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2012年12月29日 (土)

小林敏明「フロイト講義<死の欲望>を読む」(10)

他方では、彼には理想的な環境状態が与えられるなら、生殖行為の繰り返しによって生命体はその生を永久に維持できる可能性を持っているかもしれないという疑念を簡単に払拭することはできませんでした。これがまったく無根拠な推理でないことが当時の生物学界を揺るがすことになります。そもそも、当時の生物学者の間には有機体が内的必然によって死を内包していることに一致した見解がないということで、何を以て死と定義するかということさえ不確かだったことです。アウグスト・ヴァイスマンは新ダーヴィニズムを代表する人ですが、彼によれば、生殖細胞は基本的に不死で、死ぬのは体細胞及びその集合体としての個体です。体細胞の死は体細胞と生殖細胞の分業の成立によって必然となった生殖メカニズムが選択原理に従いつつ円滑に作動するためには、一度それに使われた個体(細胞)は種にとって不必要になるばかりか、支障にさえなるため、死滅して次の世代に席を譲るようになっているというわけです。究極のところ、死とは一種の適応現象なのです。これに対して、アレクサンダー・ゲッテは死はもともと生命体の中にセットされた必然性であると批判します。ヴァイスは単細胞生物には死がないというが、「シスト」という細胞の機能停止状態がこれに当たるという。しかし、死は最終的な停止という常識とは、ゲッテの主張は無理があるように見えます。フロイトに戻れば、ヴァイスマンの主張には胚細胞が生の欲動に、体細胞が死の欲動に類似性を見ることができます。しかし、フロイトは単細胞ひいてはすべての細胞に死が内在している、あるいはインプットされているという結論を期待していて、その期待が満たされれば、生の一部ではなく、生それ自体が本質的に死を孕むというテーゼを徹底できるからです。つまり、フロイトの死の欲動という仮説概念はみかけほど強い実証的根拠に笹売られているわけではないのです。

フロイトの欲動論というSpekulationが死守しようとしているのはエロースとタナトスの二元論です。この二元論を原理において、フロイトはアンビヴァレンツの概念に新たな解釈を与えます。アンビヴァレンツというのは、心理学的にはとくに二つの相矛盾する情動が同時に認められる概念で、俗にいう「愛憎相なかばする」といった言いまわしに見られるような感情のことです。フロイト理論において重要な意味を持つアンビヴァレンツとは、普通の意味と同じように、同一の対象に対して「愛」と「憎」の矛盾した感情が生じてしまうという事態を指しますが、フロイトはこの二つの感情こそほかならぬ生の欲動と死の欲動の現われではないかと考えたわけです。とはいえ、愛が生の欲動の核をなす性欲動とつながることは明らかだとしても、憎しみの感情と死の欲動を直接同一視するのは必ずしも自明ではありません。しかし、フロイトはこの憎しみを「攻撃性」一般に置き換え、それを死の欲動と重ねます。ここで、フロイトが早くから倒錯した幼児の性欲として認めていたある概念に新たな光が当てられることになります。それがサディズムです。倒錯とはいいながら、サディズムの中にエロースと「攻撃」というかたちをとった死の欲動の同時的共存が見られるのではないかとフロイトは考えたわけです。さらにサディズムにおける対象に向けられた死の欲動が転じて、自我の方に向かったのが同じく倒錯的な部分欲動としてのマゾヒズムになるということになります。

さて、死の欲動に対置される生の欲動とりわけ性欲動の方に関しては、この性欲動の原初的形態としてはっきりしているのは「接合」という現象です。異なった胚細胞との合体としての接合が若作りをもたらし、それが生命維持の源となっているわけです。ここでフロイトは接合という事態に直結する生命差異という概念を持ち出してきます。つまり、異なった生命体との合体すなわち接合の瞬間に新しい生命差異が導入されるというのは、それまで一定の安定状態にあった生体に外部から別の生命的要因が加わるということです。この要因とは具体的にはたしかにもう一つ別の生体のことであり、ミクロにはその生体の胚細胞のことでしょうが、究極的には必ずしも細胞である必要はないかもしれません。「生命差異」という極めて抽象的な表現は差異をもたらす活性化能力のようなものだと考えた方がよいと思われます。いずれにせよこの外部ファクターとの合体によって、それまで安定していた生体の内部に緊張が生まれます。その意味でそれは一種の支障をきたすわけですが、しかし同時にそこには若返り現象が起こりそのリフレッシュされたエネルギーをもって自立した生命系列が金知様を緩和し、生体は再び安定化するというメカニズムが考えせれるのではないでしょうか。もし以上のような推測が可能だとすると、接合による生命の連続にとって決定的な意味を持つのは、異なる者同士の出会い又は合体にこそ生命を持続させる源があるということになります。これは一種の分節化、差異化の運動です。つまり差異の出会いに触発された新たな差異化とでもいうべきこと、これが生命持続のベースを為しているとまで言うことができるのではないでしょうか。

以上のところが著者の言によれば『快原理の彼岸』の中心テーマということになるそうです。ここで著者は私見を述べています。これまで死は生の反対概念、すなわちその否定として理解されてきました。死はあくまで生に付属するものであってそれ自体には自立した意味が認められないのです。生の影としての死のイメージは我々の観念世界に非常に強い根をおろしています。しかし、たとえ大雑把ににし生の影としての位置を与えられていようとも、死には独自の働きがあるのではないかということを著者は主張します。その意味でフロイトが死を「欲動」と捉えたことは重要です。通念に従って、死が単なる生の否定態であるなら、欲動として存在するのは生の欲動だけであって、死は単にその生の欲動の消失(否定)を意味するだけでよいはずです。ところがフロイトはあえてこの常識に逆らって、死にも欲動を与えました。これは、死というものが単に生の否定、終了、影ではないという認識の宣言です。欲動としての生と死は互いに拮抗し合います。この拮抗にはある種の力やエネルギーが必要であり、それに応じた力学やメカニズムが働くはずです。そこに、フロイトがメタサイコロジーを言う理由があります。メタサイコロジーというのは自然科学でもなければ心理学でもありません。それはディシプリンとしてはどこにも存在しない「学」です。それは既成の学問によっては捉えきれない死という独特な現象に迫るためのフロイト独自の想像力が生み出したSpekulationの体系なのです。

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