのためには支離滅裂な出会いではなく、できる限り喜びを多く味わえる出会いが増えるような一定の仕組みを作る必要がある。社会が自然発生的に成立する理由、そしてそれが絶えず改変されなければならない理由はそこにある。人間が連合することによって形作られる社会は、私たちの能動的諸力が展開し、私たちの強さがより一層確固たるものになっていくための基盤を整備する。

日常的なレベルに議論を移せば、私たちはこの社会ないし国家が何かしらフェアではないと感じる時がある。そのような時、私たちは自分たちの社会ないし制度に対し、そして自分自身に対し、何がしかの悲しみを感じないだろうか。スピノザはその感覚を大事にせよといっているのである。それが「正義」だから立ち上がるのではなく、この私に悲しみを引き起こす具体的な相手がそこに存在し、そしてその相手の悲しみ─それが私の悲しみなのだが─を持続させるような仕組みがそこにあるから、それをなくすように私は行動する。いかなる社会制度であれ、それが作られたものである限りにおいて変更可能である。この当たり前の事実を認識しつつ、たとえささやかでもそのような改革的かつ実効性を持った行為に参与しているという実感を持てる時、私たちは、自らがよい出会いを組織化していること、喜びの情動を増殖させようと努めていること自体に、おのずから喜びを見出して行けるはずである。

スピノザにとって理性を行使できる成熟した大人になるということは、いたるところで喜びを増殖させ、より強力な身体、より強力な社会的結合を形作ろうとする内的衝動としてのコナトゥスに最大限の実在的な表現を与えようとすることである。子供になることと、子供が受動的な隷属状態から解放されて能動的な存在になっていくこととの間に矛盾はない。それらは共に、一つの強度の状態を作ろうとする存在の表現に他ならないからである。ただ、自覚的に喜びを組織化するシステムを作る努力をしない限り、強度が持続され、真に能動的な状態を存続させることはできないという点のみが、子供と成熟した有能な人間とを分かつ違いなのである

私たちの日常的な社会的平面のただ中で、他の人々と共に強さを構成していくこと。スピノザにとっての成熟の主題は、決して思弁上の問題ではなく、あくまで具体的かつ政治的な実践の問題なのである。

2012年12月 6日 (木)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(10)

第5章 <強度> <成熟>の主題

伝統的に、理性の行使と意志とは切り離せないものとしてとらえられている。スピノザは、事物を捉えるということが、私たちの意識や主体の行う作業ではないということをはっきりと主張した。あらゆる出来事は、それを把握する主体の意向にかかわらず、おのずから私たちに生起して来るのであり、こうした出来事についての観念の総体が私たちの精神なのである。認識はするものではなく、生起するものである。

この点を踏まえた上で、まずスピノザの認識論の極めてポレミカルな立場を確認しておく。それは、ある観念が真か偽かという古典的問題に対してスピノザが立てた、十全性・非十全性という戦略の意味についてである。というのも、スピノザは十全・非十全という基準を採用することによって、認識論に<力>の問題を持ち込むことに成功し、それが彼の認識論全般、ひいては理性の役割に、ダイナミックで経験論的な側面を付与することに貢献したからである。

スピノザは、「真の観念はその対象と一致しなければならない」と、一見、伝統的な真理の一致説に依拠するかのような記述をしている。一致説とは、対象とその観念との形式上の一致、すなわち対象についての名目的な定義、外在的な名称を問題にする。つまり、対象と観念とを別々の次元におきながら、それらが互いに一致しているとかいないとかと言う場合に前提とされる真理観のことである。しかしながら、彼にとってそのような真理観は、真理の外的特徴を問題にしているに過ぎない。スピノザが真理の内的特徴を備えたものとして挙げるのは、真の観念ではなく、<十全な観念>である。十全な観念とは、自らが産出される原因を表現している観念に他ならないということである。つまり、十全な観念において初めて、観念の内容と形式との分離が克服され、単なる外的表象ではなく実在の表現としての認識の条件が用意されることになる。

外在的な名称ではなく、事物の存在そのものの構造や連結や産出のありようを、その生成因の表現を通して直接教えてくれるような観念。スピノザは十全な観念の特徴をこのように捉え直すことによって、真理の一致説でも一貫説でもなく、「存在論的真理」の概念を提示するようになる。つまり、事物を真にとらえることは、何らかの意志の作用とは関わりなく、真なるものがある種の仕方で産出されるプロセスの問題であるという立場を彼はとるようになるのである。スピノザにおいては、意志を使って、あるいは理性を働かせることによって真理が発見されるのではない。十全なものは表現され産出される。真理の一致説からは導き出されない、力の問題がここに導入されるというのはこの意味においてである。一言で言えば、十全な観念とは、存在し活動する力が精神のうちに自律的に展開を見せることである。存在し活動する力が、一つの産出性ないし能動性として、自己展開するメカニズムとして私たちのうちに定立されるとき、私たちは十全な観念を持つ。というより、私たち自身のありようが十全な観念となるのである。

