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2012年12月20日 (木)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(1)

我々の周りには死が氾濫し日常化しています。私個人に限ってみても、周囲に沢山の死を見てきました。そして今では自分もまたやがて彼らと同じように何れは死んでいく身であることを思い知らされています。無論こうしたことはなにも私だけに限ったことではありません。それは例外なくだれの身にも降り懸かること、避けられないことです。だからこそ人は問い続けてきたのです、死とは何かと。

しかし皮肉なことに、その事態の真っただ中に立つ当事者である死者はそれを問うことができません。だから人は生きる限りにおいて死を問うほかはありません。しかし生が死を問うとはひとつのパラドックス以外の何ものでもありません。死は生にとってどうにも手の届かぬ「彼岸」だからです。それはそもそも生の側からは語りえないものと言うことができるかもしれません。こうして死は我々の日常において不断に遭遇する近しい出来事でありながら、基本的に「語り得ぬもの」として遠ざけられ、忘れられていくことになります。しかし私にはこの自明の事実が時に疑問になることがあります。本当に死は語り得ないものなのだろうか、あるいは我々はこの生死のパラドックスに耐えて、一体どこまでそれを語る努力をしてきたのだろうかと。

語りえぬものへの挑戦を歴史的にもっとも象徴しているのは「atom」という言葉でしょう。日本語では「原子」と翻訳され、輸入されているわけですが、これはもともと否定の接頭語「」と動詞の「τομεω」からなるギリシャ語の「τομεω」に起源を持ち、「(いれ以上)分割されないもの」ほどの意味で使われていた言葉です。あえて語源に即して翻訳するなら、「不分子」とでもなるところでしょうか。これを特殊な哲学用語としてつかったのがイオニアの自然哲学者デモクリトスであるとは、哲学史の教科書などでもよく触れられていることです。注意したいのはこの言葉の一部をなす否定の接頭語「」です。これは後のヨーロッパ語、たとえばラテン語の「in」やドイツ語の「un」などに転換されて引き継がれていくわけですが、「atom」ではそのままギリシャ語の原形が残ったことにナリス。いずれにせよ、ヨーロッパ語の中にはこのような接頭語を持つ語が少なくありません。こうした否定の接頭語を冠した諸概念のなかに、その後ドラスィックにその意味内容を獲得し、さらにそれを充実、変転させていったものが少なくないという事実です。周知のように「atom」すなわち「原子」は、今日ではもはや「分割不可能なもの」ではありません。それどころか、20世紀の物理学の劇的な展開が示したように、それは次から次へと分割されつづけ、ついには「物質」としての「実体性」さえもが疑問に付されところまで進んだのでした。つまり、初めはたんに「分割されないもの」とネガティヴにしか表現できなかった概念が、その後の知的挑戦によってそのネガをポシに変えられた典型例がここに見られるのです。

この「atom」によく似た言葉のひとつに「individual」と言う言葉があります。「atom」が物理学を中心とする分野でその内容の先鋭化と、その結果としてのネガからポジへの変転を経験したしたのだとすると、「individual」の方は、どちららかという社会科学、生物学あるいは哲学といった分野でその進展を見たのでした。興味深いのは、この「分割されないもの」という原義をもった「原子」と「個人/個体」がはからずも近代という時代になって並行してその概念の進展を見たということです。類似の表現構造をもつ二つの言葉が、かたや物質ないし自然のベースとして、かたや人間ないし社会のベースとして、いわばグランドセオリーの基本概念としてつかわれていったこと、そこに「近代的パラダイム」と呼ばれるものの思想的ないし哲学的特徴があったと言ってもいいでしょう。言い換えるなら、原資と言う表象を要素とする機械論的な思考モデルがそのパラダイムの内容を成していると言ってもいいかもしれません。

思想や理論歴史をこういった観点から振り返ってみた時、無視して通り過ごすことのできない際立った例がまだひとつあります。それが本書のテーマとなるフロイトの切り開いた精神分析という分野です。精神分析は基本的には「Bewuβtsein 意識」と「das Unbewuβte 無意識的なもの」を区別することに始まります。注意してほしいのは、フロイトは「意識 Bewuβtsein」の対概念にけっして「Unbewuβtsein」という表記を当てていないということです。日本語で無造作に「無意識」と訳されてしまうことが多いのですが、原語はあくまでun-という否定を意味する接頭語のついた形容詞形「Unbewuβt」を名詞化した「das Unbewuβte 」、つまり「意識されないもの」です。この表記法からも推察できるように、フロイトは当初これを意識のネガとして想定し、そこから自己の理論構成を開始したということを忘れてはなりません。一言で言ってしまえば、フロイトという人はつねにネガティヴにしか表記できいものに関心を示し、そこにポジとしての分析や理論をうちたてようと格闘し続けた人と言えると思います。本書は基本的にはこのフロイトの精神分析の中心概念「無意識的なもの」をテーマにするのですが、その最終ターゲットはこの「無意識的なもの」をもう一歩先に進めたところに出てきます。それは、それ自体すでにポジティヴには表記不可能な「無意識的なもの」の、そのまたない奥に位置するとされる「死の欲動 Todestrieb」と呼ばれる概念です。死というのは一般に生の反対概念として受け取られ、生が消失する事態として理解されています。つまりそれはあくまで生というポジに対するネガとして受け取られているということです。ところがフロイトはこれに「欲動 Trieb」という語を結びつけました。こういう語が結び付けられると、死はもはや、それ自体ではポジティヴな意味を持つことのない単なる生の裏返し(ネガ)というわけにはいきません。生ではなく、死そのものが「欲動する」というのですから。そこには「欲動」する積極的な何かが認められるのですから、これはネガからポジへの反転の一歩だと言ってよいでしょう。フロイト、とくに後期フロイトの異様性ないし特異性はまさにここにあります。

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