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2012年12月24日 (月)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(5)

第2講 想像的解釈とメタサイコロジー

そもそもフロイトがこのような語りえないものに対してどのようにアプローチしようとしたのか、その基本的な態度のようなものを明らかにしておきたいと思います。

語りえないものへのアプローチは暗闇の手さぐりに似ています。こういう状況においてわれわれは全く無力なのでしょうか。無力のようでいて、確かに行われていることがいくつかあります。ひとつは我々が「試みに」自分の身体を動かしてみるということ、もう一つはその試みの結果として得られる「しっかりとした物」を支えなり足場にするということです。しかもこの暫定的に与えられた「しっかりした物」に対して我々はそれまでの知見を総動員して「仮の」表象なりイメージを作り、とりあえずそれを信じて次の動きに移るということが起こります。この仮のイメージはまだ確かめられたわけではありませんから、けっして具体的ではありえません。それはただ手触り足触りで具体的なだけで、相変わらず漠然としています。あえて言えばそれは多かれ少なかれ抽象的であらざるを得ないわけです。抽象的であるけれども、どこか安定性のあるもの、それが頼りとなります。我々の行うことはこれで終わりません。次にこれらの都度出会った比較的安定した物どうしを結び付けて、そこに一種の配置関係を思い浮かべようと努力します。そしてその暗闇をなす空間全体がおおよそどのよう構造になっているか、自分がどこに立っているかを、たとえ間違っていても、想い描いてみることになるでしょう。

以上、一般的な例に即して見たことは、そのまま「無意識的なもの」という「暗闇」の探求にも妥当します。フロイトは学問というものについて、「学」とはドイツ語のWissenschaftです。これは文字通りには「知の集積体」を表わす言葉ですから、あえて言えば「学」とは「一定の形式やルールを備えた知の集積体」ということにでもなるのでしょうか。いずれにせよ、この学が扱う知は経験事実そのものではありません。本質的に語りえない暗闇としての事実そのものをターゲットにして造り出された抽象的で不確かな観念とそれを介して抽出される限りでの「事実」です。この観念はさしずめ暗闇の中でおずおずと差し出される手足に似ています。それが暗闇の中にある本体に到達できるという保証はまったくないのです。それは自ずと試行錯誤とならざるを得ません。だからその成果は、いつでも変更可能な「取り決め」であることに甘んじなければならないわけです。フロイトにとってそういう試行錯誤の真っただ中にあるのが、他ならぬ「欲動」という観念でした。その意味で、我々が、これから読もうとしているテクスト『快原理の彼岸』には初めから終わりまで試行錯誤や自己吟味の言葉が何度も繰り返されることになります。フロイトは、さらに自己否定的な言辞も書いています。出から読者の中には初めからこのような態度で書かれたものを全くの戯言と見なす人もあるかもしれません。にもかかわらず私には、まさにこういう混乱を招くほどの問題の書にこそフロイトという天才的な人物がなりふりかまわずその知性をぎりぎりのところまで突き詰めてみた姿が見えてきて、逆に大いに好奇心を煽られるのです。

ここで使われている用語として「思弁」という言葉について少し触れておくことにしましょう。ドイツ語の「Spekulation」には投機という意味もあり、思弁と投機では両者の類縁性がよく見えてきません。「Spekulation」はラテン語のspeculatioに由来する語で、もともと「窺い探ること」すなわち「偵察」と「洞察」の両義を意味する言葉です。そのニュアンスを一般化して表現するなら、与えられた経験を超えて考察をめぐらすこととでもなるでしょうか。探偵は数少ない証拠物件(与えられた経験)から様々な推理を立て、捜査を行います。こうした原義から投資家や相場師が特定の限られたデータをもとに、それを超えた推理を立て、その思惑(期待的推理)のもとに投資を行います。その思惑は多分に主観的な期待のかかった推理ですから、当然リスクが伴うことにもなります。これが投機です。哲学の分野の思弁もこれによく似ています。「Spekulation」とはあくまで与えられた経験的事実を超えて思索をめぐらすことであり、一般的には理性や論理(だけ)に基づいて考察をめぐらすというような意味で使われています。フロイトのいう「Spekulation」もこういう原義から離れているわけではありません。彼の直面している対象はあくまで「語りえないもの」でした。それは自分の目前なり、内部に直接経験される事実です。ただ、それを語る言葉が見つからないのです。言葉が見つからない以上、それがどのような性格をもっているのか、どのような構造になっているのかを明らかにすることはできません。そこで「経験的事実を超えた推理(思惑)」としての「Spekulation」が一役買うことになります。それは経験的事実にもとづくものであるとはいえ、一種の想像を伴った解釈のようにものですから、その推理が高ずるにたがって、経験的事実とのつながりが不確かになり、ときには空想にも似た推理にまで進んでしまうがあり得ます。『快原則の彼岸』というテクストはその「Spekulation」を思う存分開放してみた、いわば思考実験でもあるのです。しかし、「Spekulation」といっても、フロイトの場合はあくまでひとつの「学」を打ち立てるための基礎概念を求めるという意図のもとに行われるものであることを忘れるわけにはいきません。つまり、単なる個人的な思いつきのレベルにとどまっていてはならないのです。

この「Spekulation」に関連する言葉として「仮説 Hypothese」という言葉はギリシャ語の「ヒュポテシス」に由来します。「ヒョポテシス」とは文字通りには「下に位置すること」を意味しますか、それが土台となって、その上にさらに積み上げることができるものというニュアンスを伴っています。この仮説も単なる一回的な思いつきのことではなく、それを基にしてさらに考えを発展させることができるようなベースとなる考えを意味しています。科学において仮説は不可欠です。今日の先端科学の状況を見れば、仮説を前提としない実験はあり得ませんし、テーマや対象が深められれば深められるほど観察もまた仮説や装置に依存してきます。そういう意味では科学の世界において仮説は絶え間なく作り続けられていると言ってよいでしょう。その膨大な仮説群の中から一定の信憑性を獲得した物だけが、発見や公理となって、ときには世を画するグランドセオリーとなって新しい研究分野や学科を創出することもあり得るでしょう。いわゆる「パラダイム」の成立です。

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