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2012年12月15日 (土)

河井徳治「スピノザ『エチカ』」(1)

序章 スピノザの視点

エチカは倫理学と訳され、アリストテレスに始まる。アリストテレスには禁欲主義を説く気はさらさらなく、極めて大らかな人間観察に基づいて最高善とは何か、幸福とは何かを解明しようとして見ようとした。

エチカは住み処を意味するギリシャ語のエートスを母語とするラテン語である。一定の住み処で人々が暮らすためには慣習や道徳、規範が生まれる。アリストテレスは、こうしたエートスの基底となるものが何かを問い、人間存在にとって求めるに値するもの(善)が数ある中で、祖家らを統括する究極の善を明らかにし基礎づける哲学を実践哲学として確立し、普遍なもの、必然的なものを求める理論的な哲学、つまりは自然学や形而上学の課題から区別したのである。アリストテレスは、実践上の判断について目的と手段の区別とその連鎖を発想の原点に据える。「人は何のために生きているのか」という問いに、もし空しさを感じることがあれば、それは様々な目的、それらが要するに「善」なのだが、その希求する様々な善が確固たる一点に収斂せず発散してしまうからだと考える。そして人々が様々な善を有機的に統括する究極の目的、最高善が何かを問い直すのである。そうした行為の判断能力は「思慮」と呼ばれるが、「技術」もそれに類する実践的能力である。このような実践的能力は、医術は健康を、経済は富をと言う具合に、それぞれが目指す目的のために発揮され、その目的にそれぞれの善があるわけだから、アリストテレスは技術が思慮に従属すると考えた。ではそれらの諸善を統括する究極目的、最高善は何か。それは幸福である。幸福とは何か。自ずから足りること、自足することである。

それにひきかえ、近代になると事情は逆転する。社会形成と政治形態に対する考え方が伝統的コミュニティーを母体とする考え方から権力支配を母体とする考え方へと大きく転換した。

アリストテレスの倫理学の考え方で最高善である幸福は自足と言ったが、その時速とは「機能を発揮すること」とも言い換えられる。人間の営みに快が伴うのは、それらに人間の機能が働いているからである。共同体の成員の幸福を実現するには共同体の政治が善くないといけない。ポリスの運営と言う社会的分業の中で、各人が自らの適性と能力に応じて適材適所でその能力を発揮するところに、それぞれの自己実現の充実感、幸福が成り立つことになる。この政治が善く行われる目的は、各人がそれぞれに「人間の機能」を発揮することで得られる自足を実現することだとした。

アリストテレス説く倫理学の要点は、スピノザの『エチカ』の構成と微妙に重なって見えてくる。しかし、アリストテレスとは決定的に違う視点も明らかになる。アリストテレスによれば、倫理学説は根源的な原理にまで遡ってそこから始める必要はなかった。人々が何が善かと言うことは心得ている、なぜそれが善なのかと言う点を根拠づければ良いという訳だ。既成の諸見解を掘り崩し「道徳的回心」を求める必要はなかった。ところがこの回心を求めたのがスピノザだ。新たな原理のもとで善や正義や徳などの倫理的価値概念を鋳直さねばならなかった。

デカルトの哲学上の関心が、確実な知識を得るためにはどのような「私」の思考を導くべきかを問題にしたとすれば、続くスピノザは、人生の虚しさを克服し真に幸福を与える善を得るには「私」はどうすればよいのかを問題にしたと言えるであろう。ここで問いを発するのは近代的な個人である。その問いは個人が確実な知識をその生き方に生かす哲学、つまりは宗教的救済にも比肩できる近代のエチカの創立へと向かわせることになった。

スピノザは数学に加えて新たに実証的自然科学の観点とその成果を背景に目的論的世界観を否定する観点を打ち出した。つまり、スピノザは、原因を目的因ではなく起成因に限って考察する幾何学の証明や実証科学の手法に従って『エチカ』の考察を進めようとしたのである。当然その倫理学は、目的─手段の連鎖を基軸に最高善や幸福を考えるアリストテレスの倫理学とは対極の観点に立つことになる。

事物の存在の原因をアリストテレスは四つあると考えた。目的因、形相因、質料因、起成因の四つである。人工物を例に挙げてみる。銅像がここにあるとしよう。造る目的がなければ銅像は造らない。また像の形が銅像にしているのだから、形相因。また銅という素材は銅像にする質料因だ。そして質料に形相を与える働き、それが起成因であり技術の役割である。銅像が現に存在するためには以上の四つの原因が働いていなくてはならない。制作物を観察して分かるのは質料因と起成因だから、アリストテレスの目的因と形相因を主原因とする観点の対極に起成因を主原因とみなす観点ができる。これが近代科学・技術の立場だ。人工物ならば起成因は制作物の外から関わるが、自然物は起成因が自然物自体にある。つまり起成因が運動の始源だ。技術は育む役割に変わる。有機体としての自然物は、その形相ないし本質が生命であり、その質量が自然的物体であり、両者が結合した一個の個体が生命体だ。アリストテレスの「魂」はその生命体を機能させる目的である。例えば眼は見るという機能を発揮してこそ生命体としての機能を働かせている魂が宿っていると考える。だからアリストテレスにとって「運動と静止の始源」にあたる起成因は、形相因として個物に内在する目的だったことになる。目的を起成因としたのである。彼はこのように目的が自らのうちに内在する状態をさしてエンテレケイアとした。このように形相が統合的な目的として質料を有機的に統一するという考え方は、自然自体を有機的な全体として捉えることになる。アリストテレスは自然全体を質料とする形相、つまり自然に内在し自然を自然として保有する目的は神的ヌースが与えることになる。アリストテレスの『倫理学』の構成も、こうした彼の形而上学、自然学の原理に支えられている。目的因を除けばその倫理学は成立しない。

これに対して、デカルトは機械論的な自然観を導入し、物体相互の運動を介して因果的な自然の生成を語った。その運動は目的因を排除してもっぱら起成因の概念で説明されている。しかし、内的形相としての魂の動きは拒否された。生命活動自体が機械論的運動であり、紙はあくまで超越的で、被造物に対してその存在を瞬間ごとに支え続ける連続的創造の神が起成因として働いて被造物を維持するが、決して内在的ではなかった。

また、ホッブスは、例えば円の定義は「平面上の一定の直線の回転から生まれる図形である」と定義するのが発生因、つまり起成因を含んだ定義であると考える。普通、円は「平面上の或る一定点から同一の距離にある点の連続」と定義されるだろう。それが円の特質を表わしているからである。しかし、それでは、どうしてそのような特質をもつ円が生まれるかは示すことができない。ところがホッブスは神学的課題であるとして哲学の課題から排除した。ホッブスは神の創造の技術を人工的に模倣するという仕方で自然の起成因の究明を行い、起成因を直接紙に求めるのを避けた。

これに対してスピノザは起成因となる神の定義をもとめ、そこから出発しようとする。自然の始源となる神の、いわば発生論的定義の可能性の条件を求めた定義を設定し、これが一切の起成因になると明言した。「絶対に無限な」ということは無限性の究極段階を指している。要するに真に無限なるものが神であり、この神だけが超越的でなく内在的な起成因となる、とスピノザは確信した。それは自然に内在し自然を形成し、それゆえに「自然の一部分」にすぎない我々にも内在し、我々を形成し、その無限者からいかに離れようともがいても離れることができず、我々を活かし支えている神だということになる。

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