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2012年12月31日 (月)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(12)

ここのようなメランコリー分析の成果を生み出したにもかかわらず、当初フロイト自身が「私自身はどれほどまで信じているのか、自分でもよくわからない」と言っていた問題含みの死の欲動/攻撃欲動という仮説概念は、当然のことにフロイトの周囲にもおいてもあまり評判の良いものではありませんでした。さらにフロイトは「無機物への回帰」である死の欲動と破壊活動の関連について次のような推理を述べていました。

「この二種類の欲動はどのような仕方で互いに結合し、混合混交しているのか、ということについてはまたまったく想像もつかないほどである。しかし、このことが規則的かつ大規模に起こっていることは、われわれの脈絡にとって避けられない仮説である。単細胞の原基有機体が多細胞生物へと結合された結果、単細胞の死の欲動が中和化され、その破壊的な活動がある特殊な器官に媒介されて外界へと逸らされるということに成功したのであろう。その器官とは筋肉組織のことで、死の欲動は外界及び他の生物に対する破壊活動として出てきたのであろう」

フロイトを読み直すに当たって、著者は分子生物学のアポトーシスの考えに関心を抱いていたと言います。この関心は死の側から生を見てみるというパースペクティヴの逆転や性と死の同時成立という内容に限られていたわけではありません。というのも、アポトーシスというのは「プログラム化された細胞死」のことでした。つまり細胞は遺伝子からの指令を受けて自ら死んでいくのでした。このプログラム化された細胞死には二種類があると言います。ひとつは例えばオタマジャクシが蛙に変態していくとき尻尾を失ったりする時の尻尾の細胞の消失がアポトーシスの働きによると言われています。また、生体にとって異質な癌細胞や老廃した細胞を積極的に排除するのも同じ働きから来ていると言われます。そうなるとアポトーシスというのは、あくまで生体ないし個体の生を前提とし、それに奉仕する「細胞死」と理解してよいようです。そして、このアポトーシスは専ら再生可能な幹細胞において起こるということです。では、これに対して神経細胞や心筋細胞のような、個体の生命を直接左右する再生されない細胞に起こる細胞死が二つの目のアポトーシスに関わってきます。ひとつの目の意味のアポトーシスがあくまで「個体の生命維持」のためにあるのだとしたら、二つの目のは反対に非再生系組織の死によって、それが直接「個体の死」をもたらすからです。そして、この二つの目が個体の寿命の決定的要因となるわけです。ここで、フロイトが参照したヴァイスやゲッテの死の論議は、もともとそれぞれの生物にはなぜそれぞれに見合った寿命があるのかという関心から出て来たものです。つまり彼ら論議において「死」とはこの「寿命」すなわち「個体死」のことを意味していたというわけです。フロイトが死の欲動の究極的定義とも言うべき「無機物への回帰」を想像したのは、この論議のコンテクストにおいてでした。この講の最初から繰り返しているように、フロイトの「死の欲動」という概念に関する大きな謎のひとつは「無機物への回帰」と「破壊欲動」がなぜ同一視できるのかということでした。「無機物への回帰」が寿命に関わるアポトーシスとしての死に対応しているとするなら、もう一つ「破壊欲動」が「アポトーシス」としての死に関係して出てくる現象ではないかという推量です。アポトーシスというのはあくまで個体維持のためのものでした。ここで生じる「死」は、ある意味で個体が異他的な細胞を「殺す」ことと解釈することができます。これに対してアポトーシスは個体が自分自身の死を命ずるわけですから、「殺す」というより、自動詞的に「死ぬ」と表現したしたほうがよいはずです。「破壊」とか「攻撃」というのはもともと対象、他者、外部を前提にした概念です。原基的には「破壊」や「攻撃」というのは、あくまで自分とは異なる対象や他者の認知とそれに応じた自己の形成があってはじめて成り立つものと思われます。つまりは一定の自他関係、そういってよければ主客関係を前提にしているということです。「他なるものの認知」がなければ「殺す」という他動詞的行為は不可能です。免疫システムにおいては分子レベルでの「自己」と「非自己」の区別が前提になると言われています。このようにアポトーシスのほうに異他認知に基づいた「攻撃」の原基があるとしたなら、それが何らかの仕方で組織化され、一定の形を取ったもの、それが「破壊欲動」に繋がっていると考えることはできないでしょうか。有機体の多細胞化に伴って、異他認知をもったアポトーシスの働き自身もまた何らかの形で組織化され、それが個体の内部から外部へと放出されるようになったのではないかということです。さらに進めれば、すべからく自他の差異に基づいた異他認知を伴う対象化という働きには本質内在的に「攻撃する」とか「殺す」というファクターがついて回るのかもしれません。つまり対象化の中には多かれ少なかれはじめから一種の「攻撃」が組み込まれているということです。あるものを観察するとは、自分が当事者として巻き込まれない程度にそれに対して距離をとり、その対象としてあるものをひとつの「物」として見るということです。しかしそれはあるものを、あるものに即してあるがままに見るのではなくて、そこから切り離された主体の側がそのあるものを構成し、つまりそこに介入し、その意味ですでに「死んだ物」を「攻撃的」に観ることにならないでしょうか。自然科学の基礎をなす観察には、根本のところで何かそのような冷たいものが潜んでいるように思えてなりません。

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