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2012年12月23日 (日)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(4)

つづいて「無意識的なもの」という概念に繋がる哲学者として、どうしても挙げておかなければならないのがショーペンハウアーです。このショーペンハウアー哲学には我々の関心からして無視できない観点がいくつかあります。中でも注目すべきは、その哲学の中心をなす「意志」の概念でしょう。よく知られているように、カントは我々の感性的直観を通して得られる現象の世界しか認識することはできず、その背後にある「物自体」は認識できないと考えました。言い換えると、それは主観によって構成的に認識された世界のみが現実的だということですショーペンハウアーも基本的にはこの認識論の構図を受け入れ、世界は直接的な物自体の世界ではなく、あくまで「表象/観念」の世界だと考えます。ではしんし、そもそもその表象ひいては認識という働きはどこから出て来るのか。こう問うことによってショーペンハウアーはカントから分かれます。表象や認識が可能になるのは、ほかならぬわれわれの内部に何かが働いているからです。それも直接に。

「われわれは単に認識する主観ではなく、他方でまた自ら認識する本質に属している、つまり自ら物自体なのである。したがってわれわれには、外からは迫ることのできない、かの事物の自らに固有な内的な本質には、内なる道が開かれている。」

この「内なる道」は、他の諸々の表象とは違って、むしろ認識者の主観内部に直接感じ取られるものであり、その意味で「物自体」だとショーペンハウアーはいうのです。物自体はカントでは対象の背後に想定されていたのですが、ショーペンハウアーでは逆に主観の奥に想定されていることが分かります。そしてこの対象の側から主観の側にひっくり返された物自体としての通路こそがショーペンハウアーのいう「意志」にほかなりません。

ショーペンハウアーの狙っているのは、表象され、ある意味で対象化されてしまった現象ではなく、あくまでそれを生み出す主体の内奥からでてくる衝動のようなものです。ショーペンハウアーの場合、この「意志優先」の原則は人間のみならず、あらゆる有機体から無機物にまでおよびます。つまりすべての存在者の根底に物自体としての意志がはたらいているというわけです。これはこれまで見てきたロマンティクの発想とも通じます。我々にとっての問題は、こうしたあまねく広がる意志を中心に置いた世界観ないし宇宙観と無意識的なものとのつながりです。ここではショーペンハウアーとフロイトの類似性を事細かに論じたツェントナーの著作『忘却への逃走』の記述を借りることにします。ツェントナーはショーペンハウアーの「意志」とフロイトの「Es」すなわち無意識的なものとを比較して、そこに26項目におよぶ共通点を見出すと共に、ショーペンハウアーの「知性」とフロイトの「自我」との間にも15項目にわたって共通点を指摘しているのです。ここでは、前者の共通点を要約して示します。

第一は、ともに我々の精神の内奥にあって、その精神を根源から成り立たせている一時的な物だということです。第二は、それが「欲動 Trieb」のダイナミズムにおいてとらえられているということ。第三は、因果律や論理さらには時間から自由な存在であるということ。第四は、ともに意識によってはとらえることができず、もっぱら象徴や比喩を介してアプローチされること。そして第五には、その内部では快・不快の原理が働いており、とりわけ性的欲動に焦点が当てられていること。まだこのほかにも両者がよく似た比喩をつかっていることとか、新生児への関心が強いとか、いろいろ挙げられていますが、ツェントナーの著書の要点はこの五点に尽きるでしょう。私自身はこれに第六点として、両者が死の観念およびペシミズムに強い関心を示していることを付け加えておきたいと思います。

このような中で「無意識的なもの」という言葉が単なる否定形の形容詞から、実体とまでは言わないまでも、なにかそれに匹敵する積極的な何ものかを言い表す概念として定着し始めました。社会的にそういう時流が生まれていたと言えます。