私たちは、自らの許容能力を超えた表象像についてはその部分あるいは全体を捨象し、それを一般概念ないし超絶的な名辞でどうしてもくくり直してしまわざるを得ない存在である。そのような非表現的でスタティックなイマージュを、揺さぶり、解体し、組み換える力。そしてそのような力そのものとなった私たちのありよう。それが十全な観念であり、スピノザの実践的認識論の持つ破壊力なのである。

 

スピノザは十全な観念の代表的な例として「共通概念」をあげている。具体的な例を考えてみる。ある二つの身体が出会うということ、これは換言すれば、二つの力が出会うということと同じである。例えは、ある人間が別の人間と出会う場合、私とその人間は力を合わせて一つの新たな関係を作り上げ、より大きな力の集合を作り出すことができる。しかし、私たちはいつも力を高める身体と出会うとは限らない。力には二つの力が合成し合ってより大きな力を形作る場合と、互いの力が相手の力を解体する場合との二つのケースが必ずある。

もし、二つの身体が出会って、そこに部分的にでも構わないから互いの組成を破壊せず、むしろ双方の力が組み合わさってより大きな全体を形作るような関係が生じるような場合がある。その時その関係は双方の身体にとって「両立可能性」を持っていると言える。すなわち、スピノザの言う「共通のもの」がある。そしてその限りにおいてそれら二つの身体は、互いに包含する一つのより大きな関係のもとへ移行する。この関係は力の減少ではなく増大を伴うがゆえに、自らの作用因としての力を表現している。従って十全である。

このように考えてみるとスビノザの十全性の議論は、「何が真実か」に答えるものであると言うよりは、「何が本当か」という問いに答えるものであるような、さらに言えば、「何が生き生きとしたものか」と言う問いに答えるものであるような性格を持っていることが分かる。あるものが真理か否かという問いは、主知主義的な問であり、ともすれば観念論的な議論に私たちを導いてしまう。身体と経験にとっての確かさを問う後者の問いかけの方が、活動し思惟する力に関わる存在論的な議論へと私たちを進ませる糸口となり得る。

 

2012年12月 4日 (火)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(9)

自然権は所与のものとして、人間に生具しているものとして捉えられている。ホッブスの場合、人間は自然状態においては自己保存の原理に基づいて、ありとあらゆることをなす権利を生得的に有しているが、まさにその故の状態は果てしのない人間の人間に対する闘争に至ってしまい、超越的な第三項と調停的権力の招来を契約によって要請することが必然的に伴う。そしてその場合、各人の自然権は国家という新たな権力のもとに放棄され、成員は何が自己保存の手段であるかを判断する自由を放棄して、権威の命ずるところに従わなければならない。しかしながら、自然状態から契約を経て国家状態へという移行のプロセスは一つの擬制である。そもそもあらゆることを為す権利を有する個人が、他人も同時にその自然権を放棄するのだからという理由で、自らの自然権を放棄するということ自体が、論理矛盾である。ホッブスの論理には、相手も全く同時に、自分と同じように自然権を一挙に放棄する「はずである」という他人に対する信用ないし善意という、ホッブス自身の自己保存の考えから導き出されないはずの観念が導入されてしまっている。

これに対して、スピノザの場合は、例えば、自然状態においてすら、人間は「眠る」という生きていくのに最低限の事柄を為さなければならず、そのためには他者の保護を必要とする。従って孤立した個人の「自然権」は、実質的な意味においては<事実上>全く存在しないのである。自然権が社会化されているということ、というより社会化された自然権以外に固有の自然権というものは全く想定できないということ、このことは情動と活動力の理論からの必然的帰結である。自然権とは活動力の謂いに他ならない。自然権が個物を存在し活動させる力として規定されているということは、私たちは存在しているからには、どんなに低いレベルであれ自らの活動力を得ているということである。

ここから重要な政治的帰結が導き出せる。それは、私たちがもし自然に対してより大きな権利を有するようにするためにはどうすべきかという問題に対するスピノザ主義的な解答である。私たちがより大きな権利を持とうとすること、それはとりもなおさず、自らの活動力を増大させようとすることである。従ってそのためには、私たちは自らの喜びの情動を増大させるものとの出会いをできるだけ増やしていくことを為す以外に方法はない。個体を構成している諸関係の合致の度合いが、その個体の活動力を決定している。人間にとっては自らの構成関係ちと合成し合い、それを補強するような他の身体との出会いが、自らの活動力の増大を保証する。

私たちの自然権すなわち活動力は、私たちの能力そのものである。そうした能力を増大させるためには、自然権が社会化されたものとして以外規定できない以上、他者との間での集団的協同を自身の最も身近な地点から積み上げていくしかない。権利とは諸々の個人といった単位を越えて貫通する群衆的諸力の結果であり、その成果である。そして重要なことは、スピノザいとって国家の力能とは、このようなミクロな喜びの実践の積み重ねの結果として析出されるものであって、ホッブスにおけるような外圧的で超越的な権力ではないということである。スピノザの主張は、国家の力能の規定が内在的な諸力の合成のプロセスから要請されたものであって、それ以上でもそれ以下でもないということを意味している。少なくともその成員に定位した場合、国家の目的は、私たちが自らの活動力を維持し、それが増大するようにするための確実な保護と集団の力によって与えることである。したがって、私たちの活動力の増大に奉仕しない場合、国家は転覆される危険を常に内側に抱えていることになる。

2012年12月 3日 (月)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(8)

第4章 <組織化>集団的協同の理論

周知のようにスピノザの存在論は、実体・属性・様態の三つの組から構成されている。すなわち実体とは、「それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもの、言い換えれば、その概念を形成するにあたって他のものの概念を必要としないもの」であり、属性とは「知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの」のこと、そして様態とは「実体の変様、言い換えれば、他のものの内に存在し、また他のものによって考えられるもの」のことである。

 

様態とは具体的には、自然界のあらゆる個物及び私たち個々の身体や精神を指すが、その本質はある度合いの力能であり、神=実体の力能の内包的部分、すなわち一定の強度である。しかしその本質が現実の個物として実現するためには、その力能の度合いに応じて、無限に多くの諸部分を帰属させなければならない。例えば人間なら、無限に多くの分子レベルから細胞レベルに至るまでの結合が血液や神経を形作っているように、それらの無限に小さな諸部分は、個体の本質を成す一定の構造のもとに配置・集結され、個物を表現する外延的な部分を構成するようになる。この構造ないし構成関係をスピノザはRATIO(比率・割合)と呼んだ。それは個物の本質そのものであり、このような本質が無限に重層しあってこの世界のあらゆる具体的個物の多様性を形作っている。

ところが、この様態的世界は、実体の中に何の積極性もなく溶解してしまう静的な世界でもなければ、神なる自然の懐の中で各々の個物が自らの本質を本分として安らう牧歌的世界でもない。むしろそれは絶えざる闘争の場に他ならない。というのも、様態の本質は現実態となるやコナトゥスとして、つまり自らの存在を維持しようとする自存力として規定されるからである。個物における各々のコナトゥスは、自らの構造に帰属する外延的諸部分を包摂し、更新し続けようとする。したがって、様態上の世界においては常に、ある様態が他の様態の諸部分を引き入れて自らの構成関係の一部となす事態が起こっている。その場合には他の様態は、自らを構成していた諸部分を解体され、消滅するのではなく、別の新たな関係の中に入っていくことになる。個々の様態はこのように、自らの本質である構造を維持しつつ、その外延的部分の帰属をめぐって絶えざる闘争関係にある。

このような様態的世界はホッブスの言う「万人の万人に対する闘争」の自然状態と似ているが、次の三点でまったく異なる。第一に、とりあえず「闘争」と表現したこの関係は、スピノザの場合、同時に、自分のみならず相手を活かす関係であるということである。第二点は、スピノザにとっては、ホッブスが「万人」と表現したように人間をアトム的な還元不能の実体として捉える見方が存在していないことである。第三の違いは、この自然状態が社会状態になっても消滅しないという点である。

 

スピノザにおいて、個々の様態は自らの本質を実体のうちに有しており、その本質は端的に実体の絶対に肯定的な内包量・強度としての量であった。むろんスピノザの実体は現実態に対応する可能態ではなく、様態において無際限に自らの存在を維持しようとする力(すなわちコナトゥス)としての力能が実現されることによって実在性が明らかになり、その無限な生命の活動性が証明されるような現実的存在である。このようなコナトゥスは、私たちの日常的な経験のレベルでは端的に「活動力」としてとらえられる。したがってスピノザにとって活動力は「喜び」という情動の源泉であり、個体の本質がより多くの外延的諸部分を自らに帰属させる際の原動力としてとらえられている。そしてこの活動力と切り離せない「喜び」とは、「人間がより大きな完全性へと移行すること」を意味し、これは様態が自らのコナトゥスに従ってより大きな実在性を獲得していくことに他ならないのである。