この時流という意味で、「無意識」という概念と並んで、というかこれに連動して、この時期に注目される特別な言葉がもう一つあります。「Es」という言葉です。いうまでもなくドイツ語の「それ」を表わす代名詞「es」のことですが、ちょうど「Unbewuβt」という否定の形容詞が概念の時熟にともなって「das Unbewuβte 」という大文字の名詞に変じたように、ここでも小文字の「es」が大文字の「Es」に変じていることに注意が向けられなければなりません。

先ず出発点となる三人称中性の代名詞「es」ですが、既述の特定の事柄を「それ」として直接指示する、いわゆる指示代名詞です。しかし、問題となるのはこの指示機能ではありません。むしろ非人称代名詞として使われる場合です。雨が降ることをドイツ語では「Es regnet.」と表現します。これは英語の「it」と同じ非人称の用法で、「es」自体には特定の意味はありません。この「それ」は何であるかはっきりしない、いわば匿名の状態や雰囲気のようなものです。さらにドイツ語独特の表現に「es gibt」というのがあります。文字通りには「それが与える」なのですが、ひれは英語の「there is」やフランス語の「il y a」に当たる表現で、ただ「ある」を意味します。問題はこうした言い回しに出てくる「es」を文字通りに「何ものかとしてのそれ」と理解したら、どうなるかというところから生じてきます。あくまで不特定で、「これ」とはっきり指示できないとはいえ、それ自体何らかの力や能力をそなえた「それ」としての何ものかが「雨を降らせ」たり「与え」たりする、と考えたらどうなるかということです。この「それ」を神と同一視すれば、そこに神話や宗教が生じます。しかし「神が死んだ」19世紀の思想家たちがやったのは、これを「神」の代名詞やメタファーとすることなく、あくまで不定のままでありながら、なおかつ能動的なはたらきをする特別な存在や力を言い表わす言葉として解釈する事でした。

ニーチェは近代哲学の前提として自明視される「自我Ich」に懐疑的でした。だからデカルトの「我考える、ゆえに我あり」にも根本的に懐疑の目を向けます。その意味で、意志を「個人/個体」に認めようとしたショーペンハウアーにさえも不満でした。だから「私が考える」に代わる「それが考える」は、今日風に表現するなら、近代的思惟の桎梏ともいうべき自我中心主義を一歩相対化し脱構築するものであったのですが、ニーチェの目にはそれさえもまだ言い過ぎと映ったのでした。このニーチェの「es」に対するスタンス、それが今まで見てきた一連の「無意識的なもの」を哲学的に先鋭化したものです。「それ」はもはや言葉では表現しえないものでありながら、にもかかわらず人間の思惟の担い手ないし、そういってよければ真の「主体」だという発想がここには如実に読み取れます。言い換えれば「私が考える」のではなく、私という場を借りて、「それ」としか言いようのないものが考える、という立場です。だから「私」とはあくまで「Es」という言葉で辛うじて暗示される、匿名の能動主体あるいは意志のひとつの現れにすぎないのです。ある意味では19世紀末におけるこの「Es」をめぐる言説の流布は「無意識的なもの」という概念の時熟とパラレルな関係にあったと言っていいでしょう。

このように「無意識的なもの」およびそれに連動する「Es」という概念を中心に19世紀ドイツの思想潮流を通覧してきたわけですが、この二つの概念の特徴は何と言っても、その規定不可能性ないし表現不可能性にありました。つまりそれらは「無意識的なものdas Unbewuβte」というように、否定の接頭語「un-」をつかったネガティヴな表現によってしか言い表し得ないものか、または「Es」のように、もっぱら漠然と暗示的に表現する以外にないものでした。それが20世紀に向かって次第にポジティヴな姿をとって立ち現われてくる様子が見えたと思います。それと同時にフロイトの格闘も、まさにこうした大きなうねりの中から出てきたものです。精神分析というのは、フロイトという人物の単なる個人的な思いつきでもなければ、突然どこからともなく降って湧いた奇想でもなく、むしろドイツ語圏を中心とする大きな思想潮流がたまたまフロイトという天才的な人物においてひとつの表現を得たものだということが言えるのです。

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