この「活動力」をただ精神の「観想」によって増大させたり、減少させたりというのではなく、精神と身体は同一の秩序・連結を表現するから、この活動力は身体の側での遭遇や連結によって増大し、精神の側で対応する思惟の能力に反映されるのである。

スピノザによってコナトゥスとしてとらえられた能力は、人間においては意志であり衝動であり、欲望と同義である。従って活動力というタームは、私たちが自らの内的必然によって何かをなそうと意欲することであり、自らの能力を発揮しようとする欲望であり、力の増大と喜びを味あわせてくれるような自らの愛するものと可能な限り一致しようとする衝動である。したがってこの活動という言葉には、人間が自由で能動的に生きようと欲するときのすべての活動の源という意味が含まれている。それは、創造し享受する能力・欲求であり、虐げられている人が人間として対等に自らの能力を行使したいと望むときの力であり、それが桎梏とあらば共同体の諸々の枠組みや規制や抑圧を払いのけ、新しい社会的諸関係を創出していく際の原動力に他ならない。それゆえにこの活動力の問題は、善悪という倫理的な問題に関わると同時に、必然的に政治的な問題となる。

2012年12月 2日 (日)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(7)

幾何学的秩序とは、人間が能動的になるとき、身体の能力と思惟の能力とも、あたかも「自律的な機械」ように展開していくという意味に解釈されなければならない。思惟と延長とは唯一の実体の同一の運動表現であるがゆえに、ちょうど精神においては、幾何学がモデルとなって一つの単純な定理から次々とその論理的帰結を導き出すことがその能力であるように、身体においては、内部に原因を持つ最も単純で能動的な力が基点となって、同様の演繹的プロセスを通して多様な身体的能力が展開されていく。スピノザの思想が近代の他の思想と際立って異なるのは、彼がこの身体の自律的な運動に対して、精神における十全な観念の源としての正当な地位を与えたからである。つまり、彼は合理性というものを、超越的に上から到来する精神的な原理でではなく力学自体の必然からすなわち身体の内在的な力の展開そのものとして考えているのである。

ここで述べられている理性が、自然と分離し、それに対して何らかの超越的な権限を持つ力としての理性ではなく、自己の内在的な力の展開の内に能力の実現をみる、自然あるいは実体の一部としての理性だからである。そして、自然はいわゆる所産的自然ではなく能産的自然だからである。したがって極めて抽象的な概念に見えた共通概念が、ここで身体的基礎を獲得したように見えても、そこに矛盾はない。

 

したがって、理性なし共通概念に経験的・身体的プロセスが帰属するという事態は、精神が身体を支配するということではない。理性はここで、身体の活動を増大するような変様を求め、理解し、確知することしかとていない。理性によって確実に把握された身体の変様プロセスは、いわば「それ自体の法則性によって」さらに一層活動力を高めていく。身体の活動力を増す変様を肯定し、より豊富にしていくよう促すのが理性の役目であって、決して身体を一定の目的のもとに統制することではない。この点に、どこまでも内在的なスピノザにおける合理主義の特異な性格がある。スピノザにおいて一切の目的論は、表象知に属するものとして斥けられている。身体の活動力を増大させる変様が喜びの情動に他ならない以上、理性の役割とは外的な目的に奉仕することではなく、喜びの感情に奉仕し、それを増殖させるものとしてしか規定できないのである。

ここから理性の情動的な性格が明らかにされる。

 

さらにスピノザは、人間の理性は、私たちの能動的欲望と不可分のものとされるのである。スピノザの世界観においては、人間も含めあらゆる個物はそり本質としてのコナトゥス─自らの存在を保持しようとする努力─の重層し複合する過程であってみれば、そのコナトゥスが欲望と等置されている人間においては、理性の営みも人間の本質としてのコナトゥスの結果でしかない。つまりそれは、自らの本質を実現しようとする能動的な欲望のプロセスの一つに過ぎないのである。

一方、スピノザは人間の本性を「活動力」と理解している。この活動力の増大とは、端的に「喜び」であり、減少とは「悲しみ」である。従って理性による認識が善とされるのは、決してそれが何らかの道徳規範に合致するからではない。この認識が活動力の増大─すなわち「喜び」─という効果を帰結するからこそなのである。

 

このようにスピノザの理性に関する議論には、決して通常の意味での<合理性>には還元されない、ある種の経験的・身体的側面が存在している。これは、スピノザにおける合理主義が単に経験手記でき傾向との折衷の上に成り立っているということではなく、まさにスピノザの合理主義的体系そのもののなかに、その体系を内側から裏付け、それなくしては体系の存在根拠がなくなるような、身体の能動的プロセスについての理論が組み込まれているからである。

したがってこの合理主義は、スピノザが言う意味での<生>そのものの肯定、すなわち、感覚的なものや経験的なものに対立するのではなく、ただ自由で能動的な生の展開を妨げるものにのみ対立するような合理主義であると主値擁することができる。

2012年12月 1日 (土)

浅野俊哉「スピノザ 共同性のポリティクス」(6)

第3章 <理性>合理主義のメタモルフォーズ

スビノザの言う理性は、第二種の共通概念による認識すなわち自然的物体における運動と静止の客観的認識であるばかりでなく、欲望や感情=情動と密接に絡み合った、経験主義的とすら言える性格を持っている。こうした多様性を持ったスピノザの理性を、一貫した見方で捉えていくことはできないだろうか。

まず理性的認識に至るには、「すべてのものに共通で部分にも等しくあるもの」を理解する<共通概念>を経由しなければならない。ここでは理性的認識の対象は、運動と静止の<比率・割合>の認識であるとされ、私たちはあらゆる個性に共通に存在するものを認識するように要請される。ここで、この認識が第一種の認識を越える地位を与えられているのは、その第一種の認識が一般概念を生み出す限りにおいて、すなわちそれが身体をもっとも多く刺激する一致点だけによってあるものを表象する限りにおいてである。

スピノザにとって、一般概念とは、個物の像が人間の表象力を越えた刺激を与える場合、つまり精神が個々の事物の微細な差異を表象することができずに、ある特定の記号によってそれらの事物を代表してしまう場合に生ずる認識である。それに対して共通概念の認識は、一切のものが運動と静止、速さと遅さの様々な非率から成る集合でしかないとすることによって、現象に過ぎないものを実体視する見方を批判する原理として機能する。つまり、この認識は、私たちの記号や感覚による認識の多くが、流動する運動を任意の一点で抽象化した固定的なイマージュに過ぎないことを私たちに気づかせてくれるのである。そこには形態や有機的器官からではなく、それが何を成し得るかという力の観点から個物を規定する思考の現われが見られるのである。したがって第二種の認識が認識論上の実践的な課題として要請しているのは、一般概念に基づく思考をいったん解体し、現実を諸力の結果として、その相互の触発関係においてとらえようとする思考であると言える。

 

しかしながら共通概念の認識には、さらに進んでもう一つの実践的な役割があることに注意しなければならない。共通概念は、事物の間にある運動と静止の割合というものが、具体的に何であるかを認識することを要求する。それは、個体の個物性を構成する諸部分の<比率・割合>の認識に他ならない。スピノザは個体の本性をまさに要素間の一定の<関係>として考えた。つまり様態としてのすべての個体は、運動と静止の一定の割合を持った集合として捉えられ、それらは速さと遅さ、運動と静止の割合、つまり<関係>の差異によって互いに区別されたのである。ここで言う割合とはその意味で、個物の個体性を規定する<構造>でもある。

スピノザによればこの世界は、個物の本質を成す一定の構造が、互いに自らの割合を維持するような外部の力を獲得しようとしてせめぎ合う合成と解体のプロセスなのである。全く同じ割合を持った二つの体=身体が存在することは決してない以上、それらは自らに固有の力能を保持しつつ、ある局面において別の体と合致し、合成しあい、互いが互いの成分となるのである。

 

これらの体相互の認識が「共通概念」とよばれるのは、少なくとも二つの構造が組み合って合一をする共通の関係を捉える認識であるからに他ならない。極めて重要なことだが、スピノザは、表象や一般概念を市販する理性の基礎を語る場合を除いて、共通概念によって語られる二つの項のうち一方を、必ず自らの身体を意味するものとして指示している。すなわち共通概念はここで具体性を獲得し、ある人間の構造が自らの<割合=構成関係>を補強し拡張する側面にのみ関わるようになる。

スピノザの理性的認識は、抽象的なものではなく身体の変様の認識に他ならない。こうした理性が、表象に基づきながらも一般概念を批判する原理として機能するのは、これが力の場から切り離された静的な記号による認識ではなく、ある体と他の体との間に共通に存在する関係を表象した認識であり、その限りで私たちの能動的な思惟する力の展開の結果として、私たちの体と他の体の間に共通する一定の関係が新たに表現されるためなのである。

 

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